1-4


 待ちに待った金曜日だ。つまり、休日の前日だ。転校初週は何よりこの瞬間が待ち遠しい。殆ど無限の時間が経ったようにすら感じる。

 僕は部屋に散らばった段ボールを足で退けながら部屋を出ると、顔を洗って歯を磨き、朝飯を抜いて家を出た。

 ついに定期券を手に入れた僕は、初日のようにバスの乗車にまごつくこともない。今日も少しだけ早く家を出た。別に、藤村とまた二人で会話することを期待したわけではない(今朝も彼が早く来るとは限らないし)。ただ、通勤時の混雑を避けたかっただけだ。学生服は毎日着るうえにめったに洗わないから汚い。そんな汚い服を着たやつらに揉まれるなんてごめんだ。制服に対してフェチズムを抱く大人もいるらしいが、あれは謂わば忘却と不貞をした大人たちのする記憶の美化の一種で、そうでもなければ人垢を好む汚物趣味か、ドクターフィッシュの生まれ変わりかのどちらかだろう。

 とはいえ、忘却とかいう奴はまことに魅惑的な魔性の存在だ。どんなおしどり夫婦でも、いつかはそいつと浮気をして、恋を忘れて、愛を忘れて、最後にはみんなボケて死んでいく。忘却を射止めることのできなかった老人は不幸だ。とにかく、頭がしっかりしているうちは誰だって不幸なんだ。「馬鹿は死ななきゃ治らない」なんていったりするが、もし馬鹿が死んで治ってしまったのなら、つまりそいつは地獄行きってわけだ。

 僕は終生結婚をするつもりも、恋人を作るつもりもないが、どうかこの忘却とだけは添い遂げたいと思っている。もしかしたら僕にもいつかその予兆として、(時の女神が僕に秋波を送る仕草で)制服へのフェティシズムに開眼する日が来るのかもしれないが、まあ、そのときは吉兆として捉えておこう。


 うむ。僕のシニシズムな趣味も今日は冴えている。冷笑は人生の漢方だ。整腸の効能がある。これがなければ胃腸炎か何かになってしまうからな。


 教室に着くともう既に何人かの生徒の姿があった。藤村はまだ来ていなかった。

 僕は席につくと、窓から入ってくる晩夏の朝間の風を鼻先に遊ばせた。校門から校舎の玄関まで伸びる道には月桂樹の並木がある。その葉の梢を遊ばせた風が、或いはその並木道を歩く女子生徒のスカートを遊ばせた風が、そしてまた或いは、男子生徒の頑固な短髪をまでは遊ばせることのできなかったこの柔らかな風が、今僕の鼻先に接吻をして去っていく。しかし、もうその先には、教室の中には、これ以上君の行く場所はないのだ。風はそこで止むのだ……

 僕はぼうっと、このまだ居慣れない教室の景色を眺めていた。とは言え、教室なんてものは、やはりどこも同じだ。刮目するべきものなど何もない。こんな風景も、僕はきっといつか忘れる。すべて忘れてしまう。きっとクラスメイトの顔だって、一度は覚えたとしても、いつかは忘れてしまうはずだ。僕だけじゃない。みんな川井先生と同じだ。忘れていいんだ。忘却は救いだから。


「難しい顔してどうしたの?」

 志村さんだった。

「あっ……」

 放心していた僕はちょっと驚いて声を上げた。

「あ、驚かせちゃった? ごめんごめん」

 一昨日藤村にしていたように、彼女は少しおどけながら詫びるジェスチャーを取る。

「昨日の問題集、渡しておいたよ」

「え、もう? 仕事が早いね」

「まあ、近所だからね。じゃ、それを伝えたかっただけだから。健吾にも仕事押し付けられて朱里あかりちゃん怒ってたぞ、って言っておいてね」

 朱里というのは、確か志村さんの下の名前だったか。しかし、わざわざ伝えに来るなんて、見かけによらず律儀な人だ。

「ねえ、その人……学校辞めちゃったの?」

 僕はなんとなく聞いてみる。

「恵人のこと? うーん、なんていうか、私も事情はよく分からないんだけど、七月に入ったくらいのときにいろいろあって、それから来なくなっちゃったんだよね。でも、昨日会ったときはいつも通りだったよ。多分、学校もまだ辞めていないんじゃないかな? もっと前に行ったときはそう言ってたし……」

「いろいろ?」

「まあ、ちょっとね……」

 なるほど、深入りは禁物そうだな。しかし、まだ学校に籍はあるのか。ただ、この感じだと留年は確定だろうな……まあ、僕の心配するようなことでもないか。たまたま同じ席に座ってたというだけの、蜘蛛の糸ほどの細い縁でしかない。が、恐らくは彼の留年が確定したおかげで、僕が転入学するための席も空いたのだろうから、それについては感謝だな。

