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 下校中に僕は色々と考えてみたが、松永先輩の要求はやはりハードルが高い。「渡辺恵人についてよく調べておけ」と簡単に言われても、時間も限られているし、詳細な調査などどうやってすればいいのか? そもそも、客観的に見て、僕が渡辺についてあれやこれやと聞きまわるのは不自然だ。クラスメイトの誰に聞いても、多分不審がられるだろう。恐らく、渡辺について一番詳しく知っているのは藤村と志村さんだろうが、この二人に不審がられることこそ今は最も避けたいことだ。それに、藤村もそうだが、志村さんが本当に僕に嘘を吐いていたとして……その上で、渡辺についていろいろと聞いてみたところで、本当のことを話してくれるか疑わしい……

 と、そのとき、携帯の着信があった。渡辺恵人からのメールだ。忘れていた。問題集についてどう言い訳しようか。


〈件名:Re 問題集の件

本文:問題集の件ですが、どうなりましたか?

そちらはもう放課後ですよね?〉


 どうもなりませんでした、とは言えない。どうしよう。


〈件名:Re Re 問題集の件

本文:ごめんなさい。今日は体調不良で一日休んでしまって。明日は登校できそうなのでそれまで待ってください。〉


 僕は考えられるうちで最も愚鈍な言い訳をしてしまったことに、送信した後で後悔した。こんな嘘、誰かに確かめられたらすぐにばれてしまう……しかし、もし渡辺が僕の言葉の真偽を確かめるとして、いったい誰だれから証言を引き出そうとするだろうか? 状況的に藤村はなさそうだ。志村さんなら、あり得るかもしれないが……やっぱり一番有り得るのは瀬戸か? ……彼は渡辺とある程度交友があったようだが、本件に絡んでいる様子はあまりない。

 いや、待てよ。そうだ、瀬戸がいるじゃないか。彼は僕のメアドを勝手に渡辺に教えている。そのことを話のきっかけにして、うまく渡辺のことを聞き出せるかもしれない……そうだ、そうしよう。さっき送信したまずい言い訳のメールについては、とりあえずウソがばれたときに考えればいい。渡辺が僕に疑いをかけるとも限らないからな。

 と、また携帯に着信。


〈件名:Re Re Re 問題集の件

本文:わかりました。お大事に。〉


 そうだ、それでいい。そもそも僕は頼まれている側だ。渡辺もそう強くは出られまい。なんなら、「実はうっかり忘れてました。嘘を吐いてごめんなさい」なんて言っても済むような立場なんだ。



 次の日、僕は松永先輩に指示されたことを反芻しながら登校した。ちゃんとメモをしておくべきだったか。記憶力には自信があるが、少し不安になる……確か要点はこうだった。「一つ、渡辺恵人の人物像。二つ、渡辺が不登校になった正確な日付。三つ、川井が休職した正確な日付。四つ、藤村、志村、渡辺の関係性。五つ、席替えの経緯。六つ、問題集の在処」

 改めて数えてみるとなかなか多い。

 六つ目の問題集の在処は、放課後の演劇部見学の際に志村さん本人に直接確認すればいい。問題は残りの五つだ。渡辺に関連することは瀬戸に聞くことにした。席替えの経緯も彼なら知っているだろう。ただ、松永先輩が求めている「正確な日付」まで覚えているかどうかは定かではない。


 午前の最初の授業は体育だった。朝一番で汗をかかなければならないというのは不愉快極まりないが、今日に限っては僥倖と言うべきかもしれない。

 その日の体育の授業はバレーボールだった。いくつかのチームに分かれてローテーションで体育館のコートで試合をしたのだが、僕と瀬戸は折よく同じチームだったので、他のチームが試合をしている間、体育館の舞台の縁に座って僕たちはそれを一緒に見学することができた。話を切り出すにはちょうど良いタイミングだ。

