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 僕は動転した。思わず川に携帯を落としそうになった。

 僕は一度冷静になって考えてみるように努めた。

 疑問はいくつもある。

 なぜ渡辺恵人は僕のことを知っているのか。なぜ渡辺恵人は僕のメールアドレスを知っているのか。なぜ渡辺恵人は僕が問題集を受け取ったことを知っているのか。そもそもこのメールの送り主は本当に渡辺恵人なのか。そして、もし本当にそうだとしたら、なぜ渡辺恵人に問題集は渡っていないのか……つまり、なぜ、志村さんは、嘘を吐いたのか?


 考えれば考えるほど疑問は尽きない。

 色々な事情が絡まって混線している。ひとつずつ解いていかなければならないだろう……

 彼のビジネスマンのような文面に僕も次のような敬体で返信した。


〈件名:Re 千羽行一様

本文:始めまして千羽行一です。

いくつか質問させてください。

どうして私のことと、このアドレスを知っているのですか?

それと、あなたは本当に渡辺恵人さんですか?〉


 相手の素性が知れない以上は慎重を期さなければならない。話の本筋にはまだ入れない。


〈件名:Re Re 千羽行一様

本文:あなたのことは志村朱里から聞きました。元の私の席に座っているということも。メールアドレスは瀬戸充から。

最後の質問は、難しいですね。例の問題集の「場合の数」の章の最後の問だけ、とても頓珍漢な解答をしている箇所があります。これが証明になるでしょうか?〉


 瀬戸には情報リテラシーの基礎を叩きこむ必要がある、と思いつつ、僕は次に何と返信しようか悩んだ。志村さんに問題集を渡したということは黙っておくべきだろうか? 彼女のことだ、意味もなく僕に嘘を吐くはずもない。先に志村さんにその真意を問うべきだろう……


〈件名:Re Re Re 千羽行一様

本文:問題集は今学校のロッカーに保管しています。もちろん中身は見ていません。なので、確認は来週の月曜日まで待ってください。

ただ、あなたはどうして私が問題集を受け取ったことを知っているのですか?〉


〈件名:Re Re Re Re 千羽行一様

本文:問題集の件は分かりました。確認ができたら連絡をください。住所を教えますので、郵送でも直接でも、あなたに届けてほしい。あなたを疑うわけではありませんが、問題集の写メも添付していただけるとありがたいです。もちろんタダでとは言いません。

あなたが問題集を持っていることを何故私が知っているのか、とのことですが、私が藤村健吾と川井先生の計画を知っているから、と答えれば、納得してもらえるでしょうか?

ここ数日、あなたの周りで何かおかしなことが起きたりしませんでしたか?

おかしな話ではありますが、もう私にはあなたしか信用することができない。あなたは二人の計画に関与しながらも、恐らくは何も知らずにいる。

とにかく、問題集の件、よろしくお願いいたします。〉


 僕はどう立ち回ることが最適なのか分からずにいた。とにかく、僕は率直に質問をすることにした。


〈件名:Re Re Re Re Re 千羽行一様

本文:二人の計画とはいったいなんのことですか?〉



 いくら待っても返信は来なかった。

 時刻は夜の十時になろうとしていた。

 僕は一旦諦めて家に帰ることにした。それまでずっと、僕は川を見下ろすような格好で橋の上に立っていたのであるが、誰かに見つかれば、それこそ何か思い詰めた人のように見えただろう。事実そうだった。僕は思い詰めていたし、動揺もしていた。