「ところで、千羽っちってもう部活決めてる?」

 僕は嫌な予感がした。

「私、演劇部なんだけど、もしまだ決まってないなら見学に来てよ」

 もしかして、彼女の本当の用事はこちらの方か? しかし、校風なのか知らないが、部活に熱心な生徒が多いな……

「決めてないけど……演劇部はちょっと……人前に出るのとか、あんまり得意じゃないしさ」

「だいじょーぶだいじょーぶ、別に演者をするだけが演劇部じゃないから。小道具とか大道具とかを用意したり、大工仕事みたいなこともするから、男の子が増えてくれるとすごく助かるんだよね」

 言い方はあれだが、これじゃまるで僕の体目当ての勧誘ではないか……しかし、裏方に徹するというのなら、悪くはない、か? 一応見学の候補の一つに入れておこう。

「じゃあ、見学だけなら……」

 僕がこう易々と人からの誘いに乗るのは珍しいことだが、選択肢は多く持っておきたい。別に志村さんが少しかわいいからとか、そういうこととは関係がない。

「やった! 来週の火曜日に体育館借りて練習することになっているから、その時に来てよ。じゃ、約束ね。他の部員にも話しておくから!」

 手を振ると、彼女は自席に戻っていった。ちゃっかり他の部員も巻き込む旨を言い添えることで、僕の心理的安全を脅かしながら逃走手段を封じにかかる彼女の抜け目なさに感心しつつ、女というものは油断ならん生き物だということを僕は再確認した。まだどうなるかは分からないが、念のため、入部を辞退する方便だけは用意しておこう。


 昼休憩。

 今日も藤村が僕を昼飯に誘ってくる。残念ながら今日はそれを断る口実がない。

「一緒に購買行こうぜ。案内してやるよ」

 ただ、昨日は一緒にいた彼の他の友人たちは今日はいないようだ。もしかすると、まだ慣れていない僕に気を利かせてくれたのかもしれない。昨日の僕の心の内だって、もしかしてお見通しだったのかもしれないな……

「うん、いいよ、行こう」


 僕たちは一緒に階段を降りていく。購買は一階の下駄箱近くの空き教室を使って、出張店舗の形で毎日地元の総菜屋や弁当屋が交代で営業しに来ているらしい。

「金曜日は俺の好きな総菜屋が来てるんだよ。そこの弁当が旨くてさ。だから、この日だけは弁当を持ってきてないんだ。あ、でも、千羽は弁当あるよな?」

 藤村は僕が手に提げている弁当箱を見ると、ちょっと申し訳なさそうにそういった。

「まあ、あるけど、いいよ。どんな感じなのか少し気になるし。総菜屋ならおかずもあるんだろ? 一品足して少し贅沢にするよ」

 店は盛況だった。僕たちは何とか教室に入れたが、次から次へと生徒がやってくる。さながら例のバスの車内のようだ。

 教室には扉が二つあり、その前でお店のスタッフらしき人が生徒たちの整理をしている。片方の扉口が入口専用で、もう片方の扉口が出口専用ということらしい。そのため、室内には一方向へ流れる人の波ができており、のんびりと品物を選んでいる暇はない。僕はとにかく手に触れた品物を掴むと、会計を済ませ、流れに乗ってすぐに部屋を出た。レジには二人の女性(恐らく母娘)が立っていたが、その手さばきは達人の域だった。


 人混みから離れて僕は一息つくと、藤村の案内で僕たちは一棟校舎と二棟校舎の間にある庭のベンチに腰掛けた。周りにも何人か生徒がいるが、どうやら教室から抜け出してきたカップルらしい男女ばかりだ。腹が立つことこの上ない。しかし僕には藤村がいる。僕が女なら勝ち誇っても良いくらいだ。(実際、川井先生の件であれだけのリーダーシップを発揮するだけあって、彼のクラスでの地位は中々に盤石に見えた)

「何買ったんだ?」

 僕は手に持ったそれを藤村に見せる。

「ハハハ、おにぎりじゃないか、米をおかずに米を食うのかよ!」

「しかも具無しの塩握りだよ……」

「まあ、大阪じゃたこ焼きをおかずに飯を食うって聞くし、その要領で……まあ、無理か」

「無理だな」

 僕は仕方なく塩握りを弁当のご飯の上にのせて、大盛ご飯ということにして妥協した。もともと弁当箱に入っていたおかずは卵焼き二つに唐揚げが三つ、そしてブロッコリー。どの配分で米とおかずを食らうのか、予め戦略を練る必要があるが、心苦しくもブロッコリー選手には戦力外通知を言い渡すほかない。

「今日に限った話じゃないけどさ、購買に行くときは予め何を買うのか決めておかなきゃダメなんだ。それでもその日限定のメニューなんかもあったりするから、実に難しいゲームなわけだ。高度な心理戦と言ってもいい」

