第三夜 「三界に家なし」
何かの小説かエッセイかで読んだのだと思う。女は
そんなのは、せいぜい昭和までの話だと思っていた。三界などといわれても、それが何を意味してるのかなんて、きっと誰もわかりはしないこの現代に、そんな話があるはずがないと。
けれど。
元の理由も由来もわからないままに、なぜか習慣だけは残り続けるということも、ままあることなのだ。
が、わたしの友人夫婦はそうではなかった。不妊治療に苦しみ、金銭的な苦しみを訴えながらも、赤ちゃんさえできればきっと幸せになれると信じて健気に頑張っていた友人に、残念ながら最後通告が出された。
「君のことは愛してる、けど」というわけだ。御大層な名家でもあるまいに。
その数年後に親友は再婚して子を儲けた。正確には授かり婚で結婚した。「できちゃった結婚でもなんでもいいよ。初婚でもあるまいし」と彼女の母親が豪快に笑ったと話を聞いて、痛快なお母さんだね、と本心から言ったのを覚えている。結局のところ、コンプライアンスとかくそくらえ、だ。
さて。友人の話はさておき、いまわたしにも危機が迫っていた。家の滅亡とか、慣習とか関係なしに、子供はいらない、といっていた夫がよそで子供を作ったことにより、離婚を懇願されている。
この、懇願されている、というのがポイントだろう。君に問題があったわけじゃない、過ちを犯したのはぼくの方だ、だが、彼女には、彼女と生まれてくる子供には父親が必要なんだ、というわけだ。
慰謝料も払うという、君のことは愛してるという、だが、それでも子供ができてしまったからには責任をとらないと、とのたまう。
責任とはなんなのか。
浮気をするならするできちんと避妊をすることを責任というのではないか。
誰にだって過ちはある。その過ちが許せるかどうかはべつとして。
もし心変わりをして子供が欲しくなったというのであれば、まずわたしにそう伝え、わたしがにべもなく断ったときに
そして、子供が欲しい自分と子供が欲しくない君とでは価値観が合わないのだと。そう言ってくれたなら——
いや、わたしも正直に話すべきだろう。
わたしは小さい頃夢を持っていた。王子様に求婚され、幸せな結婚をし、たくさんの子供たちや孫たちに囲まれて、わたしはなんて幸せだったんだといって大往生する。子供らしさのカケラもないくせ、いまとなっては結構わがままな夢。
それをあきらめたのは、子供なんていらないという彼に、嫌われないよう、捨てられないようにむりやり価値観を相手に寄せた結果だった。
女は
そんなものは、子供には魂が存在しないと決めつけたどこかの宗教と同じような、時代によっていくらでも変わる一過性の価値観にすぎない。
だが、わたしはこの世界に生きていて、そんなのくだらない、いまだけの価値観だとうそぶいたところで、やっぱり幸せなんて訪れないのだ。
「結局、幸せってなんなのかな?」
子供を親に預け、いそいそと出向いてくれた友人に、わたしはさして期待もせず問いかけた。
友人は軽く片眉を上げたあと、小さくため息を吐いた。
紅茶専門店のアフタヌーンティーセットは、お値段以上とは思えなかったが、コスパとはまた違う満足感を与えてくれる。
「幸せって、結局本人が『いまは幸せだなあ』と思えるかどうかなんじゃないの? その積み重ねというか」
「いまは幸せだと思ってたとしても、裏切られるとかあるわけじゃない? それも幸せなの?」
彼女はフォークの先をわたしに向けながら、言った。
「裏切られたから本当は不幸だった、とかそういう考えが不幸のもとだよ。その時は幸せだった、でも裏切られたから急に不幸になった。それでいいじゃない」
確かにそれはそうだ、とわたしは笑った。
「バカな男に騙された、と思うから腹が立つだけで、バカな男だからこそその時は本気でそう言ってたし、バカな男だからこそ自分でも何いってるかわかってないんだと思えば腹も立たないか」
「結局さ」
彼女は諭すふうでもなく、つぶやくように言った。
「自分で選んだ、自分が望んだ、そう思わない限り、後悔はできても反省もできないし、誰かにぶーたれて同じこと繰り返すだけなんだよ。男女問わず、ね」
わたしは思わず訊ねていた。
「ねえ、あなた、幸せ?」
「いまはね」と彼女は笑った。
屈託のない、おそらく本音だろうと思える笑顔だった。
たとえ三界に家がなかろうと、家がないこと以外幸福と思えるのならば、それは幸せなのだ。ないことを嘆くより、いまを生きている喜びを噛みしめるべきなのだ。
そこから、初めて自分の人生を歩み始めることができるのではないか。
「わたし、離婚するわ」
ようやく口にすることができた。
いいねえ、と彼女は言った。「ふんだくれるだけふんだくってやれ。金はいらないとか、そういうかっこつけなんて腹の足しにもならんわ」
「わたしも授かり婚とかできるかな?」
「授かり婚はわからないけど、子供作ることぐらいはできるんじゃない? まあ、あと数年ってとこだろうけど」
「辛辣だねえ」
「辛辣かなあ」
一瞬の間の後、ふたりで声を出して笑った。多分、こういう時間が持てること、こういう時間を共有できる相手がいること、それが幸せということなのだろう。
たとえ、この先、彼女に手酷く裏切られたとしても。
この瞬間は、嘘ではない。
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