第一章 Bogus(中)

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第一章 Bogus(中)


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 帰宅し、夕食を食べてから、僕は自室で今週の授業の課題と来週の予習をしていた。気晴らしに勉強、と言うのもちょっとガリ勉が過ぎる発想だが、今は何でもいいので別のことを考えていたい気分だった。

 夜九時ごろ、携帯にメールが来た。藤村からだった。


〈件名:懇親会

本文:土曜日の夕方くらいに千羽の懇親会をやろうと思ってるんだ。懇親会と言ってもファミレスで飯を食うくらいの小規模なやつで、急に大勢呼ぶのもあれだし、来るのは俺と志村と瀬戸の三人くらいだけどな。

引っ越したばかりで色々とあるとは思うから、都合が悪かったら言ってくれ。

じゃ、また。

P.S.

結局あの後はどこの部活を見に行ったんだ?〉


 なるほど、なるほど、懇親会か……こんなことまでしてくれたクラスメイトは藤村が初めてだ……

 いつもの僕なら、相手の気分を害さぬよう丁重にお断りしているところだが、どうしよう、今回は行ってみるか……志村さんもいるし。

 それにしても、最後の一文、「引っ越したばかりで色々とあるとは思うから」の部分。多分、藤村の方でも徐々に僕の性状を察してきているのだろう。誘いを断るための逃げ口も用意してくれている。藤村には秘密があって、僕に嘘を吐いているのかもしれないが、こういったこまやかな気遣いには、偽りがないはずだ。


〈件名:Re 懇親会

本文:懇親会、企画してくれてありがとう、是非行こうと思うよ。

P.S.

パソコン部に行ったよ。だけど、ここはちょっと保留かな。来週は志村さんに誘われて演劇部を見に行くんだ。〉


〈件名:Re Re 懇親会

本文:OK、決まりだな。急な誘いに乗ってくれてありがとう。じゃあ、とりあえず志村と瀬戸には俺から伝えておくよ。どうせ暇してるはずだから喜ぶと思うぜ。

集合場所は駅の東口改札の前に16時ちょうどでいいか?

P.S.

演劇部も悪くないが、体操部のことも忘れないように。〉


〈件名:Re Re Re 懇親会

本文:了解、じゃあ駅の東口改札に土曜の16時で。〉


 僕はひと段落したと思って携帯を一度放ったが、すぐにまた返信があった。


〈件名:Re Re Re Re 懇親会

本文:そういえば、志村と瀬戸にも千羽のメアド教えてもいいか?〉


〈件名:Re Re Re Re Re 懇親会

本文:大丈夫、教えておいてくれ。〉


 それにしても流石のレスポンスの速さだ。ちょっとした返信にさえに一週間かかることもある菅原とは雲泥の差だな……この情報社会にまさに駿馬痴漢を乗せて走ると言ったところか? 確かに、菅原なら痴漢と呼ぶにふさわしい。


 しかし、今日の放課後は実に不愉快な思いをした。あんな先輩たちとはもう関わりたくない……が、そんなことはもう忘れてしまおう。

 明日は藤村が僕のために懇親会を開いてくれる。こんなこと、本当なら億劫なはずなのに、どこかそれを楽しみにしている自分がいる……

 今日は早く寝よう。早く寝られるかな? まあ、寝られなくてもいいか、どうせ懇親会は夕方からだ。



 僕が目覚めたのは正午だった。案の定夜更かしをしてしまった。勉強をしていたわけではない。明日どう立ち居振る舞おうか考えていたら寝られなかったのだ。

 僕は今、数少ない私服をベッドの上に並べて吟味している。こういう時に限っては、制服というもののありがたさを実感する。アインシュタインもジョブスも毎日同じ服を着ていたという。きっと彼らも、服装に気を揉むことの面倒さに気が付いていたのだろう。今僕の頭にも、二人の天才と同じ考えが閃いている。してみれば僕も天才なのかもしれない。きっと彼らも日本の制服の文化をお気に召すだろう。

 もしかしたらこれこそが僕の予見したあのフェティシズムの開眼というやつか? つまり、制服フェチこそが天才の条件か?

