0-6


 二十分ほど迷った挙句に、僕は通りがかりの先生に音楽室の場所を聞いて、漸く「マイコン部兼点字部」の部室前にたどり着いた。それは第三棟校舎(通常授業の教室は第一棟にある)の四階の端にあって、近づくごとに大きくなるユーフォニアムの響きを腹の底に感じながら、それを標に歩いて行ったのだが、帰宅部十年選手の僕の足腰を以てしても困憊必至な道のりだった。

 第一音楽室の方では吹奏楽部が練習をしているらしく、それはかなりの音量だった。申し訳程度の防音対策のポーズだろう、教室の扉の窓には(第一も第二も)段ボールが貼り付けてあって中の様子は窺えない。

 僕は第二音楽室の扉の前に立ちつつ、どうやって入っていこうか少し悩んだ。

 第一声はどうしよう? 転入生であることを伝えれば話はスムーズに進むだろうか? ノックしてから入る? いや、でもとなりの演奏の音がうるさいし気付いてもらえないかな?

 逡巡の言い訳にもならないようなことを色々と考えた末に、こんな風にして時間稼ぎをしても無意味だと悟った僕は意を決して扉をゆっくり開け、中の様子を覗いてみた。

 ノックはしなかったが、折悪く隣室の演奏が止んだので、対照的に扉の開く音が室内にいやに響いた。


 教室には入口が二つあったが、僕が開けた反対側の方の扉の前は音楽室の備品に占拠されており、人の立ち入れるスペースは教室全体の半分までしかなかった。

 その空いたスペースの中央辺りには机が四つ向かい合わせに配置してあり、そのさらに向こうの窓際にはひとつの長机があって、その上には古くさいデスクトップパソコンと、タイプライターのようなものが置かれていた。

 いや、こんな室内の物の配置のことなんかどうでもいい。僕の注意を一番に惹いたのは、その四つの机の内の窓側の一隅にひとり腰かけている、今朝の見たあの少女。微睡みのような時間の中で、非現実の印象を僕に克明に焼き付けた、あの小柄な、白杖の女子生徒であった。

 ぼくは心ひそかに「やはり」と思った。


 僕はひとつ息をのむと、恐る恐る部室に足を踏み入れた。先ほどまでの喧騒と対を成した静寂は殊更に深く感じられて、冷房が効いているとは言つつも汗ばむ晩夏の室内には、それでも冷水に浸されたような緊張があった。

 彼女を観察しながら、足を踏み入れ、更に奥へと歩一歩歩み入ると、彼女は片耳にかけていたイヤホンを外して、白濁とした双眸を威嚇する蛇のように見開き、机に立てかけていた例の白杖を手に取って、それで床をピシッと叩いてから「止まれ」と言った。

 そして彼女は、そのまま白杖で床に半円を描くような仕草をし、「それ以上私に近づくと叫ぶぞ」と警告をした。その声音にも、水中に沈んでいく冷ややかな感じがあった。

 僕は面食らってしまい、立ち止まりながら思わずそんな彼女の眼を凝視した。焦点はあっていないようだ。とすると、やはり彼女は見えていないのか。

「誰だね、きみは」

 そう言う彼女の声音と表情には明らかに警戒の色が表れている。

「えっと、自分、転入生で……」

「それで?」

「その、入る部活を探していて」

「ふむふむ、それで?」

「その、つまり……」

「つまり、何だ? うちに入部したいと言うのか?」

「それはまだ決めていませんが、まずは見学にと……」

「フフ、見学、か」

 と、彼女は低く笑った。徐々に警戒を解きつつあるようだが、裏腹にその語勢は尋問めいてきて、やはり僕には居心地が悪い。

「あいにく部員は募集していないんだ。既に汚い犬ころを二匹も飼っていてね、これ以上は面倒見切れない。悪いが他をあたってくれ」

 それでも依然冷ややかに響く彼女の声に、僕は光の届かない深海でそれを聴く小魚の心地にさせられた。僕の心も冷たくなっていった。

「はあ、そうなんですか……」

「そういうことだ。それに、我が部に見学するものなんてないぞ」

 彼女は、それこそ犬でも払いのけるように掌をひらひらと、僕に退室を促した。

 見学するべきものがないというのは僕としては寧ろ好都合なのだが、こう邪険に扱われては流石に虫が好かない。こんな性悪がいる部活はこっちから願い下げだが、しかし、彼女はやはり僕の目を惹く。

