犬にとっての鎖

 ある日のことだ。仕事から帰ってくると、居間のテーブルの前で隆太くんが本を読んでいた。ハードカバーでフルカラー印刷の子供向け百科事典だ。

「あれ、また借りてきたの?」

 先週もたしか先々週もその事典を眺めていたのを見かけている。聞けば学校の図書室で借りてきたものなのだそうだ。裏表紙と背表紙には判やバーコードがテープで貼り付けてある。

 隆太くんが顔をあげる。

「おかえり」

「ただいま」

「全部読み切れなかったから」

 そう言ってまた視線を事典に戻す。その傍らにはマグカップ。中身は空だけど、おそらく誰かが何かを淹れてあげたものなのだろう。しかし肝心のその誰かがいなかった。

 まあいいやとソファに腰を下ろす。ずいぶん気に入っているのか、隆太くんは一ページ一ページ隅から隅まできちんと読んでいるようだ。なんだか懐かしい気分になる。私も小さい頃事典を読んだ。隆太くんのように隅から隅までとはいかなかったけれど、好きなページはよく眺めていたものだ。そういえばあの辞典類はまだ実家にあるのだろうか。捨てた覚えはないから、おそらく物置か押入れの奥だろう。

「………」

 目の前の男の子を見つめながら私は考えていた。

「……隆太くん事典好きなの?」

「うん」

「………」

 ――あれを実家へ取りに行くのはどうだろう。一冊の百科事典を何度も借りたり返したりを繰り返しているこの子に、少々古くはあるが数冊ある百科事典を所有させてあげたい。そうしたくてむずむずしてきたのだが、それでも私を躊躇わせるのは実家へ近寄りたくないからだった。父も母も妹も、あの人たちのことを考えるだけで謂れのない罪悪感に苛まれる。私はあの人たちを捨ててきたのだという罪悪感だ。ずっと私がなんとかしなくてはと思ってきた。私が頑張って家族をうまく取り持って良くしなければ、と。でも出来ないまま悪化の一途を辿る家族を捨てて、こうして逃げ出してきた。子供は子供の幸せのために、時には家族を捨ててもかまわないはずだと思う。思うけれどもそれが自分に当てはまるかどうかは別だ。むしろ自分に言い聞かせているのかもしれない。あそこから逃げ出してきても仕方ないことなのだ、私は悪くないのだと。

 しんとした室内。黙ったままの私に見つめられても気が散らないのか、隆太くんは黙々と字や写真を追っている。

「あれ、おかえり。帰ってたんだ」

 柔らかい声がして振り返る。美咲さんが居間に入ってくるところだった。いつものロングカーディガンを羽織っている。

「ただいまー。どこにいたの?」

「部屋だよ。着替えてたの」

「そっか……」

「どうしたの? 汐ちゃんもホットミルク飲む? はちみつあるよ」

「あ、うん、ありがと」

 どういたしまして、と美咲さんは台所へ向かう。隆太くんのマグカップに入っていたのもきっとホットミルクだったのだろう。

 美咲さんは棚からマグカップをふたつ出し、次に冷蔵庫から牛乳パックとはちみつのボトルを取り出して台所に置いた。カップに牛乳を注ぎながら、覗きこむように体が傾いていく。そしてカップを電子レンジに入れて温める時間をセットしてスイッチを押す。低い唸りをあげるレンジをよそに、牛乳パックを冷蔵庫へ戻し、洗い物を入れておくケースを探って木のスプーンを取り出した。やがてピーピーと終了を告げる電子レンジから出したカップにたっぷりはちみちを垂らしてスプーンでかき混ぜる。

 何ということもない、けれど穏やかに丁寧に行われるその作業を見ていると、やっぱり事典を取りに行こうという決心がついた。大丈夫。私にはもう、こうして私を脅かさず気持ちよく丁寧に暖かい飲み物を淹れてくれる人がいるのだ。ちょっとやそっとの事があったって、私はもう耳をふさぎ息を殺して部屋の隅で縮こまらなくてもいい。何かあっても美咲さんが優しく手を取ってくれる。明ちゃんが代わりに怒って、それから笑い飛ばしてくれる。木嶋兄弟が一緒にご飯を食べてくれる。大丈夫なのだ。

