1-12


 松永先輩は僕に「16時半きっかりにまたここに来い」と言って、一度僕を帰した。

 僕は教室には戻らずに、三棟校舎の裏口の階段に腰かけて昼休みが終わるのを待った。弁当箱は教室に置いたままだったから、その日僕は昼食を食べそびれたことになる……が、それは自分が決めたことだ。

 何となく、今はひとりになりたかったし、不思議と空腹も感じなかった。


 三棟校舎の裏口は学内全体の北端にあって、そのすぐ先には金網があり、向こうには丁字路と閑静な住宅街が見える。

 野良猫が一匹どこからかやってきて、僕をじっと観察してから、金網の向こうへ逃げていった。次に、男女二人組の生徒が校舎の角から現れたが、僕を厭わしそうに一瞥すると踵を返して戻っていった。

 この場所は日が当たらないから涼が取れる。モルタル造りの階段もひんやりとしていて気持ちがいい。もちろん、空調の効いた室内の方が快適には違いないが、たまには独りでここに来るのも悪くはないだろう。さっきの二人の場所を奪うことになるかもしれないが、ひとつの場所を占有するにはそこに孤独の根を深く下ろしておく必要がある。根無し草のような境涯の僕にしてもそれは同じだ。小学生のとき、朝顔を育てる授業で習ったが、複数の種を点撒きして、育ちの悪いものを間引くのは園芸の基本だ。学校も丁度それと同じような場所だ。最後に残るのは孤独に強いもの。群れれば人間は弱くなる。弱い人間は間引いてしまえばいい。さっきの二人も間引いてしまえ。独りで生きられないのなら……社会とはそういう場所だと、この同じ穴の中で、間引かれる前にせいぜい学ぶことだ……


 予鈴が鳴った。ここからだとすぐに教室に向かわなければ次の授業に間に合わないだろう。僕は重い腰を上げ、速足で歩いた。

 少しく汗をにじませた僕が席につくと、藤村が不思議そうに問うてきた。

「何してたんだ?」

 僕は無言のまま、微妙な笑みだけを返して誤魔化した。藤村は更に不思議がって首をかしげていたが、それ以上は何も聞いてこなかった。それが普通だ。他人の事情に首を突っ込みすぎるのは不躾なことだし、ややもすれば孤独も弱って……間引かれてしまう。

 僕のしようとしていることは恐らくは間違えている。しかし、ここまで来たら、もう、後戻りはできないとも思う。

 と、午後の授業の開始直前に携帯に着信があった。

 右のポケットの中でくすぐったいように震えるバイブレーションがいやに気味が悪い。

 予感の通り、それは渡辺恵人からのメールだった。


〈件名:問題集の件

本文:忘れずに今日、確認をお願いします。〉


 僕はその文面を打ち見ただけで、返信せずに携帯をしまった。そういえば、僕も彼に嘘を吐いていることになるわけか……

 いったい誰が、全き正直者でいられるのだろうか?



 僕は、社会で屡々勧奨される五分前集合とかいう慣いがあまり好きではない。いついつどこどこに集合、と号令されたときに、指示されたよりも五分早く到着するべき、というその「五分間」の裡に流れるものは、隷属を超えた何かだ。友人同士の待ち合わせならよい。それは親愛や信頼と名付けることのできる「五分」だ。が、命令に伴って生じるそれは名状し難いものだ、屈辱にも似ている。

 松永先輩の言葉は命令することに慣れた人の使うそれだった。彼女の、僕にはまだ計り知れない家柄が、それに所以しているのだろうか? とにかく僕は、16時半に来いと言われたのだから、その通り16時半ちょうどに第二音楽室に到着した。