 さっそく僕は瀬戸の隣に座る。


「よお」

「ああ、よお千羽。同じチームだな、足引っ張るなよ?」

 瀬戸が悪気なくからかうようにそう言う。

「それはちょっと、請け合えないな……」

「なんだよ、お前もしかして運動音痴か? まあ気にすんなって、俺がいれば百人力だぜ」

「それは心強いな……ところで」

 ん? と瀬戸が首をかしげる。

「渡辺恵人ってどんなやつなんだ?」

「え、どうしたんだよ急に」

「いや、その、この間その渡辺って奴から突然メールがあってさ。話に聞いたところじゃ、もともと俺の席に座ってたんだろ? てか、勝手に俺のメアド教えんなって」

「ああ! そういうことか。わりいわりい。そういえば俺も不思議だったんだよ。どうしてあいつが千羽のメアドなんて知りたがるのかなって。藤村とかとの繋がりで会ったことでもあるのかなって思っていたが、違うのか?」

「いや、ないな」

「へえ、じゃあますます不思議だなあ。てっきりお前に気でもあるんじゃないかと思ってたんだけど……ハハハ、会ったことないってんなら流石にそれはないか!」

「いや、待てよ。渡辺ってそもそも女子なのか?」

「え、そうだけど……それすら知らなかったのか。まあ、確かに男に間違われやすい名前かもしれないけどさ」

 まさか本当に女子だったとは……

「で、その渡辺ってどんな奴なんだよ?」

「どんな奴って、うーん、どうだろう。成績がよくて、藤村や志村と幼馴染で……そんで、ある日急に学校に来なくなった。まあ、俺もそんな長い付き合いじゃないからよくは知らないけど、別に普通の優等生って感じの女子だったけどなあ」

「いつから学校に来なくなったんだ? その日付とか、さ」

「さすがに日付までは覚えてないけど……川井先生が来なくなる直前だから、7月の最初の週あたりだったと思うぜ。て、どうしてそんなこと聞くんだよ」

 僕は適当な理由をでっち上げる。

「いや、ただ気になっただけだよ。突然メールが来てさ。最近の志村と藤村がどんな感じかって聞かれたんだ。うまくやれてるか? って。直接の面識はないけど、多分俺と藤村が仲良くなったのを知ったんだろうな」

 そういえば、どうして渡辺は瀬戸が僕のメアドを持っていることを知っていたのだろうか? もしかすると、藤村や志村さんが、渡辺に僕の話をしたのかもしれない。

「へえ、そうかあ、うーん」

 そんなことを考えている僕の横で、瀬戸が唸り声を上げる。

「どうかしたか?」

「いやあ、あの三人、なんだか怪しいだろ? つまり、その、三角関係ってやつ? 俺も良くあの三人と一緒に遊んだりしたけどさ、なんだか時折俺だけ蚊帳の外って感じになってさ……」

 と、瀬戸が声を潜める。

「多分だけど、藤村って渡辺のことが好きなんだ。でもって、志村は藤村に気がある……」

「ほんとかよ?」

「まあ、俺の勝手な想像だけどな。ただ、幼馴染って言葉だけじゃ説明しきれない、中々複雑な関係があったのは明らかだよ。仲がいいってことには変わりないんだろうけどさ」

 極めて重要な情報だ。しかし、志村さんが藤村を……? いや、今ここで私情を挟むのはよそう。まだ聞かなければならないことがある。


「あ、それとさ、俺先週から気になってたんだけど、くじ引きで今の席になったって本当か?」

「ああ、そのことか……千羽も藤村から少しは聞いてるだろ? 川井先生のこと」

 僕は頷く。

「つまりそういうことだよ。くじ引きなんてしてない。藤村の提案であの席順にしたんだ。ほら、川井先生が挨拶に来ただろ? そのお膳立てだよ。夏休みが終わってすぐ、萩城先生が来る前に席を変えておいたんだ。藤村が皆に頼み込んでさ……まあ、事故のこともあったから、藤村も必死だったんだ。そんな空気だから、皆もみんなで、協力しないわけにもいかなくてさ」