 口に出してふたりに伝える勇気は出なかったので、私は心のなかで必ず行こうと唱えて、美咲さんのいれてくれたホットミルクを力に変えた。

 

 

 行くのなら早くしないと、決心が揺らいでしまう。

 私は次の休日、さっそく実家へ向かっていた。実家へ行くことは誰にも伝えなかった。少し出てくると言って、駅まで送ろうかという明ちゃんの提案も断って。何故かはわからないけれど、どうしても言えなかった。隆太くんを驚かせたいという気持ちもある。でもそれだけではないはずだ。言うのがなんだか怖い気がした。心配されても応援されても居たたまれないような気が。

 今の家から実家までは、電車で三十分ちょっとだ。駅までは自転車で十五分ほどなので一時間かからず辿り着けることになる。心を無にして改札を通ったり電車を待ったりした。あまり物事を考えたくはない。さっと行ってさっと事典を探してさっと帰ればいいのだ。母と妹がいるかもしれないが、顔を合わせても事典を取りに来た旨を伝えればそれでいいだろう。何も考えず、何も感じないように心を目を逸らしていればさほどの苦痛はないはずだ。

 不安に濁る胸の内をそうなだめながら、なるべく思考しないよう電車の中では流れていく景色をことさらに見つめた。混雑してはいないが空いてもいない車内は座れそうな座席は見つからず、つり革をつかむ。家々の屋根が流れ去っていく。干してある洗濯物や布団、時折家事をする女の人が目に入ったりもした。このひとつひとつにそれぞれの家族があり、血のつながりがあり、幸や不幸があるのだと思うと急に泣きたいような気持ちにもなる。星の数ほどある家族の中で、どうして私は私の家族の一員となったのだろう。

 いつかは帰らなければいけないという気がどこかでしていた。あの家から逃げ出して、もう家族のことは一切忘れて、私は私のために心の軽いまま生きていきたいと思うのと同時に、胸の底の底、澱の中に逃げられるわけがないという失望のようなものの存在を感じてもいたのだ。それは諦めですらない、純然たる事実だった。逃げられないのだ。だって私はあの家で二十年と少しを生きた。あの人たちの娘として姉として、家族として生きていた。今だって住む場所が違うだけで家族であることに変わりはない。そこから私だけ何もかも忘れて逃げおおせるわけがない。それは自分が人間であり性別が女であることを忘れてなかったことに出来ないのと同じことだ。

 どこまで逃げたって何も変わらない。心はまだあの家に繋がれている。まるで犬の鎖だ。私は繋がれた犬なのだ。

 思考をしないのは案外難しく、緊張や不安にまかせてだらだらと考え続けていることに気がついたときには、すでに実家の最寄り駅だった。ここまで来てしまったらもう考えても仕方ない。ちらっとやっぱり誰かに一緒に来てもらえばよかったと後悔がよぎったけれど、それもすぐに打ち消して霧散させた。考えたって仕方のないことだ。今更だ。気合を入れると空回りしてしまいそうなので、何でもない風を装って駅を出た。自分をだますことも時には必要である。

 道すがら、母や妹と顔を合わせたとき、何を言おうかと考えていた。結局考えることをやめることは出来ないけれど、シミュレーションのひとつもなくいきなり彼女らと顔を合わせるのは危険だ。自分が何を言うか、何をしだすかわからない。私はただ事典を取りに来ただけなのだ。母に聞けば今どこにあるのかわかるかもしれないし、それを問えばいいだろう。妹は――そのことに関して役に立つとも思えないので、とにかく挨拶だけしてあとは何か聞かれればそのことになるべく手短に答えればいい。二人が探すのを手伝うと言い出したときは、二人の機嫌によっては断る。私のためだ。私には私の心を守る権利があるはずなのだ。家族相手といえども許されるはずだ。

 駅を出てから、駅前通り、それから住宅街を十五分程歩いて、とうとう実家前へとたどり着いてしまった。気合いを入れるため履いてきた新しいパンプスが音を止める。そうしてしばらくぶりに家を目の前にすると、ああ、私はこんなにもここへ帰りたくなかったのだという悲しい気持ちと、懐かしさと罪悪感が一挙に胸を襲う。私の捨てた家では、今この瞬間も父と母と妹が崩壊寸前の家族という形を保持している。