 やめよう。これ以上は不敬な気がする。


 仕方がないので僕は妹に服を選ばせることにした。

 僕の頼みを聞くと彼女は目を見開きながら言った。

「大丈夫? 何か詐欺にでもあっているんじゃないの?」

 どんな手口の詐欺を想定して彼女がそんな杞憂を抱いたのか分からないが、僕は事情を話す。

「ああ、なんだ、そんなことか。でもめずらしいね、兄貴がそんな誘いに乗るなんて」

「……気まぐれだよ」

「ていうか、選んで欲しいって言ったって、選択肢少なすぎるでしょ。安いビジネスホテルの朝食バイキングじゃないんだから!」

 女子中学生のする喩えとは思えない。

「仕方がないだろ。俺はいつだって想定内の人生を歩むことにしているんだ。今回のは想定外だ」

「はあ、つまらなさそうな人生だね。そんなんじゃ結婚どころか彼女の一人もできないまま死んじゃうよ?」

「……勿論それも想定内だ」

「もういいや、じゃあ、これとこれでいいんじゃないの?」

 彼女が選んだのは紺のジーンズと白いタートルネックの厚手のセーターだった。

「おまえ、今日の気温知ってるか? これは殺人未遂だぞ……」

「うっさいなあ、だったらここに並べるなよ。じゃあ、こっちの黒いシャツでいいんじゃない? もうどれ着ても変わんないでしょ」

「わかった、そうするよ。じゃあ着替えるから出ていってくれ。決して覗いちゃならんぞ?」

「ツルの恩返しかよ。ちょっと吐き気を催したのでトイレに行ってきます」

 言うと彼女は部屋を出ていった。最後の喩えツッコミは60点と言ったところか。ビジホの喩えの方がまだ点数が高かった。我が妹もまだまだだな。


 着替えると僕は玄関にある姿見の前に立った。紺のジーンズにクルーネックの黒いロンT。シャツの襟を捲ってみると、何故だか分からないが、新商品のプレゼンでもしたい気分になってくる。僕は自分の携帯をピスポケットから取り出して、もう一方の手でそれを示すポーズをとってみる。

「何してんの?」

 トイレから出てきた妹に見つかる。

「将来に向けての予行演習だよ」

 僕は答える。

「それも想定内?」

「考え得るうちのシナリオの一つだ。おまえと違って俺は優秀だからなあ。でも安心しなさい。今はビデオ通話も手軽にできるIT時代だ。もしお兄ちゃんがシリコンバレーに行っても寂しがることはないよ?」

 キモ……とだけ言いのこすと、彼女はリビングへと去って行った。反抗期かな?


 とまれ、最大の懸案事項であった服装の問題はクリアした。時間も午後三時。待ち合わせ場所は駅の東口で時刻は16時きっかり。家からだと徒歩5分強の道のりだから、時間はかなり持て余すだろうが、家に居てもやることはないし早めに出るか。

 と、僕は出発すると、少し遠回りをしながら駅まで歩いた。

 駅の近くには大きな川があって、川べりは遊歩道になっており、散歩をしている人も多い。緑は旺盛で、雑草が道の半ばまで侵犯している。まだ温かい(というか熱い)時期と言うのもあって、葉叢の上にはユスリカやカゲロウが盛んに愛撫を繰り返している。

 止めどない川の流れ、領を定めたうえに更にそれを広げようとする草花、そして、羽虫たちの限りない繁栄。全てのものが各々のやり方で永遠を表現しているこの場所は、静かすぎず、煩すぎず、そして恐らくは生物に最も親しみやすい穏やかな風を起こして、僕を和ませてくれる。

 携帯で時間を確認する。約束まであと三十分もある。

 僕は近くのベンチを探してそれに休もうとした。そのとき、ある人と目が合った。

「あれ、千羽っちじゃん。暑そうな格好してるね」

 近くのベンチに志村さんが座っていたのだ。

 しかし、正直その〝千羽っち〟というのはやめてほしい。僕はトイレの世話だって自分でできるし、放っておいても勝手に死んだりしない。それになんだか、ものすごくアホっぽい響きだ。