 目当ての生姜焼き弁当を無事手に入れることができたらしい藤村は得々と語る。

「誰との心理戦なんだよ」

 僕はジトっと彼を見て言ってから、半分の唐揚げとたくさんの米で口の中をいっぱいにして、リスのようにもぐもぐとそれを咀嚼する。

 彼は一度生姜焼きに付けた箸を空箸にすると、代わりに前の何もない空間を掴もうとするように箸を動かす仕草をしてから、答えた。

「自分、かな……?」

 僕はちょっと噴き出しそうになるのを抑えてから、口の中のものをお茶で流し込んで、笑いながら言った。

「なんだそりゃ」

「だって、駆け引きのしようもないんだから仕方ないじゃないか。弁当屋のおばちゃんと事前に談合できるなら別だけどさ。残念ながら俺にはそんな地位も権力も無い」

「じゃあ心理戦にはならないな。ただの運試しだ」

「いや、そうとも限らない。つまり、瞬時の判断力。既に弁当や総菜を買ってしまった後で、やっぱりあっちにしておけばよかった! とならないために、一番自分が納得できる選択をする。それはつまり、瞬間次の自分の心理を読むということだ。ほらほら、やっぱり自分との心理戦じゃないか! もちろん、自分の欲しいものが本当に何もないという絶望的状況も、万に一つないこともないだろうけどな」

 彼の捏ねた屁理屈に、それでも僕はすこし納得してしまう。彼は弁が立つ方らしい。

「まあ、こんなくだらない話は置いておいて……」

「昼休みにくだらなくない話をしている男子高生なんてこの世にいないさ」

「いやいや、そうとも限らんぞ。つまり、昨日も話したことだが」

 またあの話か! 僕はちょっと身構える。やっぱり藤村も志村さん同様僕の体目当てというわけか?

「それってもしかして、部活動と関係した話か?」

「やるな、さては俺の心理を読んだな?」

 藤村が笑顔で頷く。

「マイコン部のことか?」

 彼はすこし顔を青くすると、今度は首を横に振る。

「だから、俺は運動部には入らないって……」

「なあ、頼むよ、いまうちの部活、部員が殆どいなくなっちゃってさ。困っているんだよ。見学だけでもいいからさ」

 本当に困っている、という感じで、彼は拝み手しながら頼んでくる。

「そうなのか?」

「そうなんだよ。ていうか、もう殆ど部員は俺一人みたいな感じになっちゃててさ……」

 それは確かに悲惨な状況だな……

「先輩が一気に引退しちゃったとかか?」

「まあ、それもあるんだが……」

 僕はふと、川井先生が彼のコーチをしていたという話を思い出す。

「もしかして、川井先生が辞めちゃったことも関係しているのか」

「というか、それが一番の原因だよ。まあ、もともと人数の少ない部活だったんだけどさ、川井先生が顧問兼コーチを担ってくれていたから何とかもっていた、みたいなところもあるんだよ。川井先生の他に体操の指導ができる人って、体育の西村先生くらいしかいないんだけど、あの人は野球部にかかりっきりだし、何せおっかないだろ? 今は現国の広田先生に臨時で顧問してもらっているんだけどさ、あくまで臨時だからなあ。このままじゃ部活自体がなくなっちゃいそうなんだ。まあ、川井先生は他にも部活か同好会かなんかの顧問を幾つか担当していたみたいだからさ、うち以外にも困っているところは多いと思うぜ」

 川井先生は話を聞くたびにつくづく化け物じみた先生に思えてくる。部活の顧問の兼務なんて、教師からしたら地獄なんじゃないか?

「まあ、体操部がヤバい状態だってのは分かったよ……」

 言いながら、僕は少し悪知恵を働かせる。藤村の話を聞くに、体操部員は今は殆ど藤村ひとりだけという状況らしい。顧問も臨時で、コーチする人もいない。ということは、多分今の体操部ってかなり暇な状況なんじゃないか? それに、藤村の話し方から察するに、彼の今の最大の課題は部活動の存続の方で、僕を誘うのだって、つまり第一義的には、謂わば数合わせなのだろう。いつまで体操部の暇状態が続くかという懸念もあるが、こんな状況で入部するんだ。僕は初めから運動部は嫌だと言っているし、不精をしても大目に見てくれるはずだ。それに、こんな状況でも部活を続けているんだから、一年生とは言え彼は部長か、もう殆どそれに近しい立場のはずだ。僕の不精を黙認するだけの権限も行使してくれるに違いない。

 よし、と、僕は藤村に言う。

「わかった、見学に行くよ。いつなら都合がいい?」

「おお! ありがとう! 千羽がいいなら今日の放課後にでも来てくれよ!」

「今日か。うん、わかった」


 いやはやしかし、僕の部活動決定戦に体操部がエントリーするとは、実に意外なダークホースの出現だ。火曜の演劇部のことも忘れてはいけないが……とにかく、できる限り選択肢は広くとっておこう。


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