第一章 Bogus(上)
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第一章 Bogus(上)
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帰宅して早々、母や二つ下の妹に新しい学校について色々と聞かれた。それを軽くいなすと、これまたまだ慣れない新しい自室に籠って、僕は深くため息を吐いた。
〈件名:緊急事態
本文:どうやら帰宅部は無いらしい。〉
僕は気晴らしに菅原にそうメールした。
〈件名:Re 緊急事態
本文:無いなら作ればいいじゃないか。記念すべき歴史の一ページに自分の名前を刻むチャンスだよ。少年よ大志を抱けだ。〉
〈件名:Re Re 緊急事態
本文:無いというか、正確には無期限活動停止中なんだよ。お上の御布令さ。〉
〈件名:Re Re Re 緊急事態
本文:なら革命しかないな。校舎を占拠して徹底抗戦するべきだ。〉
それじゃ帰宅できないじゃないか。と、ばかばかしくなった僕は携帯を放ってベットに横になった。
もう一度冊子を読み返してみようかとも思ったが、そんな気力はもう湧いてこなかった。
眼を閉じてみる。今日一日だけで色々なことがあった。
クラスメイトのこと、藤村のこと、そして、あの不思議で不気味で不愉快な女子生徒のこと……
彼女は誰に対してもあんな感じなのだろうか? だとしたら、きっといつかひどい目にあうぞ……でも、僕に心配してやる義理なんてないか……
その晩僕は、夕飯もとらずに制服のまま眠ってしまった。家族にはテキトーに言い訳をしておいた。余計な心配をかけたかもしれない。
目を覚ますと、まだ寝ぼけている僕は「ここはどこだろう」と、目をこすりながら思った。ああ、そうか、引っ越してきたのだった。
前よりも狭くなった自室には開けていない段ボール箱がうずたかく積まれたままで、顔を洗いに行こうとする僕の行く手を阻んでいる。「これは物の配置の仕方に気を配ならければならないぞ」と、考えながらここ数日先延ばしにしてきて今に至るのだ。
荷物の中には写真やアルバムの類は殆どない(愛着の持てない小学校や中学校の卒業アルバムは例外だが)。これは僕がギリギリデジタルネイティブの世代だから、ということだけが理由ではない。僕の世代だって、何と言おうか、手で直接触れられるものへの特別な愛着というか感性は持っていて、漫画を読むときも、電子書籍より紙の方を好む。実際、幾つかの段ボール箱には漫画本が詰まっており、それに脛をぶつけた僕は今痛みに悶えている。時勢柄、滑稽とも思われかねない僕の物への関心は、実際他の人もする物への関心(例えば物欲とか言われるもの)に足許をすくわれるの例にも似ていて、今まさに足を抱えて悶えている僕の姿は実にカリカチュアに富んでいる。
僕のように、場所に関心を持てなかった人間が、物に対してより強い関心を向けるというのは、精神病理学的にはちょっとしたパラノイドの類ということにもなるだろうか? 写真を収取するという行為は、場所や時間への関心を物への関心に変換する人類の生み出した奇抜な方法(芸術?)だけれど、それにはやはり場所や時間への関心が前提条件なのだ。だから僕は、本とは違い、写真はデジタルで十分だと思っている軽めのダブスタ人間ということになる。まあ、僕でなくても、人間の価値観というものは大なり小なり何処かでねじれているものだから、別に気にすることもない。
早く寝すぎたのだろう。陽が昇る前に起きてしまった。
着替えずに制服のまま寝ていたので、シャワーを浴び、下着とワイシャツだけ着替えてから、ゆっくりと(この頃の僕には珍しく)朝食を食べた。ただ、やはり朝は食欲が湧かない。胃の中が重たい感じがする。
家を出たとき、まだ始業時間までかなり余裕があったが、僕は特に寄り道もせずに登校した。朝早いこともあり、昨日のようにバスにすし詰めにされずに済んだのはよかった。明日からは夜更かしや過眠はやめて早起きをし、少し早く出るのが吉ということかもしれない。まあ、結局は気分次第になるだろうけれど。
教室につくと、案の定人の数は少なかった。いや、少ないというか、まだ一人しか来ていなかった。それは僕の隣の席の藤村だった。