 何の変哲もない小さな一軒家だ。庭はなく、石ブロックの低い塀が敷地を囲んでいる。車止めと塀のわずかなスペースに置かれたプランターには、枯れてかさかさに乾いた無残なミニトマトの苗が倒れ伏している。二年程前、家族を和ませたい、和ませなければという一心で私が植えたものだ。結局それは誰のことも和ませはしなかったし、ようやく実ったミニトマトも数個が私と妹の口に入っただけで、何の意味もなさなかった。素人が植えるだけ植えたトマトは青臭いばかりで甘みもなく、全くおいしくなかった。

 虚しくなった私に放置されたミニトマトは誰に顧みられることもなくそのまま枯れ、こうして今も誰に処理されることもなく無残に死体を晒している。かわいそうなことをした。初めから植物など植えなければよかったのだ。その程度で和み、良くなる家庭ならこんな風にはなっていない。

 ドアの前に立つ。家の中からこれといった物音はしないが、耳を澄ますとかすかにテレビかラジオのような音が聞こえた。母も妹も留守ならいいのにと思っていたけれど、そうはいかないらしい。深呼吸をして気を落ち着かせる。大丈夫。何も嫌なことは起こらない。私は事典を取りに来ただけで、それさえ見つかればすぐに帰る。私のあの楽園へ。そうだ、私にはもう他に身を寄せる場所がある。そこでは何も怖いことはない。いつも優しい。いつも楽しい。そんな楽園さえあれば、と祈ったあの頃の私はすでに救われているのだ。

 最後に一度、ため息にも似た息を深く吐き出して、鍵穴に鍵を差し込んだ。あとはもう躊躇う隙もなかった。当然ながら鍵は簡単に回ったし、チェーンをかける習慣がないのは変わっていないし、ドアは引けばわずかに軋むような音をたてて開く。蝶番に油をさしたほうがいいと思う。

 ドアの開いて閉じる重たい音は、私の背を押し覚悟を決めさせる響きだった。帰ってきた、と。実家にではない。ここは私の戦場だった。戦うべきこの場所に、また帰ってきたのだ。

 靴を脱いで廊下に踏み出す。一年前までこうして毎日繰り返していたというのに、妙に重々しい感覚がする。緊張しているのだろう。まずは押入れから探そうと二階に上がる。階段は玄関からすぐのところにあるので、とりあえず居間にいるだろう母親とすぐに顔を合わせるということはない。

 階段を上がるのは気を使った。途中の何段かが踏むとかなり音を立てるのだ。そもそもあの重たい玄関の扉を開け閉めしたのだから、階段の軋む音が耳に入るのならあの音だってとっくに入っているはずで、いまさら潜もうとしたところで無意味だ。けれどそういうあれこれが癖となって身に染み付いている。母の喚き声から、父のため息から、妹の泣き声から身を隠したかったあの毎日。

 この家にいると、ようやく脱し始めたあの日々に引きずり戻されそうな気がしてくる。私はもうこれ以上、自分を責めたくはない。気をしっかり持とう。

 二階には部屋が四つある。私が使っていたものと、妹の部屋、両親の寝室、そして空いているけれど実質父が帰ってきたときに使っている部屋だ。その父が使っている部屋はフローリングの洋室のくせにクローゼットではなく押入れという謎部屋なのだが、物置代わりに使われていたので、実際事典があるとすればそこがいちばん確率が高いと思う。

 隣が妹の部屋なので私は音をたてないよう慎重に動いていた。癖でもあるし、やっぱり顔を合わさずに済むならそれに越したことはない。何にせよ実家のことを考えて訪れた時点で、私が家族に対する罪悪感に襲われることは決まっていた。彼女に会いたくないと思って感じる罪悪感など、数あるうちの一つなのだ。いまさら一つ増えたからといって何なのだ。

 勝手に憤慨しながら押入れを開ける。わずかに埃っぽいにおいが鼻をつく。客用の布団や、お歳暮でもらったのかタオルの詰まった未開封の箱、何が入っているのかわからないダンボール、使っていない布団カバー類、謎の衣装ケースなどあらゆるものが雑然と押し込まれている。まずは中身の不明なダンボールから開けてみよう、とそれを引っ張り出していると、控えめな音をたてて部屋のドアが開いた。埃臭いダンボールを抱えたまま、私は固まる。同時に観念もした。見つからないわけがないのだ。