 これで四度目になる。

 ちょっとの躊躇いもない。

 部室の引き戸を開けるといつもの席に松永先輩が座っており、その両脇に老川先輩と羽生田先輩が立っていた。

「失礼します」

「よし、丁度だな……この通り、二人も招換した。恐らく足が必要になるだろうからな。事情はある程度説明してある」

 松永先輩が言うと、老川先輩は例のごとくどこか不満げに腕を組んでそっぽを向いていたが、羽生田先輩の方は僕を見ると優しく微笑んだきり何も言わずにしおらしくしている。


「では、さっそく聴取を始めよう」

「聴取、ですか?」

 僕は、聴取という言葉の響きに眉を顰めた。

「そうだ。まだ私たちは今回の件について殆ど何も知らない」

 言われてみれば確かにそうだ。僕は敢えて、松永先輩たちに余り多くのことを語ろうとしなかった。

「とはいえ、別に誰かが裁かれるわけではないんだ。気楽にいこうじゃないか……」

 言うと松永先輩は小さな足を椅子の下で組んで見せた。


「しかし、とんだ気まぐれもあったもんだ。川井のことも、その体操部員のことも、僕にとっては大したことには思えないが……」

 老川先輩が言うと、そんな彼を羽生田先輩が肘で小突いた。

「コラ、余計な口出しはよしてください。こんな部長、めったに見られないですよ? きっと何か理由があるんです」

「だから不気味なんだよ……」

 そんなことを言う老川先輩を今度は松永先輩が裏拳で突いた。ウっと小さなうめき声が鳴る。

「老川、きみに不気味だなんて言われる筋合いはない!」

 気味の悪さだけでいえば二人は互角だ。

「まあまあ、二人とも……さっそく始めましょう。行一くんもいいですよね?」

「はい」


 じゃあ、部長、と羽生田先輩が松永先輩に水を向ける。

 ふう、とひとつ呼吸を正すと、松永先輩は話はじめる。

「じゃあ、早速だが千羽。きみが先週の水曜にこちらに転入してきたときから……そうだな、今日の昼休みに私の許を訪れるまでに起こったことを、要点を搔い摘んで時系列で説明してほしい。搔い摘む、と言っても、重要に思われる情報はなるべく取りこぼしないように頼むよ……」

「それは難しい注文ですね……ですが、善処します」

「それと、もうひとつ、昼休憩の時分にも少し話しをしたが、もしきみがその体操部員や他の誰かに何か口止めをされていたとしても、正直に白状するように。きみがどれだけ義理堅い男か知らんが、私の力を借りたいというんだ、それぐらいの代償は覚悟しているはずだ」

「……はい、そうですね。分かりました」

「じゃあ、さっそく始めたまえ」


 僕は記憶を探るように少し視線を上に向けてから、椅子に座ることなく、立ったままで話しを始めた。

「転校初日は雨でした……その日俺は通常の登校時間、つまり朝の8時半ですが、それまでに1年Ⅰ組の教室に向かうことになっていました。ただ、誰かの案内なしには無理なので、8時頃に校門前で担任の萩城先生と合流することになっていたんです……ああ、そういえばそのときに、松永先輩たち三人が登校してくるのも見ましたよ」

「そうだったんですね。で、その感想は?」

 羽生田先輩が興味津々に聞いてくる。

「えっと、それって重要な情報ですか?」

「もちろん、私たちにとっては重要な情報です!」

「えっと、変な人たちだと思いました……」

 羽生田先輩は少し残念そうな顔をした。

「それだけですか?」

 僕は少し悩んだ末に訥々と告白した。

「それと……綺麗な人だと、思いました……」

「ええ! 私がですか?」

「……えっと、松永先輩です……」

「ちぇっ! なんだあ! でも、今の聞きました? 部長にも春来るですよ、羨ましいなあ! ひゅーひゅー」

「そんな情報はいらん!」

 不意を突かれたのか松永先輩も真っ赤になってそう叫んだ。初対面で自分のことを美しいと評しておきながら、今さら何を赤くなっているのか……

 そんな松永先輩の反応に、つい先ほどまで退屈気に話を聞いていた老川先輩も面白がって彼女の顔を覗き込んだ。

「確かにこれは珍しいなあ! 部長の顔がリンゴみたいになっていやがる。ねえ部長、どうしたんですか? 恥ずかしいんですか? それとも怒っているんですか?」

 老川先輩がいつもの仕返しをするように彼女を挑発する。

「怒り100パーセントだ!」

 と言いながら腕を振り回す松永先輩のそばから一歩退いて、「光GENJIじゃねえんだから」と、うちの妹のようなちょっとズレたツッコミをすると、彼はケタケタと笑った。

「どーどー、落ち着いてください部長。ごめんなさいって。冗談ですよ冗談。コラ、翔琉くんも謝ってください。部長だって女の子なんですから、こういう話題にはセンシティブなんです」