 僕は半ば意趣返しのつもりで、彼女が見えていないらしいのをいいことに、その容姿を思い切り眺めまわしてやることにした。


 まずは足許から……

 上靴の色から同学年でないことが分かる。僕は一年生だから、つまり彼女は上級生ということになる。年下だと言われても全く不思議はないので、これはちょっと意外だ。それに、履いている白ソックスも、スカートも、夏服のセーラーも、糊が利いていて、おろしたてのようにぴかぴかだ。制服なんて毎日着るのだから誰でも多少はよれて汚くなるものだが、彼女にはそれがない。見た目に気を遣う質なのだろうか? 見えていないのに? それとも、彼女の家族が、例えば彼女の目の見えないのを理由に、敢えて身なりに気を遣わせているのだろうか? だとすると、こんなある種の「運命への抵抗」は、どこか痛ましくすらある。

 黒い艶やかな髪は胸元までまっすぐ伸びて、こちらにもやはり手間を感じる。制服と同様、きっと誰かが丹念に手入れをしてやっているのに違いない。

 ずいぶん小柄。僕の身長は平均程度だが、今朝すれ違った感じから、彼女の背丈は多分僕の肩程までしかないと思う。

 鼻は小さい。口も小さく、唇はぷっくりとしてかわいらしいが、まじめらしく引き締められた口の端は殆どへの字に曲がって見えて、いかにも気難し気だ。

 頬の血色は良く、彼女が健康なのをよく証ししている。

 眉の上あたりで綺麗に切りそろえられた前髪は、彼女の小さな挙止をさざ波に変えて、白いおでこを波光のようにちらりと垣間見せてくれるのが愉しい。

 美少女と呼んで憚らない。「人形のような」という常套な比喩が、しかし物語の外でも妥当する少女というのは極めて稀である。几帳面に手入れされた制服や髪から、彼女の私生活が香って来ないというのも、この人形の印象に一役買っている。

 つまりは、まるで生きていないというような感じ。僕はふと、彼女を剥製にしたいと思った。或いはもう、剥製なのかもしれない。大きなショーケースに収めたら、さぞ映えることだろう……

 しかし、しかし、その場合、この蛇のような、白濁とした眼はどうしたものか……

 そしてまたどうして、彼女はその見えていないであろう眼をわざわざ開いているのだろうか?

 僕は盲人に対するステレオタイプから、彼らは思慮深く話を聴く人のように、或いは物思いにふける哲学者のように、また或いは日向に微睡む平和な好々爺のように、常にその眼を優しく閉じているものだと、そう勝手に考えていた。僕は、幼児期に事故で片目の光を失って、以来その白濁した眼を酷く恥じたというある文学者の話を思い出した。しかし、彼は片目が見えたから、そのもう一方の眼の醜さを知れたのだ。彼女がもし自分の眼の白く濁ったのを見たのなら、彼女はそれを恥じただろうか? 彼女は自身の美しさを知らない。同様に、そしてまたそれのために、その目の醜さもまた知らない……この何とも言えぬ不条理。こんな感想は、無論僕の勝手な憐憫に過ぎないのだけれど……

 大きな目。白い黒目。作りかけの人形の顔の、この大きな余白。ここまで身なりに気を遣うのなら、彼女の家族は、それこそ本当の人形か剥製にするように、彼女に義眼でも嵌めてやればよいだろうに……