「お姉ちゃん……?」

 この控えめな登場は母ではないな、と瞬間的に思ったとおり、現れたのは妹の千織だった。困惑しきりの顔をしている。それはそうかもしれない。出て行ったきり何の音沙汰もなかった姉が、泥棒のようにこそこそと押入れをあさっているのだ。

「た、ただいま……」

「……おかえり」

 パジャマ代わりの部屋着のまま、千織はぼんやり部屋の入口に立っている。私はそっとダンボールを下ろした。

「ドア閉めてくれない?」

「あ、うん」

 千織は自分は室内に残ったまま静かにドアを閉める。音を立てないという点では昔から妹のほうが巧みだった。

 これで母まで来たら私のストレス値が急激に上昇し心身に負担をかけることは間違いないので、ドアを開けたままというわけにはいかない。ただ玄関を開け閉めした音は聞こえているはずなのに、今ここまで無反応なのは不思議だった。居眠りでもしているのかもしれない。

 交互に折り重なって閉じられたダンボールを開く。中身は私や妹が小学校に通っていた頃の学校誌やプリントの山だった。事典は見当たらない。こんなもの捨てればいいのにと思うけれど、母が好きで取っておいているのだろうから何も言うまい。おとなしくダンボールを閉じ、押入れに戻す。その間、千織はただぼんやりとドアの前で立ち尽くしていた。私は次に下の段にある衣装ケースに手を伸ばす。

「お姉ちゃん何してるの?」

 衣装ケースを引っ張りだして蓋を開けようとしているところで、千織はようやく口を開いた。どことなく怯えか卑屈さのようなものが感じられる小さな声。これを聞いていると、私もこんなふうなしゃべり方をしているのだろうかと思えて怒りにも似た感情が沸いてくる。同じ育ち方をしたのだから同じ卑屈さを抱いていたっておかしくはないのだ。

「探しもの。百科事典、どこにあるかしらない?」

「百科事典……あの、昔買ってもらった三冊セットのやつ? 白いカバーの」

「そう、それ」

「それなら、私の部屋にある、よ……」

 衣装ケースの蓋をつかんだ手を止めて妹を見た。なぜ千織が。当時彼女が百科事典に興味を示していたような記憶はない。私ばかりが見ていたし、一緒に見たこともないはずだ。年を重ねて興味がわいてきたのだろうか。

 それにしても、彼女が使っているのなら取り上げるのも忍びないのだが。せっかく隆太くんにあげようと思ったのに。

「……見てるの?」

「たまに」

「……そう」

 本日は大変な無駄骨だった。これは予想していなかった。

 私は衣装ケースを押入れの中に押し戻し、襖をそっと閉めた。無意識のうちにため息をつきそうになり、直前に気合いで止める。苦しい。

 顔をあげると、千織が何か言いたげに落ち着きなく口を開けたり閉じたりしていた。体の前で合わせた手の先で、指も忙しなく動いている。

「どうしたの」

「あ、あの……百科事典、必要なの?」

「必要っていうか、誰も使ってないと思ってたから。持って行くつもりだったんだけど、あんた使ってるならいいよ」

 隆太くんには古本ででも探して買ってあげよう。もちろん新品でもいいのだが、木嶋兄が気にしそうだからやめておいたほうがいいだろう。とりあえず私はどうしてもあの子に事典を所有させたくて仕方がなかった。

 けれどこうして千織の前にいると、実の妹を放置して他人の弟を構い倒しているのはどう考えてもおかしい気がしてきた。大事にするならまず千織からだった。たぶん私が妹から逃げているからこそ、隆太くんをかわいがろうとするのだろう。罪滅ぼしにもならないのに。千織に対しても、隆太くんに対しても、私は失礼な嫌なやつだと思った。