「こんなところで何してるの?」

 彼女がそう聞いてくる。

「いや、予定より早く家を出たからさ、近くを散歩していたんだ。志村さんこそ、どうしたの?」

「あ、えっとね、ちょっとさっきまで図書館で勉強してたんだ。ほら、私って最近ちょっと成績落ちてきててさ。前までは恵人に教えてもらってたんだけど……」

 なるほど、一念発起したということだろうか? この間見せてもらった志村さん向けの問題集は基礎問題ばかりの初歩的なものだった。

「そういえば」

 と、志村さんは思い出したように言う。

「もしかして千羽っちって頭好かったりする? ほら、私みたいなのもいるけどさ、うちの高校って偏差値はそこそこ高いじゃん。転入試験って入学試験よりも難しいって聞いたことがあるからさ、もしかして、と思って」

「ええと、どうかな、まあ、成績だけでいえば、そこそこかな……」

 僕はちょっと見栄を張りたくなる。

「やっぱり!」

 と言うと、彼女は脇に置いていたリュックサックからコピー用紙を一枚取り出す。

「これの解き方って、分ったりしないかな?」

 そこには数Bの数列の問題が書かれていた。

「これは二年生の範囲じゃないか? どうして今?」

「えっと……」

 何かまずいことでもあったのか、彼女は誤魔化すように言う。

「その、受験対策ってやつ? ほら、私このままだと大学行けるか分かんないからさ……今のうちに、ね?」

 だとしたらそれは勇み足だろう、と僕は思ったが、せっかくやる気なのに鼻を折るのもかわいそうだ。ただ、一年生の範囲も覚束ない状態で、無理に先に進もうというのは計画的ではない。僕はやんわりと忠告をする。

「なるほどね。まあ、でも、そんなに焦らなくてもいいと思うよ。まずはこの間の川井先生の問題集なんかをしっかり解けるようにするのでも、受験には十分間に合うさ」

 志村さんは無言でうなずく。

「それに、もし分からない問題があったらさ……その、俺が教えるよ」

「ありがとう、千羽っち……そうだよね、確かにそうだ。うん。それじゃあ、もし分からない問題があったら教えてもらうからね?」

 歓迎しよう。と僕は頷いた。

「ところで、この問題は解けそうかな? 解く方針だけでも分かればいいんだけど……」

 相当気になるのか、それでも彼女は先程の数列の問題について僕に聞いてくる。

「うーん、ちょっとすぐには難しいかな……そのプリントを貸してくれるなら、家で解けるか試してもいいけど」

「あ、いや、流石にそこまでしてもらうのは悪いって」

 といいながら、彼女はそれをリュックに戻す。面目躍如のチャンスだったのに……もっと強く推してみた方がよかったかもしれない。


「ちょっと早いけどそろそろ行こうか」

 彼女は腕時計を見ると言った。確かに少し早いが、待てない時間ではない。

 僕たちは待ち合わせ場所に向かった。

 道すがら、僕たちは色々と会話をした。女子と二人並んで、こんな風に会話をしたのは初めてかもしれない。

「そういえば、今日の千羽っちの服装、なんだかIT企業の社長さんみたいだね」

「……変かな?」

「いや、季節感はあんまりないけど全然変じゃないよ。結構シンプルなのが似合うのかもね!」

 よし、今後は取り合えずシンプルな服で揃えることにしよう。

 一方、志村さんの格好は……色調は抑え目だが、ロングスカートに目立たないように意匠されたレースは趣味が好いし、羽織られた薄手のカーディガンともよく合っている。殊に、黒いセミロングの髪の合間から流星のように零れるイヤリングの輝きが目を射るたびに、僕は女性と二人並んで歩くことの慣れなさに浮足立つ感じがする。つまり、何というか、彼女といると少し緊張する。


 僕が黙っていても、彼女からの話題は絶えない。彼女は毎度ながら東京のことをよく訪ねてくる。自分が東京の代表のように扱われるのはすこし恐縮だが、僕は彼女の質問に(二年弱で培ったあるだけの東京エピソードを総動員し)答えてやる。

