1-11



 松永先輩の言葉を僕は待ち構えた、が……

「と、その前に」

 彼女は言うと、持っていた巾着から小さな弁当箱と水筒を出して机に置いた。

「こっちの方が優先だ」

 話が終わってからではだめなのか? とも思ったが、僕にそれを言う権利はない。

 彼女は黙々とそれを食しだす。

 見えないはずなのに箸を器用に使って弁当を食べる彼女に僕は感心した。しかし、普通と少し違うのは、彼女が目線を前から全く逸らさずに食べているという点で、つまり、ずっと僕と目が合っているわけなのだが、これにはちょっと僕の方が参ってしまう。

 僕は思わず机の上の弁当箱に視線をずらす。量は少ないが、品数は多く、彩も鮮やかだ。それに、見えない彼女を気遣ってのことか、米は小さなおにぎりにしてあったり、おかずもベーコンや葉の物に巻かれていたりなどして、食べやすく工夫されているようだった。


「親御さんが作ってくれているんですか?」

 人の食べている様子を黙って観察し続けるのも無礼な気がしたので、僕は何の気なしに聞いてみた。

「……女中だ」

 女中だと? 何時代の話だ?

「えっと、それはすごいですね……」

「……うちの女中ではないがな」

 どういうことだろうか? よく分からないが、やんごとない事情がありそうだ。詮索するのはやめておこう。何が理由で彼女の機嫌を損ねてしまうか分からないし。


 僕はまた黙って松永先輩の食事風景の観察を続ける。やはり、なんだか少し背徳的な感じがする……この感じは何だろう。僕ならこんな風に人前でひとり昼食をとるなんてことは少し辛いが、彼女にはそれが気にならないのだろうか? 視線を感じないから?

 そういえば、最初に彼女が弁当箱を取り出したときに、僕はちょっと気になる箇所を見つけていた。

 巾着には凝った刺繍が施されていて上等なものであることが一目で分かるが、一方で弁当箱は庶民的なプラスチック製の小さな一段弁当で、蓋には某人気キャラクターの白猫の絵がプリントされている。これはちょっと意外だ。弁当箱のサイズも相俟って、幼児向けのものに見える。これは彼女が選んだのだろうか?

 もし彼女の視覚障害が後天性のものであったのなら、趣味嗜好が子供時分に親しんだもので止まってしまっているのだとしても、まだ納得がいく。しかし、彼女は僕と初めて会ったとき、「生まれてこの方、一度だって見えたことがない」と言ったはずだ。それが本当なら、彼女が自分の弁当箱のデザインにいちいち頓着するとは思えない。いや、よしんば頓着したとしても、こんな子供っぽいものを選ぶとは思えない……他人の目を借りたとしても無難なものを選ばせるだろう。

 そうだ、つまり、この弁当箱を選んだのは彼女ではない……


 余計な詮索は控えようと思ったばかりだが、僕は興味を抑えられず思わず尋ねる。

「その弁当箱ですが、誰かに選んでもらったんですか?」

「何の話だ? 弁当箱? 別に気にしたこともなかったが……どうかしたのか?」

「いやあ……」

 これは不味いことを聞いたかもしれないと思いながらも、僕は言い淀みつつ、告げた。

「その、蓋にプリントされたキャラクター、有名なやつですよね? 子供に人気の……先輩も好きなのかな? と、思って……」

 聞くと松永先輩はすかさず蓋を手に取り表面を指先で撫で始めた。

「この微かな凹凸、気になってはいたが……さては篠崎の馬鹿末弟の仕業だな……!」

 彼女は顔を真っ赤にしながら残りの弁当を大急ぎで口に掻き込むと、空になった弁当箱を巾着に突っ込んだ。そうしてそのまま、いつかの僕のように口の中をいっぱいにしてもぐもぐと咀嚼してから、飲み込むと、言った。

「断じて言う。これは私の趣味ではない! しかし、どうして老川も羽生田も何も言わなかったんだ……後で説教が必要だな」

 余計なことをしたかな? と思いつつ、表情をころころ変える彼女の様子は見ていてちょっと愉しかった。

「ともあれ……一応きみには礼を言っておこう……ありがとう……」

 事情はよく分からないが、感謝されたようだ。よかった。

「えっと、どういたしまして……?」

 そして、彼女は自分を落ち着かせるように水筒のお茶をゆっくり飲んでから一息つくと、再び訝し気な表情をして僕に問うてきた。

「おい、きみ。この水筒は……」

 そう言って彼女の示した水筒は何の柄もない金属製のものだったので、僕はそう伝えた。

 彼女は心底安堵するような表情をした。

「こっちは教室でも時折取り出すからな……」

 そういえば、普段のクラスでの彼女はどんな様子なのだろうか? 全く想像がつかないが、浮いていることは明白だ。



「では、話を始めようか」

 食事を終えて一通り片づけを済ますと、彼女からそう切り出した。

「お願いします」

「確か、〝臭い〟についてだったな? もっとも、これは文字通り〝臭う〟だけで、まだ何の確信もないわけだが……しかし、先週あんな態度でここを飛び出したきみが、今日はこうして自らここを訪れたんだ。それだけでも私にとってはこの〝臭い〟に幾らかの実態を与える材料には、十分なり得る……」