 これ以上ここにいても仕方がない。むしろ母が現れる前に撤退するのが得策だ。

 妹を見捨てるのは心苦しい。けれど私に何が出来るというのか。彼女は不登校が続いているけれど一応学生だし(もしかしたら私が知らないだけで既に退学しているのかもしれないが)、幻聴や幻覚があって精神科にかよっている。千織を助けられるのは様々な薬やカウンセラーであって私ではない。かわいそうという、気分だけで下手に手を出すとこちらが参ってしまう。私はそこまでしてでも妹を助けようという覚悟がない。――私は木嶋くんにはなれない。

「……じゃ、帰るわ」

 言って、千織の横をすり抜けようとする。すると千織が慌てて振り返った。

「あ、ま、待って」

「なに?」

「事典、持っていっていいよ、あの、今取ってくるから」

「え、なんで、読んでるんでしょ?」

 驚いて目を丸くすると、千織は焦ったように首を振る。

「いいの、すごく楽しんで見てるってわけじゃないから」

「そうなの?」

「うん」

 少し長い前髪を留めるピンをしきりにいじる千織。落ち着きなく髪やピンに触れているのは緊張しているからだ。

 私は両親と接するときに緊張して神経を尖らせたりしたけれど、千織に対して緊張するということはなかった。でも千織は違うのだ。両親に対して、そして姉に対しても怯えて緊張する。本当にかわいそうな子だった。逃げるのは良くないことだと言う人もいるけれど、その逃げることさえ出来ない人間だっている。

 怯えるのは千織の中の問題かもしれないけれど、せめて私には怯えなくてもいいのだと態度で伝えてあげたいと思っていた。けれどそれだって思うほど簡単なことじゃない。千織は理由もわからないまま突然に泣くし、幻覚や幻聴が現れれば支離滅裂なことを言っては泣く。私が母のヒステリーから身を潜めて神経を尖らせているときに、千織が怯えて泣いていると本当に苛立った。

 彼女の精神状態に不調が現れ始めたのが中学に上がる少し前頃、私は十代後半で高校生だった。ただでさえ家族や家庭をわずらわしく感じやすい年頃なのに、私にはとにかくヒステリックな母親とたまに帰ってきてはうっとうしそうにため息をつくばかりの父親、そして精神不調で泣くか喚くか訳の分からない行動を取るばかりの妹がいて、本当に心底家族が嫌いだった。わずらわしかった。けれど育てて養ってくれている親を、そして血のつながった妹を嫌うなんて間違ったことだと思ったし、私がもっと頑張れば家族はうまく回って、母も怒鳴らなくなるかもしれないし父はもっと家に帰ってきて話を聞いてくれるかもしれないし、妹の病気もよくなって楽しめるようになるかもしれない。そう思ったし、そう出来もしないで家族を嫌うばかりの自分はわがままなのだと思った。こんな家庭環境であることの理不尽さに腸が煮えくり返る怒りと、何もうまく出来ないくせに怒って嫌うばかりの自分に対する嫌悪と罪悪感。とにかく家族がわずらわしく憎たらしいのと何かが少し変わればと期待してしまう愛情が入り混じって、あらゆる相反する思いに私はもうくたくただった。妹に優しく出来る余裕などどこにもない。

 きついのは私だけではなく立場を同じくする千織もだけれど、当然千織だけではなく私もきつい。お互いつらくて、でもそれを分かち合うことなど出来やしなかった。

 千織に歩み寄りたい気持ちはあるのに、それを躊躇わせるのは全てを背負えないという思いだった。私は千織を抱えては生きられない。彼女を守ってやれるのは私だけなのに、千織のそばにいるとこちらまでじりじりと頭の線が焼き切れていくような感覚がするのだ。そうしていつか私は母のように千織を怒鳴りつけるのだろう。

 どうしてだろう。私にだって私の楽しみや幸せを追求する権利はあるはずだし、それを求めて自分のために生きてもいいはずだ。なのにそうすると家族を、千織を見捨てることになる。どうしてこんなことになっているのだろう。どうして何もかも振り切って立ち去れないのだろう。

 取ってくる、と千織は部屋を出て行き、静かな空間に一人取り残される。急いでいるからか慎重な動作ではなかったのに、ドアを開け閉めする音はほとんど立てなかった。無性に泣きたい気分になる。