「そういうことだったのか」

「千羽も驚いただろ? 急にあんなことに巻き込まれて……」

「まあ、驚きはしたけど、悪くないとは思う、そういうのって」

「うん。そうだな、悪くない。だからみんな協力したんだ……」

 でも、と、すこし言いにくそうにしながら、瀬戸はつづけた。

「あんまり、渡辺のことは気にしないでやってくれよ」

 どういう意味か聞き返そうとしたそのとき、丁度ホイッスルが鳴った。

 チーム交代の合図だ。

 行こうぜと、瀬戸が僕の肩を叩く。

 僕たちのチームは全試合で完敗したが、それは僕だけのせいじゃない。瀬戸がポンコツだった。サーブを失敗するたびに舌を出しておどけて見せる彼の顔が嫌に記憶に焼き付いた。



 その後、僕はあることを思いついて、日直の生徒に頼んで学級日誌を見せてもらった。

 そこには担任教師のサインと欠席者の名前が記載されていた。早速僕は七月初の記載を調べた。

 7月5日から渡辺の欠席が続いていた。そして、担任のサインが7月14日から別の人物に変わっている。

 つまり、そういうことだろう。

 これで、とりあえず昼休みまでのノルマは達成したということでよいのではないか。



 昨日と同じく、午前の授業の終わりとともに、すぐに僕は第二音楽室へ向かった。

 扉の前にはまだだれも来ていなかったが、すぐに老川先輩が、そして少し遅れて松永先輩と羽生田先輩が連れ立ってやって来た。

 部室に入ると、例のごとく松永先輩が昼食をとりはじめたので、今回は弁当を持参していた僕もそれに倣って食べ始めた。羽生田先輩も同じように弁当箱を取り出すと、松永先輩の隣の席で食事を始めた。老川先輩だけは立ったままシリアルバーで手早く済ませていた。


「あれ、部長、弁当箱変えたのか?」

 老川先輩は言うと含み笑いをした。

「ほんとですねえ。あれかわいかったのに!」

 松永先輩の弁当箱は柄の無い素朴なものに変わっていた。

「いつまでも子供みたいに小さいと思っていたが、部長もとうとう大人への第一歩を踏み出したってわけか。感慨深けえ……」

「めでたいですねえ。今晩はお赤飯かな?」

 羽生田先輩も悪ノリする。

「私は食事中に気分を害されるのが一番腹立たしいんだ……これ以上私を怒らせるなよ」

 松永先輩の声には殺意がこもっていた。これにはさすがの二人も身をのけぞらせて押し黙った。確かに、今のはかなり怖かった。


 程なくして全員の食事が終わった。

「では、さっそくだが……誰から話してもらおうか」

「じゃあ、私から」

 と、羽生田先輩が名乗り出た。

「ええと、確か外傷性の健忘についてですよね? ネットで読める論文や症例なんかを中心に漁ってみましたが、頭部への外傷に伴う健忘は確かに有り得るみたいです。ただ、殆どの場合がほんの短期間の逆行性健忘、つまり、数分から数時間の記憶を失うくらいで、稀に長期間の記憶を失うことがあっても数日間の記憶を失う程度のようです。それに、長期間の健忘であっても、比較的短期間で記憶を回復する場合が多いとのことでした」

「つまり、今回の川井の件のように、運動中の事故で数か月分の記憶を永続的に失い続ける、ということはまずないと考えていいのか?」

「うーん、そうですねえ。私はお医者さんじゃないので断言はできませんが、調べた限りではそういうことみたいです」

「ごくろう……」

 言うと、松永先輩は白杖を手に取って柄の部分を顎に当て目を閉じると、思案するように心持ち首を傾いだ。

「最初に話を聞いたときから馬鹿げたはなしだとは思っていたが……とかく我々はここに一つの有力な仮説を得た。つまり、川井の記憶喪失が全くの嘘だったという仮説だ。だとすると、事故が起きたという話自体も怪しくなってくる……この仮説を真としたとき、これまで我々の抱いてきた疑念に何か納得のいく帰結を与えることはできるかね? 千羽」