「いや、お前が始めたんだろ……それに、羽生田、おまえのことはもちろんだが、僕は部長のことだって異性として見たことはない。こんなちんちくりん……いや待てよ、と言うことは千羽、おまえさてはロリコンだな? コソ泥にロリコンって、前科何犯だよ、箔が付くなあ」

 僕までヤクザな男にしないで欲しい。それに、そんなくだらない推理を聞きに来たわけではない。


「あの……そろそろ続けてもいいですか?」

 まだ経緯の一割も話せていない。こんな調子じゃ日が暮れてしまう。

「そうですね……翔琉くんの今の発言には後で灸を据えておくとして、続きをお願いします。さあ、部長も気を取り直してください」

 それでもまだ松永先輩はムスッとしていたが、この人の機嫌が悪いのはいつものことのようなので、僕は構わず続けることにする。


「それからちょっと遅れて萩城先生が俺を迎えに来たんですが、そのときは他愛のない話をした以外はとくに何も」

「他愛ない話ですか?」

「はい、ナスが好きかどうか、とか……」

「他愛なさすぎるだろ」

「まあ、とにかく、俺は黙っていたんですが、萩城先生の方は沈黙が苦手なようで、俺はテキトーに話に付き合っていたんです。そういえば、そのときにはじめて前学期と後学期で担任が入れ替わったことを知りました。で、どうしてそんなことになったのか質問してみたんですが、はぐらかされてしまって……それから先生は打って変わって何も話してこなくなりました」

「萩城と言うのは確か物理担当の女教師のことだろう? はぐらかされたということは、担任が変わった理由については何も話さなかったということか?」

 松永先輩が口を開いた。

「はい、そうです。そのときは俺はまだ、川井先生のことも知らなかったし、もちろん彼が教師を辞めることも知りませんでしたから、何かのっぴきならない理由で転勤か転属にでもなったのだろうと思っていました」

「その話をしたときの萩城は具体的にどんな様子だったのだ?」

「ええと、暗い表情をしていたような気はしますが……あまり覚えてないです」

「そうか。よろしい。続けたまえ」


「で、その後は教室で自己紹介をしました。実は俺、転校するのはこれで六回目なんです。だから、こんな風に自己紹介をするのも慣れていたので……そのときは特に変わりはありませんでした。新しいクラスメイトから質問攻めにあったり……まあ、今まで通り、と言った感じです」

「六回の転校ですか! それは大変でしたねえ……」

 羽生田先輩が感嘆と同情の両方を込めて言う。

「ところで千羽はどこから来たんだ?」

 今度は老川先輩が聞いてくる。

「東京です」

「へえ! すごい、シティボーイだ!」

「いや、全然です、二年しかいませんでしたし。似非東京人ですよ」

「いえいえ、そんなことありません。でも東京かあ、憧れちゃうなあ! 東京のどこに住んでいたんですか?」

「えっと、沼袋です……」

「沼? 池じゃなくて?」

 羽生田先輩がぽかんとした表情でそう言う。

「東京にも沼ってあるんだなあ!」

 これは老川先輩。

 デジャブだ。いや、デジャブじゃないか。実際にこれで二度目だ。


「そんなどうでもいい話はやめろ! で、それから?」

「えっと、はい。自己紹介自体はそんな感じで、普通に終わりましたが……そういえばその直後に不思議なことがありました。クラス全員が俺を見ていました」

「そりゃ見るだろ。転入生なんだし」

 老川先輩がごもっともな指摘をする。

「いや、確かにそうなんですが……俺の席って、窓際の最後尾なんです。自己紹介を終えてそこに座ったんですが、それでもみんな俺のことを見ていたんですよ。体を捻ってまで……」