僕は挨拶をしようか悩んだ。昨日のこともあり躊躇したのだ……すると、藤村の方も僕に気が付き、にこりと笑うと「おはよう」と言ってきた。
僕も嬉しくなって、ついハニカミ笑いで「おはよう」と返した。
「確か千羽だよな? 俺は藤村。昨日はあんまり話せなかったけど、これからよろしく」
彼が握手を求めてきたので、僕はそれに応じた。
「えっと、よろしくお願いします」
昨日のクラスメイト達への不審と、この彼のどこか昔気質な感じちょっと気圧されて、思わず僕はかしこまってしまう。
「おいおい、敬語はよせって。俺たちタメだろ? あ、まさかダブって転校してきたってわけでもないよな……?」
「ハハ、違うよ。親の転勤だよ」
「ならよかった」
「いつもこんなに早いのか?」
「ん? ああ、いや、今日はたまたま早く起きただけだよ。なかなかいいぜ、教室に一番乗りっていうのも。そういう千羽は?」
「俺もたまたま早く起きたんだ。まだここにも慣れていないしさ」
「そうか、まあ、そうだよな。俺、転校ってしたこと無いからさ、どんな感じかあんまり想像できねーや。やっぱり大変だったりするのか?」
「どうだろう、俺はもう慣れているから。でも、高校で転校すると試験を受けなおさなきゃいけないから、それは面倒くさかったな……」
「ああ、確かにそんな話聞いたことあるぜ。そりゃめんどいよな」
藤村は言うと嫌味なく爽やかに笑った。
同世代と比して多くのクラスメイトと接してきた僕の人物眼は遊牧民のようによく利く。こんなに嫌味なく笑える人間は大抵いい奴だ。だからきっと、藤村もいい奴だ。僕が、笑顔一つでころりと落ちるチョロい男だというわけではない。
僕は話して間もないこの男に、つい心を許してしまう。
こんな調子で僕たちは、二三他愛ないやり取りをした。藤村に前の学校について聞かれたので僕が話しをすると、今度は彼が新しい学校の話をしてくれた。自然話題は、今のクラスについてのことに移っていた。
「もう誰かと話したりしたか?」
そう聞かれた僕は、何とも微妙な表情をしながら首を横に振った。僕は人付き合いを好む方ではないが、別に人見知りというわけではない。場数も踏んでいるし、寧ろ初対面の相手と接するのにはなれている。昨日のことは、僕にもよくわからない。だから、それのせいで藤村に人見知りな暗い奴だと思われるのはなんだかフェアでない気がするし、そう彼に思われることも嫌だ。
「うまいタイミングがなくてさ……」
言い訳にもならないような言い訳を僕はした。
「……まあ、ちょっとバカっぽい奴は多いけど、嫌な奴はいないからさ、安心しろよ」
と言う彼の言葉には、何故だろう、どこか心苦しげな響きがある。彼はつづける。
「前の先生の話って聞いているか?」
「少しだけ萩城先生に聞いたよ。でも詳しくは知らない。今日挨拶に来るんだっけ?」
そういえば、と、僕は思い出して、昨日彼に聞きそびれていたことを聞く。
「俺は居ても大丈夫なのか……?」
プッと、藤村が吹き出した。
「なんでだよ?」
「だって、萩城先生には外にいるように頼んでいたじゃないか。あれってつまり、そういうことだろ?」
「ああ、そのことか……」
藤村は少しの間思案するように黙った。僕は彼の言葉を待った。
「あれは、そうだな、まあ、気分というか、分るだろ? 川井先生って、凄くいい人だったんだ。恩師って言葉があるけどさ、まさにそんな感じだよ。みんな川井先生が好きだったからさ……萩城先生には悪いけど、なんだか最後はやっぱり、〝川井先生のクラス〟ってやつをもう一回味わってからお別れしたかったんだよ。先生が二人いたら、なんだかこう、別れも事務的な感じになる気がするし、空気も壊れるだろ?」
そんなものだろうか? と思いつつ、僕はとりあえず頷いておく。
「じゃあ、生徒の俺なら、別にいてもいいってわけか」
「まあ、そういうわけだな。昨日の昼休み、そのことについてみんなでちょっと話したんだけど、千羽なら別にいても大丈夫だろうってことになったんだ」
僕は合点した。昨日のはそういうことだったのか。しかし、中々に結束の強いクラスだな……これも川井先生とやらの人格の成し得る業ということだろうか。生徒たちにそこまで慕われる人格者なら、かわいそうな萩城先生を生徒たち自らハブらせるようなことだってできてしまう、というわけか……?