 千織はすぐに戻ってきた。両手に三冊の本を抱えている。子供向けの百科事典でおそらくA4判サイズと大きく、白いつるつるとしたカバーがかけられているものだ。汚れてはいないがもう十年以上前のものなのでどことなく褪せた感じがする。これで隆太くんが喜んでくれるといいのだが。

「本当にいいの?」

 差し出された事典を受け取りながら問う。三冊もあれば重さも結構なもので、大きめのトートバッグを持ってきたとはいえ持ち帰るのは少し骨が折れそうだ。

 千織は落ち着かなげに視線を彷徨わせ、けれどもどこか嬉しそうに頬を紅潮させた。

「いいの。持って行って」

「じゃあ、ありがと」

 事典を詰めたトートバッグを片手に下げると、ずしりと重い。ぶら下げるより抱えて行ったほうがいいかもしれない、と考えながら歩き出す。と、千織が慌てたように声をかけてきた。

「お、お姉ちゃん」

「なに?」

「あの、あのさ……」

 口を開けたり閉じたりしながら、忙しなく前髪を触りピンを留めなおす。私は妹の言葉を辛抱強く待っている。早く帰りたくて気ばかりが急くけれど、なるべくそれが千織に伝わらないよう穏やかさを装った。

「あの、おばあちゃん家はどう……?」

 意を決したわりには些細な質問だった。

「どうって……隙間風はあるね。あと電球替えても廊下はなんとなく古ぼけた感じがする」

「そ、そうなんだ」

「うん」

「………」

「………」

 会話は続かない。千織はなにか言いたいことがあるのかそわそわしているけれど、何を言いたいのか、何が聞きたいのかわからなかった。当然だ。私たちは以心伝心にはなり得ない。このまま黙っていられるのも困るので言葉を付け足した。

 早く帰りたかった。自己防衛機制が淀みなく働いて、私をここから一刻も早く立ち去らせようとしている。そのこと以外頭に浮かばなくなってくるのだ。とにかく場を収めてこの家を出ること以外。

「電球のかさも替えればいいのかもね」

「うん……えっと、す、隙間風のほうは?」

「隙間風? ああ、隙間を埋めるスポンジみたいなやつあるじゃない。テープ状の貼り付けるやつ。あれ使ったらだいぶ良くなった」

「そ、そっか。住みやすい?」

「どうかな。単純に何もかも古いからガタが来てるところも多いし、快適な居住空間とは言えないかもね。でもまあ、住めば都」

 千織はなぜかほっとしたようなさびしいような、微笑みに似た表情を浮かべて頷いた。トートバッグを持った右腕がかなり疲れてきて、左手に持ち替える。

 千織はもう口を開きそうになかった。いや、またしばらく待てば何か言ったのかもしれないけれど、私にはもうそれを待つ気持ちの余裕が完全に失われていた。いまや全開になった自己防衛機制が私を支配しているのだ。やっと帰れるとほっとする気持ちと、ほっとした自分に対する罪悪感。けれどそれすら今は頭の片隅に追いやられる。早く帰ろう、と楽しみにしていた遊園地へ両親を引っ張っていくような小さな子供が私の気持ちを引いている。

「じゃあ行くね。事典ありがと」

 千織が何かを言いたげに私を振り返った気がしたけれど、ろくに顔も見ないまま廊下へと出て階段を降りた。私はただただ、嫌な思いをする前にこの家を出られることばかりを願っていた。

 

 

 母が私の気が付かなかったのは本当に僥倖としか言い様がない。気づいていたけれど顔を出さなかっただけなのか、うたた寝でもしていたのかそれはわからないが。でもこうして娘に避けられている母親を思うとすごく申し訳なくも思った。どうして私は手放しで母を愛せないのか、と。

 重たいトートバッグを抱えて電車に揺られる。行きとは違い、気は軽くなっているけれど心はどんよりと重たかった。事典三冊にも負けないほどに。

 どうしてああも立ち去ることばかりが心を占めて、支配を許してしまったのだろう。千織はきっと私と他愛のない雑談がしたかったに違いない。今ならそのことに思い至るのに、時既に遅い。私は千織を置いて出てきてしまった。