「そりゃあ、随分とエキセントリックな転入生だと思われたんだろうな……自己紹介で何かやらかしたんじゃないか?」

 あなた方には負ける、と言いたくなるのを抑えつつ、僕はつづけた。

「いや、そんな、全然。自己紹介だって、名前と前住んでいた場所の地名を話したくらいでしたし……でも、もっとおかしなことに、その後はその日一日、クラスメイトの誰にも話しかけられませんでした……授業と授業の間に10分の休憩がありますよね? 普通転校の初日と言ったら、休憩時間にもなるとたくさんの同級生に囲まれるものなんですが、その日はそれがなかったんです」

「じゃあ、エキセントリックと言うより、ヤバい奴だと思われたんだろ。第一印象って大事だからさ! そうでもなければ、単なるおまえの魅力不足だろう」

 確かに、第一印象の大事さはこの人が身をもって僕に教えてくれた。

「ちょっと、翔琉くん、行一くんは十分魅力的じゃないですか!」

「そういう軽々な言動が宇都宮先輩みたいな被害者を出すということを、おまえは学んだ方がいい」

「どういう意味ですか?」

 と、羽生田先輩はとぼけるように言う。

「でも、まあ今のは冗談として、確かに、転入初日に誰にも話しかけられないというのは不自然だな……もし僕のクラスに転入生が来たなら、そいつがどんなにキモくてヤバそうなやつでも、誰かしら一言くらいは声をかけるはずだ。多分僕もそうする。況しては千羽みたいなやつなら……」

 老川先輩は口に指をあてて考えるような仕草を取りながら言った。

「いや、でも、自己紹介の時は質問攻めにされたんですよね?」

 と、これは羽生田先輩。

 松永先輩は腕と足を汲みながら目を閉じて僕たちの会話に耳を傾けている。


「不審なことはそれだけではありませんでした。その日の午前最後の授業は物理で、萩城先生が担当だったんですが、良い機会だということで、僕以外の生徒も一人ずつ自己紹介をしていったんです。まあ、僕と同じで殆ど当たり障りのないものでしたが、一つだけ気になることがありました」

「気になること?」

 松永先輩が口を開いた。

「はい、自己紹介の途中で先生があることに気が付いて皆に質問をしたんです。このクラスはまだ席替えをしていないのか? と」

「どういうことですか?」

「えっと、自己紹介は教室の窓際の最前列から順番に行われたんですが、そのときの名前がぴったり五十音順に並んでいて、つまり出席番号順に並んでいたんです」

「なるほど」

「ただ、ある女子……志村さんと言うんですが、彼女が席替えはしたと言ったんです。その後ですぐに俺の隣席の男子……こっちは藤村と言うんですが、すぐに彼がこうも言い添えたんです。くじ引きでたまたまこうなったのだと……」

「ちょっと待て……おい、羽生田」

「はい、そんなことまずありえませんね……行一くんのクラスは全員で何名ですか?」

「俺合わせて丁度30名です」

「ふんふん」

 聞くと、羽生田先輩はポケットから関数電卓を取り出して、素早い手つきで何かを計算し始めた。

「約1杼6200垓分の1、ですね」

「は?」

「無作為なくじ引きで30人の生徒が全員出席番号順に席を引き当てる確率です。ちなみに……」

 と、彼女は今度は携帯も取り出して何かを調べながらまた計算を始める。

「日本には小中校でおよそ1300万人生徒がいるそうです。なので、仮に1クラス30人とすると全国には大体43万のクラスがあるということになります。仮に、その43万のクラス全部で一ト月に一度席替えが行われたとしましょう。そのとき、30人の席順が偶然出席番号順になる確率は、5130垓年続けても約1パーセント程です」

「たかが席替えの癖にインド神話みたいなスケールのデカさだな」

 老川先輩が楽し気に言った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る