「とりあえず事情は分かったよ。じゃあ、俺はなるべく邪魔にならないようにじっとしているよ」
「と、そのことなんだが……ちょっとお願いがあるんだ」
藤村の声色が少し真面目になるのが分かった。それに応じて僕も居住まいを正してしまう。
「身構えるなって、大したことじゃないよ……今日のロングホームルームで川井先生が挨拶をしに来るのは今まで話していた通りなんだが、そのとき問題集が配られるはずなんだ」
「問題集?」
「数学の問題集さ。川井先生は数学の先生だったんだ。で、その問題集は宿題にも使われていたんだけど、提出したあと返却されるまえに先生が辞めることになっちゃってさ、それで最後にそれの返却があるんだよ。で、多分千羽にもそれが返されると思うから、そのときは黙って受け取ってほしいんだ……」
この藤村からのお願いに対して、僕は当然の疑問をぶつける。
「ちょっと待ってくれ。俺は問題集なんて提出していないぞ? だって……」
「いや、分っている。返却されるの問題集は千羽のじゃないんだ」
まだ話が呑み込めない。首をかしげる僕に彼は説明を続ける。
「千羽が今座っている席。元々は別のやつの席だったんだよ。千羽に返却されるのはそいつの問題集なんだ」
「……ごめん、話が読めないな。席が同じだからって、なんで他人のものを俺が?」
藤村が少し言いにくそうな顔をする。とは言え、僕の疑問は正当なものだ。どう考えても、彼の言っていることは不自然だ。それに、その不自然さに押されて聞き流してしまったが、川井先生は「辞める」らしい。県立高校の教師ということは公務員だ。てっきり僕は、何かのっぴきならない理由があって転勤でもすることになったものだと思っていたが、「辞める」というのは、教師という職自体を辞するということだろうか?