 帰宅すると、帰るのが遅いと親に叱られた。妹はそんな僕を見て笑った。

「うまくやれたみたいじゃん」

 と、彼女が僕に目くばせをする。

 僕が微妙な笑顔で答えると、彼女は不思議そうに首を傾げた。


 存外疲弊していたのだろう。

 思考は頭の中を際限なく巡っていたが、ベッドに横になると僕はすぐに眠りに落ちた。


 携帯の着信音が僕を目覚めさせた。

 朝の十時。随分と長く寝ていたようだ。

 着信の正体は菅原からの電話だった。


「なんだ痴漢か……」

『おい! 言うに事欠いてなんだその言い種は! なんだか寝ぼけているみたいだが、まさか俺を痴漢仲間か何かと勘違いしたのか?』

「そんな仲間はいない。おまえと一緒にするな」

『俺にだっていねーよ……って、そんな話がしたかったんじゃない。この間はおまえのせいで散々な目にあったんだぞ?』

「何の話だ?」

『おまえが授業中にあんなキモいメール送ってくるから、驚いて返信してたら教師に見つかって携帯没収されたんだよ』

「ああ、あれか」

『他人事のように言いやがって。うちは校則が厳しいんだ、授業中に携帯をいじっているのが見つかったら即没収、反省文を提出するまで返してもらえないんだぞ? で、今さっき学校に行って反省文を渡して、それと引き換えに携帯を取り返してきたってわけだ』

「そいつはご苦労だなことだな。ニュースで聞いたことはあるが、休日にまで出勤しなければならない教師の労働環境はすぐにでも改善しなければならない。それはほんとうにさんざんなことだ」

『おまえ喧嘩売ってるのか? 俺がどれだけ反省文の文面をひねり出すのに苦労したと思っている? 今後は友人のキモさにも驚くことなく、メールの返信は授業時間外にします……なんて書けると思うか?』

 友人、か……と、僕は心の中でつぶやいた。

『はあ、まあ、ところで、どうしてあんなメールを送ってきたんだよ』

「なんとなくだよ。深い意味はない。逆に聞くがそんなに気にすることか? それとも本当に嫉妬したのかな?」

『バカ言え。普段のおまえじゃ絶対にあんなこと言わんだろ? 単純に疑問なんだよ』

「なんだ、おまえも漸く心配というセンスに目覚めたというわけか。まあ、でも、本当に何でもないんだ。俺は今まで通り、狭く浅く、そこそこの人間関係を保ちながら生きていくだけだよ」

『……何かあったんだな?』

「何もないよ」

『本当か?』

「本当だ」

『そうか、じゃあいいや。まあ、おまえも早く俺の他に素晴らしい友人を見つけることだな』

「おまえって俺の友人だったのか?」

『酷いこと言うなあ。なんだかいつも以上に腐ってないか?』

「じゃあ聞くが、おまえにとって友人って何なんだ? その定義が妥当でかつ俺がそれに合致するなら、おまえに俺を友人と呼ぶことを許してやる」

『実にナンセンスな問いだな……ま、おまえらしくもあるか』

 と、呆れたように言った後で、菅原は急に真面目な声音を作った。

『しかし、これだけは覚えておけ、友人も、仲間も、恋人も、何だっていい、人間通しの間柄を指す言葉はいくらだってあるが、そんなものに定義なんて持たせたら潔癖になりすぎる。夫と嫁、親と子みたいな関係は、法律などでしっかり定義されている。でも、それはその関係の潔癖性が物的立証で以って或る程度担保されているから可能なんだ。潔癖は不浄と表裏だ。潔癖を求めると、不浄が意趣返しに来る。つまり、友人みたいな物的な裏付けのない関係に明確な定義をつけると、潔癖と不浄がセットでやってきてしまうんだ。明言しないからこそその曖昧さの中で微妙な関係を維持できているなんてものは世の中にいくらでもある。高いところで足許を見ちゃいけないのと同じだ。見たら最後、不浄に転んじまうんだよ。敢えて曖昧にしておくことで享受できる利点ってのはたくさんある。友人も恋人も、その定義が実に曖昧だからこそ、そういった不浄さからも守られてもいるんだ。だから、友人たるためにはどうあらなければならないとか、どうしなければならないとか、そんなことを考えるのは損なことなんだよ。分かったか?』