 ピシッ、とまた白杖の音が響いた。

「いつまでいるつもりだ、きみ。どうせ私のことをじろじろと見ているんだろう? いやらしい奴……本当に人を呼ぶぞ!」

 ただ、彼女が如何に非現実的な美少女であっても、初対面の人間に対してこの態度はあんまりだ。僕はやり返すつもりで、すこし意地悪な質問をしてみる。

「どうしてそんなことが分かるんですか? どうせ、なんていう副詞で推測の風を装っていますが、本当は見えているんじゃないですか?」

 彼女の顔つきが変わるのか分かった。結構表情にでるタイプらしい。

「ほう、言うじゃないか。こんな言い方もおかしいが、私は歴とした全盲だよ。生まれてこの方、一度だって見えたことがない。ところで、その言い方だと、つまり私をいやらしく見ていたことは認めるんだな? ハッハッハッ」

 しまったと思いつつも僕は食い下がる。

「じゃあどうして」

 彼女は不意に立ち上がると、暗闇を行く人のように手を前に差し出しながら僕の近くに寄ってきた。そして、僕の前襟を掴みぐいと引き寄せると、言った。

「私が美しいからだよ」

 僕は驚いてのけぞりながらも、思わず笑ってしまう。

「ナンセンスですよ。そんなことは。確かにその……まあ、先輩が美しいかどうかは、俺の意見は差し置くとして……でも、もし仮にそれが真実でも、あなたはそれを知らないはずです。だってあなたには確かめようがないじゃないですか。自分の知れないことを根拠にするんですか?」

「見えることだけが全てではないさ。私にとっては、特にね。それに、視覚にも増して確信にたる情報というものもある。例えば……」

 と、彼女はさらに強く僕を引き寄せた。彼女の髪の毛から漂う蜜蝋のような得も言われぬ甘い香りが鼻孔をくすぐった。

 彼女は僕の耳元で、囁くように言った。

「だんだんと鼓動が早くなっているぞ? 具合でも悪いのかな?」

 思わず僕は彼女の肩を掴んで引き離した。

「やめてください! こんなことされたらだれだって……」

「フン。まあ、視覚的な美醜の問題なんて、私からしたら一番とるに足らない問題さ。どうでもいいことだよ。見るくらいなら許してやる」

 なら、何を見ても良いのだろうか? それと、見ること以外、例えば嗅ぐことなんかは許されないのだろうか? 僕はこんな場違いな、愚にもつかないことをつい考えてしまう。

 彼女は踵を返すと、手探りで元の席に戻って行った。

「さあ、これきりだ。入部はあきらめて帰り給え」

「分かりました。それに、入部すると決めて来たわけではありませんから、別に構いません」

 僕の精一杯の強がりを聞くと、そうかそうかと言わんばかりに、彼女はまたその小さな掌を蝶のようにひらひらとさせて僕に退室を促した。

 僕は舌打ちのひとつでもしてやりたくなったが、なんだか怖いのでやめておいた。


「そういえば」

 部屋を出る直前に、僕は思い出したように呟いた。

「まだ何かあるのかね」

「どうして俺が来たとき、部員じゃないと分かったんですか?」

「なんだ、そんなことか。足音を聞き分けるくらい容易いさ。きみのそれは、さながらコソ泥のようだったよ」

 言いながらまたハッハッハッと嗤う彼女を背に、僕は「そうですか」とだけ呟いて部屋を出た。丁度その時、今まで止んでいた吹奏楽部の演奏が再び始まった。さっきよりも練度が落ちたように聴こえるのは、それが新入生によるものだからだろうか?

「散々な目に合ったな……」

 僕は吹奏楽部の演奏(もとい騒音)に紛れて、そうひとりごちた。


 転校先での僕の学校生活初日は、こうして(不安と不快いっぱいのまま)幕を閉じた。



♪♪♪♪♪♪

「第一章 Bogus」につづく

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