少しの間口ごもっていた藤村がようやく話はじめた。
「そうだよな、同じクラスメイトとして、千羽にはちゃんと話しておいた方がいいか……その、なんだ、これは先生が辞める理由でもあるんだが、先生にはここ数か月の記憶が無いんだよ」
「えっと……つまり、記憶喪失ってやつか?」
僕はちょっと信じられないとった風に言った。
「ああ、そうだ。記憶喪失ってやつだ。実際にはもっとややこしい病名が付いていたと思うけど、でも、それであってる。あと、このことは他のクラスのやつらには秘密にしておいてほしいんだが……」
しかし、まだ話が繋がらない。〝同じクラスメイト〟として「ちゃんと話す」と言ってくれたからには、僕にも質問をする権利はあるだろう。僕は少しだけ大胆に聞いてみる。
「ああ、分ったよ。川井先生の事情も何となく把握できた。ここ数か月の記憶がないってことは、つまり、下手したらこの一年Ⅰ組で担任をしていた時期の記憶もごっそりないってことだろ? それも、担当した生徒の顔も名前も覚えていないってわけだ。だから、川井先生は俺の今座っている席にもともと座っていた生徒……」
「
「……その渡辺って生徒が誰だか覚えていない。同じように、その生徒がもういないことも覚えていない。だから、僕がその生徒の代わりに問題集を受け取っても、川井先生は疑問に思わない」
「理解が早いな。そういうことだ」
「でも、どうして?」
「どうしてそんなことをする必要があるのか、ってことか?」
僕は頷いてみせる。
「それは、先生のためだよ。こんなことに巻き込まれて、千羽は迷惑かもしれないけど、先生とは快くお別れしたいんだ……」
僕は話の続きを無言で促す。
「川井先生が生徒思いだったって話はさっきしたよな? 俺たちもみんな先生が好きだった。でも、先生は俺たちのことを覚えていない。覚えていなかったとしても、先生はきっと、俺たちのことを考えてくれるはずだ。記憶はなくしても人柄までは変わらないだろうからな。だからこそ、そんな先生が、もし自分の受け持っていた生徒が一人いなくなっていたと知ったらどう感じると思う? きっと心配するはずだ。もしかしたら、自分を責めてしまうかもしれない。覚えていないながらも、いや、覚えていないからこそ。自分の力が至らなかったからこういう事態になったのだと。先生はそういう人なんだ。だから、俺は、俺たちは、渡辺がいなくなったことを、先生に知ってほしくない。萩城先生に居られると困るのもそのためだ。先生にも同じように頼もうかとも思ったが、問題集と言っても個人情報だからな。こんなご時世だ。少しの間でも別の人間の手に渡るってことを許してくれる保証はない。まあ、そうでなくても、こんなことを先生にまで頼むのは骨が折れる。だったらテキトーなことを言って出てもらった方が早い……考えすぎだと思うか? まあ、そう思われても無理はないよな。承知の上だよ。でも、川井先生はそういう人なんだよ。ほんとうに、それだけ優しい人なんだ。それに……」
「それに?」
「先生の記憶喪失は、俺の責任でもあるんだ。俺は体操部なんだけど、先生はそこの顧問だった。先生の記憶喪失は、部活中の怪我が原因なんだ。俺が先生に無理を言って、個別にコーチしてもらっていたんだよ……」
言うと藤村は沈黙した。
釈然としない箇所は依然あったが、僕はそれをうまく言語化して質問にすることができなかった。それに何より、藤村のした話には心を打つものがあった。僕たちはまだ高校一年生だし、それも、まだ後期学期が始まったばかりだ。ということは、川井先生が彼らと接していたのはせいぜい半年弱ということになる(いや、もっと短いか)。その僅か数か月の期間だけで、これだけ生徒の心をつかむ教師がいるだなんて、僕にはちょっと想像ができなかった。想像はできなかったが、そのような教師が確かにいたのだということを、藤村の語り口は物語っていた。だからこそ、彼の抱く過剰な懸念も、僕へした不可解な依頼も、不思議な説得力を持っており、僕は納得してしまった。確かにまだ何とも言い難い違和感のようなものは残っているが、しかし、それをいちいち追及するのも野暮な気がする。
「分ったよ。藤村の言うとおりにするよ」
「ありがとう、恩に着るよ」
「でも、先生の怪我のこと、状況はよく分からないけどさ、あんまり自分の責任だとか思うのはやめた方がいいよ。それこそ、先生の望むことじゃないだろ?」
藤村は少し悲しげに微笑みながら、ありがとう、と言った。
いったいどういう状況での怪我だったのかは分からないが、きっと彼は本当に自分のことを責めている様子だ。だからこそせめてもの償いとして、自分から率先し川井先生の花道を飾ってやろうとしているのだろう。そのことを思うと、僕には彼の健気さが少し哀れに思えてきた。先生もそうだが、やはりこいつもいい奴なんだ。
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