 家に閉じこもっている千織には、話し相手と言えば母親と二週間に一度会う精神科の先生くらいだ。さびしさからなのか、退屈からか鬱屈からかはわからないが、彼女のその切実なる望みは私がもう少し配慮すれば満たされることだった。千織にとってささいなおしゃべりが出来るのは、母親でも医者でもなく私なのだ。私の存在も母親や父親と同じく彼女に緊張を強いるもののはずなのに、それでもなお願い望みを持って慕おうとしている。

 もうこの家を出てから一年経っているのに、罪悪感はいまだ私を強く苛む。そして私にはまだ、この罪悪感を受け入れ続けるか、それとも家族を背負っていくのかどちらにも身を投じる決意ができないままだ。どうすれば罪滅ぼしになるのか、それをずっと探している。壊れた家族に対して、それを捨てたことに対して、そしてその廃墟の中に小さな千織を置き去りにしたことに対して。

 電車内はとても静かだ。昼時を過ぎた町の景色は、私を見捨てるようにどこまでも穏やかだった。

 

 あの重たい事典をカゴに乗せて、山を自転車で駆け上がるのは非常に困難な道程だった。山道を漕いで上がることにだいぶ慣れたこの足でも、百科事典三冊の負荷はきつい。這々の体で家に辿り着いたら、玄関先に軽装のみんなが勢揃いしていた。美咲さん、明ちゃん、隆太くんはもちろん、家を出るときにはいなかった木嶋くんまでいる。

「お、お出迎え?」

 息を切らしながら問いかけると、みんなの視線が一斉にこちらを向いた。

「あら、帰ってきたの」

「おかえり。あはは、息切れすごい」

 私のお出迎えとは思えない淡白な反応だ。

「みんな何してるの?」

「これから洗車するのよ! 天気も良いでしょ」

 玄関前には明ちゃんの車と木嶋くんの車が並んでいる。ぼんやり空を見上げると、透き通った水色が広がっていた。ずっとずっと高いところまで透き通っている広い空。小さな薄雲が浮かんでいる。こんなに気持ちのよい天気であることに、今はじめて気がついた。

 玄関の短い石階段に腰掛けた木嶋くんが笑いながら私を呼ぶ。

「なんでそんな疲れてるの。こっち座りなよ。何か飲む?」

「あ、うん……」

 私はまだどこか呆然としながら自転車を止め、よろよろと階段へ近づいた。気が抜けて、力が入らない。なかば尻餅をつくように座れば、木嶋くんは待っててと家の中へ入っていく。

 他のみんなはさっそく洗車を始めていた。ホースを玄関横の蛇口につなぎ、先端のシャワーヘッドから雨のように水が車に降り注ぐ。跳ね返る水滴を浴びて美咲さんが声をあげながら逃げた。隆太くんは手にしたスポンジにワックス入りの洗剤を塗りつけている。

 非常に牧歌的で、どうということもない日常の光景だった。けれど私は本当に心底ほっとしていた。疲れてひび割れた心にお湯が染みこんでいくようだった。枯れた土地が魔法で急速に生き返るみたいな感覚だ。世界の色がはっきりと見える。

「はい、麦茶でよかった?」

 木嶋くんが麦茶をなみなみと注いだ私専用のマグカップを持ってきてくれた。こぼさないようそれを慎重に受け取ると、急に喉の渇きを思い出す。

「ありがとう」

 言って、マグカップにくちをつけると半分以上を一気に飲み込んだ。そして大きく息を吐く。ため息に似ているけれど、ため息とは全然別のものだ。なんだかようやく人心地ついた気がした。木嶋くんが楽しげにこちらを見ている。

 

 

 洗車を終えて、みんなで家の中へと戻る。なぜか美咲さんと隆太くんは服までずいぶんと濡れていた。さすがにそのままでは風邪をひいてしまうので着替えるようだ。それぞれ部屋へ向かった。