 僕は頷く。

「確かにそうですね……」

「しかしそれは結果論的推察だ。今話すのは止そう。つまりあのとき、先週の金曜日の放課後に、私が何を考えたのか、と言うことにだけ、今は焦点を当てることにする」

「はい、俺もまずはそれを望みます」

 フンと鼻を鳴らすと、彼女はつづけた。

「では、今から私はきみに幾つか質問をするが……そういうわけだから、きみは、今きみがこの場所に来たその動機……つまり、先週のあのとき以降に新しく得た情報についてはいったん忘れたという体でこれに答えてくれたまえ。その方がきみも納得するだろう?」

「ええ、そうですね……分かりました」

「よろしい。では、さっそく一つ目の質問だが。私の記憶が正しければ、川井は七月の初めごろから休職に入った。確かそうだったな?」

「はい、自分もそう聞いています」

「なら、老川はどうして、体操部の見学が先週の金曜日に行われたかどうかということを気にしたのかね?」

 確かに、あのとき僕は老川先輩にそういったことを聞かれた。

「……それは老川先輩自身が説明していた通りじゃないですか? つまり見学の日付が先生が辞める前か後かということを気にしたからです。顧問やコーチがいないのに本当に見学なんてできたのか、と」

「しかし、老川のクラスの数学担当は川井だった。これはあいつ自身が言っていたことだ。つまり、老川は七月には既に川井が休職していたことを知っていたはずだ」

「はい、確かにそうですね……」

「そして、当然きみも承知の通り、うちの学校は生徒の部活動への加入を強制している。もしきみが転入してきたのが七月初、つまり川井が休職する前だったとして、今更部活探しをしているというのでは甚だ遅すぎる」

「はい、仰る通りです。実際俺が転入してきたのは、先週の水曜日でした」

「そうか……では、これは推測だが、その水曜日から金曜日の間に、川井に関することで何かあったのではないか? 例えば、彼が学校に来たとか……」

「はい、その通りです……木曜日のロングホームルームの時間に川井先生がお別れの挨拶に来たんです……しかし、どうして……」

「どうして老川はそのことを知っていたのか、と聞きたいのか?」

「はい……川井先生があいさつに来たのは、たぶん自分が担任していた一年Ⅰ組のクラスだけです……確かに、校舎のどこかでたまたま見かけたという可能性もあるけれど、どうして老川先輩は川井先生の挨拶のことを知っていたんでしょう……」

「すこし話が飛躍しているぞ? 別に私は、老川がそのロングホームルームでの川井の挨拶とやらを知っていたか、だなんてことは気にしていない。だが、先週の木曜日に川井が来たことを老川は恐らく知っていた。このことについて何か心当たりはあるかね?」

 僕は少し考えてからハッとした。

「問題集です」

「問題集?」

「川井先生は自分の受け持つ生徒向けに自作の数学の問題集を作っていたんです。川井先生の休職のタイミングが折悪く重なって返却しそびれた分の問題集が、先週の木曜日に返却されました。お別れの挨拶は担任をしていた1年Ⅰ組だけだったとしても、問題集の返却だけなら老川先輩のクラスでも行われたかもしれない」

「なるほど。まあ、恐らくそうだったのだろう。つまり、老川はその問題集が返却されたことによって先週の木曜日に川井が学校に来たことを悟った。そのうえで、体操部の見学が本当に金曜日に行われたのか、と言うことを疑問に思ったんだ。老川の話だと、川井は体操部の指導に大変熱心だったという。だから、退職の間際に体操部に赴いて、最後に特別指導を行っても不思議ないと考えたのだ」