 僕は悪友のしたこの意外な講釈に、少しく心打たれた。まさかこいつに、こんな説教をされるとは思わなかった。

「……そうか、そうか、うん。そうだな、確かにそうだ。おまえの言う通りだ……」

『分かったならそれでよろしい。じゃ、そろそろ切るぜ? 俺も暇じゃないんでな』

「嘘つけ。暇だろ」

『彼女と約束があるんだ』

「ゲームの話だろ?」

『うるせえ! もう切る!』



 月曜日になった。快晴。

 志村さんは僕に、土曜日の懇親会のときに携帯で撮った写真を見せてくれた。藤村と瀬戸がメールで送ってくれと彼女に頼んだ。同じように僕も送ってもらうことにした。

 狭いカラオケボックスで、僕を中心に笑顔でピースをする四人。三人に比べて、僕が写真慣れしていないことは一目瞭然だった。笑顔も少し引きつっているし、ピースサインもどこか歪だ。しかし、その写真は確かに楽しかった時間を思い出させてくれた。

 時間と場所、そして人への関心、愛着とはこういうものだろうか? ぼくはその写真を携帯の待ち受け画像にしようかとも思ったが、誰かに見られると恥ずかしいので、流石にそれはやめておいた。


 昼休憩のチャイムが鳴った。僕は藤村たちに昼食に誘われる前に教室を出た。

 僕の足は三棟四階の第二音楽室へと向かっていた。その歩武に迷いはない。

 教室にはまだ鍵がかかっていた。松永先輩は目が不自由だ。多分ここまで来るのにも少し時間がかかるのだろう。

 僕は近くの、教室側の壁にかかっている緑色の掲示ボードに凭れながら彼女を待った。廊下の片側は窓になっており、住宅街が見晴らせた。

 家々の屋根の個性豊かな色や形。電信柱に、電線。教室ばかりではない。街の景色だって、個性が集えば没個性化する。ここからの景色だけなら、僕がこれまでに見てきた街と大差はない。これはどこかアイロニックな背理だ。反対に、何処かに画一化された個性を見出すことができたのなら、それはその土地の情緒と言うことになるのだろう。僕が気付かないだけで日本には日本の情緒があり、同じくどこそこの国にもその国の情緒がある。しかし、ある一つの国、その中の街、その中の学校、そしてその教室の中にだけいれば、それら情緒は個性の氾濫の中に埋もれてしまう。多分、ヨーロッパにもアジアにも、どこにだって、僕のような感想を抱いている人間は居るはずだ。その感想と、それによって養われた目のために、僕や彼らは、人間一人一人の個性にすらいちいち注目してみることの努力を怠ってしまっているのに違いない……


「きみ、だれだね」

 松永先輩だった。廊下の向こうから歩いてきた彼女は、片手で巾着を持ち、片手で白杖を突きながらこちらに歩いてきた。

「羽生田先輩に聞いたんです、先輩は昼休みも毎日ここに居るって……」

 僕は敢えて名乗らず、そんなことを言った。彼女に対してわざわざ名乗る必要を感じなかったからである。もちろんこれは、彼女に対する礼を欠いてのことではない。

「そうか、入れ」

 言うと彼女は手探りで教室の扉の鍵を開けると、中に入るよう僕を促した。

「空調の設定をしてくれないか? いつもそれが一苦労なんだ」

 僕は言われたとおりにエアコンのスイッチを入れ、温度の設定をする。しながら僕は、いつも苦労してそれをする彼女の様子を想像してみて、不謹慎にもどこかおかしく感じてしまう。


「さあ、話してみたまえ」

 松永先輩はいつもの席につくと、ただ前だけを見ながら言った。

 僕もその対面の席に座った。

「あなたの力を借りにきました」

「分かっている。だから、早く話せと言っているんだ」

「ただ、俺にはまだ分からない。松永先輩。失礼を承知で言いますが、俺にはまだあなたを信頼してよいのかが分からないんです。つまり、あなたの力を借りることに本当に意味があるのか……」

「この期に及んで無礼な奴だな。なら私にどうしろと言うんだ?」

 彼女はプイと顔を逸らすと、少し不愉快そうな表情をする。

「ごめんなさい。なので、最初に教えてください。まだ俺は例の体操部員について、あなたに殆ど何も話していません。それなのにどうしてあなたは、〝臭う〟と感じたのですか?」

 今度は彼女は得意そうな表情して、言った。

「なんだ、そんなことか。まあ丁度いい。きみが私の力を信頼しないというのは、それこそ鼻につくからな……教えてやろう」


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