 私は自転車のカゴからあの重たいトートバッグを居間まで運んだ。明ちゃんと木嶋くんの視線がそれに注がれる。

 どすん、と音をたててテーブルに置くと、木嶋くんが不思議そうに尋ねた。

「なにそれ?」

 ふふ、とつい得意げな笑みを漏らしながら中身を取り出す。コンロにやかんをかけていた明ちゃんもいそいそと近づいてきた。

「あら、なあにこれ。百科事典じゃない。子供用?」

「うん、私が子供の頃買ってもらったやつ」

「えっ、じゃあ佐伯、実家に取りに行ったの?」

 頷くと、二人はそれぞれ目を丸くして騒いだ。こういうときに無口にならずしゃべり倒すところはこの二人似ている。

「ちょっとあんた本当なの?! なんで黙って行ったのよ! あたし車出すって言ったのに!」

「あんなに嫌がってたのに急にどうしたのさ、何かあったの?」

「ほんとそういうところあんたの悪い癖だからね!」

 わあわあと詰め寄られていると、着替えを終えた隆太くんが静かに居間へ入ってきた。救いを求めるように彼に手を伸ばす。

「隆太くん助けて!」

「どうしたの」

「いじめられているんだよー」

 殊更に哀れっぽい声で訴えると、案の定明ちゃんの甲高い声が飛んだ。

「誰がよ!」

 あんたいい加減にしなさいよ、とぷりぷりした明ちゃんに怒られていると、隆太くんがテーブルの上の事典に気がついた。そっと手を伸ばして表紙に触れる。

「これ……」

「あ、そうそう、それね、隆太くんにあげる」

「えっ」

 隆太くんと木嶋くんの驚きの声が重なった。あどけない隆太くんの声はとてもか細かったが。

「読み終わるまで図書館で借りては返してって繰り返すの大変でしょ? 私の小さい頃のものだからちょっと古いし、情報も古い部分があるかもしれないんだけど、それでもよければ貰って」

「いいの佐伯? こんな立派な本、三冊も……」

 隆太くんより先に木嶋くんが反応する。その弱り切ったような遠慮も予想通りだ。

「いいよ。むしろ十年以上前の本だからかえって申し訳ないんだけど」

「そんなことないよ! これのためにわざわざ実家まで行ってくれたんでしょ? 俺は今猛烈に感動してるよ」

 輝いた目で木嶋くんは手を合わせる。木嶋くんに拝まれるのは二度目だが、今度は前のように嫌な感じはしなかった。断れず流されるまま受け入れたあの時とは違って、今回は私の意志でとても頑張ったからだ。ずいぶんとぐずぐずしたけれど、まあそのくらいは許そうじゃないか。だって隆太くんが、隆太くんの目が、兄に負けないくらいキラキラ光り輝いてる。あの頑なでまっ平らな瞳が。

「ほら、隆太! お前もちゃんとお礼言え!」

 木嶋くんが隆太くんの頭を押さえる。けれど隆太くんはそのままゆっくりと視線を私に向けた。どこか呆然とした、いろんなものがすとんと落ちてしまったようなまっさらな表情だった。彼はそっと口を開く。

「汐美ちゃん」

 囁くような声だ。

「ん?」

「もらっていいの?」

「いいよ。隆太くんがいいのなら、それはもう隆太くんのものだよ」

「三冊とも?」

「うん」

 そうして噛みしめるようなまばたきのあと、隆太くんは笑った。頬を赤く染めて。

「ありがとう、汐美ちゃん」

 それは私の胸を、心を掴んで柔らかく抱きしめるような特別な微笑みだった。抱きしめられて喉が詰まって、幸せな息苦しさが迫り上がって目元が熱くなる。視界が滲んだ。

 あんた良いとこあるじゃない! と明ちゃんに肩をばしんと叩かれて、私の目からは一粒涙が滴った。その明ちゃんの目も、ずいぶんと潤んでいたことを私は見逃さなかった。楽園にこれ以上なくふさわしい、温かな涙だった。

 一足遅れてやってきた美咲さんは隆太くんのほころぶ花のようなかわいい笑顔を見逃して、大変に悔しがった。

「ずるいずるーい! 私も隆太くんが笑ったところ見たいよー!」

 そう駄々をこねて、腕の中に捕まえた隆太くんの顔に何度も頬ずりをし、私たちみんなを大笑いさせた。隆太くんはむずがりながらも、以前とは違う受容の空気を見せている。

 私たちはこうして、家族でないのに家族でもあるような、ひとつ屋根の下の暮らす者同士で育まれるありふれていて特殊なある形へと近づいていくのだ。

 


 

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