1-3
ついにその時が来た。例のロングホームルームが始まったのである。皆心なしか緊張しているように見える。というより、実際に緊張しているのだろう。
斯くいう僕も、川井先生とは一体どんな先生なのか……と、期待とも不安ともつかない微妙な心待ちで、切歯して彼の登場を待っていた。きっと並みの人間じゃないぞ、つまり、〝一角〟の人物ってやつだ。とんでもないカリスマを持っているに違いない。記憶がないとはいえ、藤村の言う通り人格まで変わってしまったわけではないだろう……
「はい、では、ロングホームルームを始めます。川井先生にはもう既に廊下でお待ちいただいています。その、では……」
萩城先生が少し悲し気な顔をして言う。この人は頼りないが、こうしてみると、ちょっと男の庇護欲を煽るところがある。もしかすると一部の男性教員には人気があるのではないか。
「はい、先生、お願いします」
藤村が言う。〝お願いします〟とは、つまりは〝出ていけ〟を意味する。藤村はいい奴だが、いい奴だからこそ責任感も強い。そして往々に人は、その責任感の強さ故に残酷にもなる。これは世の中の皮肉な摂理だ。誰が悪いというのでもない。この場限り、萩城先生にはささやかな犠牲になってもらおう。
萩城先生は廊下に出ると、後ろ手で扉を閉めた。外で川井先生らしき人と二三会話しているのが分かる。話の内容は不明だが、たぶん簡単に今の状況を説明しているのだろう。「私は外にいる」と、言うことについてなんかを。
間もなく、待ちに待った瞬間が訪れた。
扉が開いた。
皆が息をのむ。僕もそれにつられてしまう。
果たして入ってきたのは、見た目大変に年若い男性だった。青年と言った方が良いかもしれない。制服を着せたら生徒だと言い張っても疑われないくらいに、若々しい容姿をしている。僕は少し面を食らった。「この人が?」と思った。
しかし、僕以外のクラスメイトは、そしてこの教室全体は、何となく異様な雰囲気に包まれていた。誰もが沈黙していた。皆、彼の怪我とその後遺症について知っているはずだから、何と声をかけてよいのか逡巡しているのかもしれない。素直に喜びの声を上げることも、思いのたけを言い募ることもできずに、沈黙して、先生の一挙一動に目を見張っている。
川井先生も生徒たちのこの様子に気圧されているのか、どこか緊張した面持でいる。暫くの沈黙の後、ついに先生が口を開いた。
「みんな、こんにちは……でいいのかな? なんというか、初めましてというのはおかしいし、こんな状態じゃ、お別れを言うというのもなんだかおかしな感じがするよな。ハハハ。なあ、みんなはどう思う?」
生徒たちは顔を見合わせる。ほんの少しだけ、笑い声も零れる。少しずつ氷を解かしていこうとする彼らの努力が分かる。
「みんなには迷惑をかけて本当にすまないと思っている。本当はこんな形でお別れするのはいやなんだが……ただ、しっかりみんなとお別れするために、せめてもの思いで問題集の採点をしてきた。自分がどんな問題を作って、それをみんなに解いてもらおうとしたのか。みんなにどんな解答をしてもらったのか。そして、自分はちゃんと教師として、みんなに教えることができていたのか……」
先生の言葉に皆が真剣に聞き入る。何人か、目頭を押さえている生徒もいる。
「この問題集は、僕とみんなを繋ぐ、絆だと思っている。僕がみんなに数学を教えて、それをもとに僕が問題集を作って、そしてみんなに解いてもらった。みんな、ちゃんと解答してくれていた。もちろん、全問正解というのは難しいけど、それでもみんな、ちゃんと設問に向き合ってくれていた。それが、僕にはとても嬉しかった。僕は多分、みんなにとって、ちゃんと教師としての役目を果たせていたんだと、そう思った……みんなは、どう思うだろうか……?」
「そうだよ、先生」「その通りだよ」
と、涙まじりに何人かの生徒が口々にそう答えた。
先生の目にも涙がにじんでいるのが分かった。
「ありがとう、みんな」
教室中のどこからともなくすすり泣く声が聞こえてきた。僕も、こんな光景に少し心動かされていた。確かにこの川井先生という人は、みんなから慕われて然るべき先生であったらしい。今の言葉からだけでも、僕にはそのことが十分に伝わってきた。
そして、先生は床に置いていた鞄を拾い上げると、中身を取り出しながら言った。
「じゃあ、いまから問題集をみんなに返していくから、呼ばれた人から……」
と、その時藤村が立ち上がって言った。
「川井先生、今俺たちはちょうど出席番号の順に席に座っています。だから、先生の方から、みんなのところを周って問題集を配ってほしいんです。今まで先生は、そうやって返却してくれていたんです。先生が担任をしていた一年Ⅰ組だけではなく、他のクラスの授業でもそうしていらしたと聞いています。それができたのも、先生が自分が担任するクラス以外の生徒の顔と名前も、ちゃんと覚えていたからです。最初の授業の時ですらそうだったと聞いています。こんなに生徒数の多い学校なのに、みんな、先生に顔と名前を憶えてもらえていたことに驚き、そして喜んでいました。先生は、本当に俺たちひとりひとりと向き合ってくれました。だから、最後も、形だけでいいので、その時と同じようにしていただきたいんです。そうやって俺たちは、川井先生とお別れがしたい……」