「……はい、確かにそうかもしれません、しかし、それが何だというんですか?」

「フン、まあ、確かに、だからどうしたと言う話だな……」

 と、彼女は目を閉じると、小川を流れる清水のように、滔々と、いつもの冷たい声音を保ちつつ、続きを語り出した。

「ここから先は殆どが私の想像に過ぎない。川井は体操部の指導に大変熱心だったと言うが、それが本当なら、今話したように、彼が最後に部活動に顔を出すことも自然な成り行きだし、きみを誘ったの体操部員もその日を選んで見学することを提案しただろう。もしその日に君が断ったのだとしても、川井と惜別をした直後の金曜に勝手に活動を再開するだなんて随分と性急だし、老川の言った通り薄情ですらある。となると、より自然な解釈としては、川井は体操部に顔を出すことははじめからしなかったんだ。論理的にそうであるというのではないが、そうだったと考える方が諸々の状況から推して妥当だからな。ではなぜ、川井は退職日の木曜に部活動に顔を見せなかったのか……いや、こう問いかけた方がいいか、何故老川はあんな疑問を抱いたのか。それは、実際に川井と接してその熱心さを知っていた老川にはある程度の確信があったからだ。川井は木曜に体操部に顔を出したであろう、と言う確信だ……いや、それだけじゃない、あれだけ生徒に慕われていた教師だ。自分の担任したクラスや体操部だけでなく、もっと多くの生徒のところに顔を出していても不思議ではない。ただ、私の知る限りでは、川井はそんなことはしなかった」

 僕は思わず反駁する。

「いや、しかしそうとも限らないでしょう。だって、川井先生の退職理由は健康上の問題です。だとしたら、体操部や他の教室に顔を出すことは控えて、必要最低限の挨拶に留めたという想像だってできます」

「待ちたまえ、きみ、今何と言った? 川井の退職理由についてだ」

「健康上の、問題と……」

 彼女は少し思案するような仕草を取った。

「……川井の退職理由について、あくまで我々は〝実家の都合〟だと伝えられている。彼に健康上の問題があっただなんて、一言も聞いていない。恐らくこれは老川も羽生田も同じだ」

「いや、しかし、そんな……」

 僕は藤村のした説明を思い出そうとする。確かに彼は……

「フフフ、なるほど。〝臭い〟の出どころはそこにあったのか……じゃあここからはちょっと話の仕方を変えよう。私としても意外な情報が得られたのでな……」

 彼女はにやりと意地悪な笑みを浮かべた。僕はそれを見てぞくりとする。

「待ってください。松永先輩、今あなたのした想像の話はかなり強引ですよ。確かに、状況としては腑に落ちない点はあるけれど……」

「そうだな、だから私は〝臭う〟という言葉に留めたのさ。それに、前も言った通り、私は聞いた言葉を必ずしもそれの意味通りには受け取らない。あのときのきみの声色にだって、随分ぷんぷんと〝臭い〟が漂っていたぞ? きみのした不可解な言動もそうだ。確か、『それでも多分そいつはいい奴だと思う』だったか? まあ、とにもかくにも、その体操部員に対する不審感はより正当なものになったわけだ。きみにとっても、私にとっても、な……そして思うに、川井の退職理由が健康上の問題であるときみに告げたのは、その体操部員なんじゃないか?」

 僕は思わず沈黙する。それが肯定的沈黙であることは明らかだった。

「図星か……じゃあ、もっと聞いてみようか。きみはその体操部員に何か口止めをされているんじゃないか? ふむ、健康上の問題……なるほど、もっともらしい理由に思えるが、辞職に追い込まれる程の健康上の問題とはいったいなんだ? もしかしてその体操部員は、きみにもっと具体的な説明をしたのではないか? 例えば、川井の詳しい病状なんかを……そしてそいつは、きみにそのことについて口止めをした。いや、恐らく本当にそいつが口止めをしたかったのは、その詳しい病状の方ではなく、〝健康上の問題で退職する〟ということそれ自体だったのではないか? しかし、きみはそれを誤認した。何故ならその体操部員のした詳しい病状の説明の方に意識を取られたからだ」


 聞きながら、僕は冷や汗をかいた。松永先輩は僕に鎌かけをしているのだろうか? 今になって渡辺恵人を名乗る人物からのメールが益々不吉に思い出されてくる。二人の計画……藤村は僕に嘘を吐いたうえで、口止めをした?

 と、そのとき僕の額に何か冷たいものが触れた。

「きみ、発汗しているな? 暑いなら冷房の温度をもっと下げればいい……」

 それは松永先輩の掌だった。僕は飛び退いた。彼女は依然あの意地悪そうな笑みを浮かべたままに言った。

「そして、これが最後の質問になるが……もし今私のした想像の話が正しかったとして、川井の退職理由であるその健康上の問題とやらだが……それは本当に退職するに足る理由だったのか?」


 降参だ。

 今は彼女の嗅覚の鋭さを認めよう。


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