 僕は少し思案してから、慎重に口を開いた。

「はい、少なくとも、藤村が顧問やコーチの監視も無しに、僕の前で一人で演技をして見せたことの違和感は払拭できると思います。もし藤村の言う通り、川井先生のケガの原因が藤村との個人レッスン中の事故だったとしたら、先生が別れの挨拶に来た次の日にそんなことをするのは、老川先輩が言ったみたいに、すごく無神経なことですし、他の場所で見せた藤村の配慮や親切さとも合致しない。でも、初めから事故そのものがなかったのだとしたら、そういう彼の行動にも納得がいきます」

「よろしい、正しくその通りだ。さらに言えば、この仮説が正しければ、藤村だけでなく、事故や記憶喪失のことについて、川井自身も一緒になって嘘を吐いていたことになる。渡辺の言う二人の計画もしっぽを見せ始めたな……では次に、そうだな、老川、きみの話を聞かせてくれ」

 言うと、彼女は後ろに立っていた老川先輩を白杖の柄で指した。


「ああ、分かった。ていうか、めちゃくちゃしんどかったぜ?」

「分かったから早く言いたまえ」

 老川先輩は舌打ちをひとつすると続けた。

「はあ。まず現状の体操部についてだが、この間も話した通り川井がいなくなってからは無期限休止中だ。生徒だけの活動も禁止されている。同じクラスの体操部のやつにも実際に話を聞いてみたが、今は誰も何もできない状態で相当暇みたいだ。藤村が千羽に部活見学させたっていう件についても話してみたが、驚いていたよ。まさか、ってな」

 見学のことを話すのはちょっと藪蛇だろう、とも思ったが、この人のことだから仕方ないか。

「で、藤村の部活内での立ち位置についても聞いてみたが、特になんてことはない。練習には熱心だったようだが、それくらいだ。あと、渡辺も同じ部にいたらしい。あの渡辺恵人だよ。やっぱり女子だったみたいだ」

 僕は頷いた。

「はい、俺もクラスメイトからそう聞きました」

「渡辺も藤村同様に練習には熱心で、川井もその熱意に応えて活動日以外にも指導してやっていたみたいだ。それから、いちおう広田にも話は聞いたが、確かに今は活動は中止、というか、禁止しているらしい。名簿も見せてくれたよ。部員は全部で七名。三年は既に引退しているみたいだ。女子部員は渡辺の一人だけで、男子も一年だと藤村だけみたいだ。ちなみに、前学期まで二年生にもう一人女子がいたみたいだが、川井がいなくなったのと同時に辞めてる。僕のクラスの体操部員曰く、その女子は川井目当てで入部したそうで、練習にも身が入っていなかったって話だ。まあ、川井のことだからそんな女子が寄ってきてもおかしくはないな」

「広田先生、名簿まで見せてくれたんですね」

「まあ、その辺テキトーだからな、あの人……」

「ところで、老川のクラスメイトの体操部員は、川井の退職理由について何か言っていなかったか?」

 松永先輩が質問する。

「ああ、それについてだが、僕たちと同じで実家の都合としか聞いていないようだ。まあ、それについて部内では色々と憶測が飛び交ったらしいが、それについて詳しく聞いても事故の話なんて一言も出てこなかったな。あんなにいい先生が辞めて残念だ、実家の都合と言うがどうにかならなかったのか、と、そんなことばかり言っていたよ。と、まあ、僕の話はこれくらいだ。大した情報はなかったな」

 言うと、老川先輩は両手をポケットに入れて壁に凭れた。

「いや、けっこうだ。記憶喪失の件が部内でも共有されていないということが分かっただけでも大きい。それに、渡辺は体操部員だったのか……」


 では、と松永先輩が言うと、老川先輩と羽生田先輩の視線が僕に向けられる。

「最後は千羽、きみだな。さあ、頼んだ」


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