それを聞くと、川井先生は優しく微笑んだ。
「分かりました、そうしましょう」
そして、窓際の前の席から、順番に問題用紙が返却されていった。ただ「お世話になりました」とだけ言ってそれを受け取る生徒もいたし、先生と二三言葉を交わす生徒もいたし、感極まって何も言えずにいる生徒もいた。先生が教室を周るのを、みな目で追った。そして、ついに先生は、最後の席にまできた。そう、僕の席だ。
大変居た堪れない状況ではあるが、余り空気を壊さぬよう、僕は無言でそれを受けとった。先生も、他の生徒にしたのと同じように、それを僕に渡した。このことの意味するところを、クラスメイト全員が理解していた。僕がそれを受け取ったのを見た瞬間に、志村さんをはじめ何人かの女子生徒は憚りなく泣いた。
問題集を全て配り終えた川井先生は、どこか悲し気に、トボトボと教壇へと戻っていった。そんな先生の後ろ姿を皆は忘れることができないだろうと、僕は思った。
それからは粛々と時間が過ぎた。
代表の生徒が色紙と花束を先生に手渡して、感謝の辞を述べた。
最後に先生は「本当にありがとう。みんな、さようなら」と言うと、退室していった。
入れ替わりで萩城先生が入ってきたが。やはりどこか気まずそうだった。しかし、目に涙を浮かべた生徒たちの姿を見ると、それが彼女にも伝染したのか、その声はどこか涙ぐんで聴こえた。川井先生の同僚として、彼女にも思うところがあったのかもしれない。生徒にとって良い先生だ。先生にとってもきっといい仕事仲間だったのだろう。
そしてロングホームルームが終わった。僕はどうしたものかと受け取った問題集を眺めていた。それはA3サイズのコピー用紙を半分に折り束ねて綴じた、オリジナルの問題集だった。
表紙の上部には「数学IA 問題集」というタイトル、中央には定規や鉛筆などの描かれたシンプルなフリーイラスト素材、底部にはクラスと出席番号、そして本来の持ち主の名前が書いてあった。
一年Ⅰ組。出席番号三十番。名前、渡辺恵人。
流石に中を見るのは気が咎めた。
「それ、志村に預けておいてくれないか?」
そう藤村が話しかけてきた。
「いいのか?」
「志村は渡辺の家の近所に住んでるんだよ。幼馴染ってやつさ」
「なるほど……」
志村さんは既に荷物をまとめて帰ろうとしていたので、僕は急いで彼女に席に向かった。
「ちょっといいかな」
余り面識のない(しかもさっきまで泣いていた)女子にいきなり声をかけるのは気が引けるが仕方ない。
「あれ、千羽っちじゃん。どうしたの?」
千羽っち?
志村さんはまだ目が赤い。
「これ……」
と、僕は彼女に例の問題集を渡した。
「あ、これ」
「藤村に言われたんだよ。志村さんに渡しておいてもらうよう頼むのが都合がいいって」
「ええ、健吾のやつ私に押し付けたなあ……って、あいつもう居ないし!」
僕も藤村の席を振り返り見てみたが、確かに彼は既に席に居なかった。
「家が近くだから頼んだって言っていたよ」
「いやいや、健吾の家だって恵人の家の近くじゃん!」
「あれ、そうなの?」
「まだ仲直りしていないのかなあ? まあいいけど……」
といいながら、彼女は問題集をぺらぺらと捲りだした。おいおい遠慮がないな、と思いつつ、僕も僕で、いったい川井先生はどんな問題を作っていたのだろうという好奇心を抑えることができなかった。
「うわ、これ、結構難しいな……」
これでも伊達に勉強ばかりしてきたわけではない。僕には少し見ただけでその問題集のレベルの高さが分かった。
「だよねえ。でも殆ど正解してるんだもん、さすが恵人って感じ」
「それにしても、川井先生の授業って、結構ハイレベルだったんだなあ」
「ああ、違うよ違う。この問題集、ひとりひとりのレベルに合わせて先生が問題を変えてたんだよ。私のはもっと簡単だよ、ほら」
と、見せられた志村さんの問題集の出題は、確かに平均的なレベル(というより、初歩的)だった。
流石にここまでくると、なんだか川井先生のことが少し恐ろしく感じられる。過労死する前に教師を辞めることができて寧ろ彼は幸運だったかもしれない……
ロングホームルームがあったこともあり、その日僕は部活見学をすることなくそのまま帰宅した。
昨日までの不可解なクラスメイトの様子も、やはり今日の川井先生の件と絡んでいたのだと、僕はもう一度無理やりに結論付けて、それ以上考えないようにした。そう思うことで、この日の帰路は、昨日のそれよりも足取り軽やかに感じられた。
しかし、部活動選びの懸案は依然僕の胃にこたえた。
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