 そうこうしているうちに僕たちは待ち合わせ場所に着いていた。


「健吾は多分予定通りに来ると思うけど。瀬戸は遅れてくるだろうなあ」

 改札前のなるべく人通りの少ない柱の前に僕たちは立った。

「三人は仲がいいの?」

「うん、そうだね。恵人がいたことは四人でいることが多かったかな? 瀬戸とは高校で知り合ったんだけどね。まあ、でもあいつ、誰とでも仲良くするからさ」

 言うと志村さんは笑った。

「でも、それを言うなら、志村さんや藤村も、誰とでも仲良くなれそうじゃないか」

 邪気なく僕はそう言う。

「どうかなあ、自分のことはあんまり考えたことないや。でも、健吾はそんな感じでもないと思うよ? まじめな感じだし、リーダーシップもあるけど、何というか、それを逆に近寄り難く思うひともいるみたい。たぶん本人も自覚していていると思う……」

「ああ、なるほど」

 僕はなんとなく合点する。

「でも、今回の件は驚いたかな」

「今回の件?」

「ほら、この懇親会、健吾が提案したんでしょ? まだ知り合って二三日しか経っていないのに、二人とも随分仲良くなったんだなあって、そう思ったんだよね。あ、悪く思ったらごめんね?」

「いや、いいんだ。自分でもちょっと驚いてるよ。実は俺、これで転校するの六回目でさ、だから、幼馴染なんかはもちろん、あんまり親友と呼べるようなやつとも出会えなかったんだ……でも、なんだか藤村となら、すごく気が合うと思う」

 言った後で僕は少し恥ずかしくなる。

「へえ……いいね! そういうの!」


 それからちょっとして、時間ぴったりに藤村が来た。またそれから五分程遅れて、瀬戸が走ってやって来た。二人とも、僕に暑くないのか聞いてきた。

 僕たちの懇親会は近くのファミレスでささやかに開かれた。会話はことのほか弾んだ。誰かと会話をして、こんなに楽しいと思ったのは久しぶりだ。

 その後で僕たちは、二次会と称してカラオケにも行った。興に乗っていた僕は、それを拒まなかった。

 僕は勉強中によくラジオを流していたから、それで何度も聴いた流行りの歌をいくつか歌った。カラオケに行くのはこれが初めてだったので、人前で歌うのは甚く緊張した(それこそ、自己紹介のとき以上に)。だけれど、(お世辞かどうか知らないが)皆僕の歌を褒めてくれた。僕はそれが素直に嬉しかった。


 カラオケを出ると、夜九時近くになっていた。遅くなりすぎるといけないので、僕たちはその場で解散した。志村さんは、家の近い藤村が送っていった。既得権を公然と行使する彼が少し妬ましい。


 もうすぐ十月になる。昼はまだ暑いが、夜はちょうどよい涼しさだ。

 僕は川沿いの国道を独り歩いて帰った。

 そのとき、僕にはもう昨日までのことが本当にどうでもよくなっていた。変な不審を抱いた自分が恥ずかしくすらあった。

 東京と比べると少し暗い夜の帰り道。車がテールランプの光を残して僕を追い越していく。

 僕は川のある方を見た。昼間に散歩をした川べりの遊歩道は国道の街燈に照らされて仄見えるばかりで、川の流れは地を這う黒龍のうろこのようだった。

 僕は片側に橋の掛かっている交差点まで来ると、何の気なしにそこを曲がって、橋の中頃まで進み、川を見下ろした。

 何となく、吸い込まれそうな気がして怖かった。僕は落ちていた石ころを川に投げてみた。川面に落ちたそれは、一瞬白い火花のようなものを散らしただけで、ただそれだけだった。

 そのとき突然ポケットの中で携帯が鳴った。

 僕はちょっと驚いてから、それを確認した。

 知らないアドレスからのメールだった。



〈件名:千羽行一様

本文:突然のメール失礼いたします。

山鳴高校1年I組の元生徒の渡辺恵人と申します。

もし私の数学の問題集をまだお持ちなら、ご返却いただきたいです。

よろしくお願いいたします。〉



♪♪♪♪♪♪

「第一章 Bogus(後編)」につづく


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