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 先生がニュートンの三法則の解説を終えたあたりで終業のチャイムが鳴った。すると透かさず例の隣席の男子が席を立ったので、僕は思わずそちらを見た。隣席だから、という関係もそうだが、流石に彼のことは印象に残っていた。名前は藤村健吾ふじむらけんご。部活は確か、体操部だと言っていた。耳周りからうなじまで綺麗に刈り上げられた頭髪は(スポーツ刈りとまでいかないまでも)かなりの短髪で、細身の中背だが顔つきは精悍としており男らしい。端麗とは言えないまでも、好青年と言って申し分ないその様子は、如何にも年上に好かれそうな感じがして、先ほどのやや威のある物言いから受けた印象とはちょっと相容れないようにも思える。

 トイレでも我慢していたのかな? と思いながら僕は藤村を目で追った。僕の横に立った彼はそのまますぐに歩き去り、後には制汗剤のものであろう柑橘の匂いが残った。


 果たして彼が向かったのはトイレではなかった。勿論、彼の行方をつけまわしたりしたのではない。彼の目的地は僕のすぐ目の前にあった。志村さんの席である。

 藤村が志村さんの耳元で何か呟いている。聴き終えると志村さんは誤魔化すような微笑を浮かべながら、藤村に詫びるようなジェスチャーを取った。

 二人のやり取りはこれで終わった。

 その後、藤村は首を伸ばしながら当たりを見廻すと、最後に僕の方をちらりと見て、そのまま教室を出て行った。

 彼が教室を後にすると、他の生徒たちもそれに続くようにぞろぞろと退室していった

 驚いた僕は、何か集会でもあるのかと思い、遅れて彼らに着いていこうとした。しかし、教室を出たすぐそこで、他クラスの生徒と立ち話をしている萩城先生を見つけたので事情を尋ねてみたが、先生は何も知らないと言う。

 僕は皆の様子を怪しんだまま、教室の自席に戻った。自分を残して誰もいなくなった教室でぽつねんとしていると、彼らと親密になる気の端からない僕ではあっても流石に寂しくなってくる。

 僕は机に突っ伏しながら考えた。やはりこの学校は何かがおかしい。少なくともこの教室は異常だ。そもそも、僕がどんなに魅力に乏しい人間であったとしても、転入初日ともなれば、休憩時間などはそれなりの人だかりに囲まれるはずだ。それも、昼休みを待つ間もなく、授業の間の五分休憩なんぞにはそんな人だかりから口々に質問攻めを浴びせられる苦痛を僕は何度も経験してきた。それが、今日は一度もない。

 でも、僕が自己紹介をしたときは、少なくとも彼らの反応はあった。とんまなことは言っていたが、その反応に敵意は無かった、と思う。僕の自己紹介の仕方も(多少不愛想だったかもしれないが)無難だったはずだ。

 だとしたら、その後で僕が何か彼らの気に障るようなことをしただろうか?

 いや、そんなはずもない。授業は静かに受けていたし、彼らひとりひとりの取った自己紹介の労にも、一応拍手で報いた。


 ……じゃあなんだ? 何が起きているんだ? ドッキリか? 今にも教室の扉からカーニバルの衣装でも身に着けたクラスメイト達が雪崩れ込んできて、歓迎の乱舞か何かを始めるというのか? いや、だとしたらそれは余りにも愉快すぎる。


 考えても仕方がないので、僕は母親の作った昼食の弁当を食べることにした。まさか昼休みに自分の教室でボッチ飯をすることになるとは思わなかったが、明日もこんな調子なのだろうか? 冷たくなった唐揚げが緊張で乾いた喉に引っかかって僕はむせた。その音が誰もいない教室に響く。水筒の麦茶で飯を流しこんでから、誰もいないことに乗じてわざとらしく大きなため息をついてみるが、これもまた虚しく響いた。

 教室の前後にある引き戸はどちらも閉められていて、廊下から誰かの駆ける足音や笑い声のなどの雑然と入り混じった音が這入ってくる。今朝がた廊下で味わった排他感を、裏腹その日のうちに今度は教室内でも味わうというのはどこか矛盾めいている。

 本当に独りだ……と思いながら、僕は教室を見廻してみた。代り映えのしない教室。特徴と言えば、生徒の座る椅子の背板と座板が黄緑色をした樹脂製だということぐらい。僕は食べかけの弁当をそのままに席を立つと、美術館に訪れた見学者のような趣で、後ろ手に指を組みながら、教室の中をそぞろに歩き回った。近代芸術作品、その題は『孤独』、『不可解』、『郷愁』、すなわち『独りの教室』。うん、やはりモダンアートは僕には高尚すぎて理解ができない。


 一人一人の机を何の気なしに見て回る。そういえばさっき藤村は、くじ引きで席替えをしたがたまたま出席番号順の席になった、と言っていた。あてもなく教室中をうろうろと歩いていると、僕は一度忘れていた感興を再び催してきた。そんな奇跡のようなことが本当に起り得るのか、ということもそうだが、仮に起きたとして、その後でよく席替えをし直そうという話にならなかったものだ、と僕は思った。僕の関心は、つまり、事象それ自体の妥当性ということよりも、その結果に妥協した彼ら新しいクラスメイトの精神性の方に寄っていた。とにかく変わった奴らだが、揃いも揃ってそんな変わったやつらが同じ教室に一堂に会するということの方がよっぽど奇跡らしいかもしれない。だとすれば、こんな風に、昼休みは教室には留まらないという偏物の風俗も、この僕の新天地に至っては有り得るのかもしれない……


 そんなことを考えながら、僕は志村さんの机の前で立ち止まった。

「でも皆、自己紹介は普通だったよな……」

 僕は独りごちた。

 さっきの藤村と志村さんの様子は、確かに不審だったが、でも、これもきっと今の僕が転校初日という状況にいて特別センシティブになっているからそう感じるだけのことで、実際は大したことではないのだと思う。

 藤村は、見かけによらずやや気難しい感じのする男子だが、おかしいというほどではない。志村さんも、ちょっと顔がかわいくて、どこかお調子者っぽい感じのする女子だが、こんな女子はどこにでもいる。人間は型番が付いて工場から出荷されてくるわけではないのだから、こういった種種の、少しずつの違いがあるということは至極自然で、そのような違いの一つ一つが、三十人前後の分母で均されて、微妙なバランスを保っているというのが、全国の教室と名の付く空間を支配している力学だ。結果、この力のつり合いが、どこの学校の、どこの教室も、代り映えしないものに没個性化しているのだという法則を、僕は僕の豊富な経験から知っている。

「だからこそ……」

 僕は無意識に、志村さんの机の上に指を載せていた。僕は今朝から昼休みに至るまでのクラスメイトの様子を、もう一度思い返した。

「謎だ……」


 そのときだしぬけに、教室の扉が開く音が聞こえた。

 僕は肩を跳ね上がらせて、志村さんの机から指を離した。藤村をはじめ、クラスメイトの何人かがちらほらと教室に入ってくる。迂闊なことをした。胡乱に思われただろうか?

 僕は誤魔化すように窓際まで歩くと、窓を開けて外を眺めるふりをした。僕は背後に神経を尖らせた。踊りだす気配はない。そればかりか、誰も僕に気を止めていない風にも思える。

 僕はなんだか虚脱感を覚えた。窓枠の手前にはステンレスの手すりが亘っていて、僕はそれに両腕をのせ体重をあずけた。

 新しい街の見せる顔はやはりまだよそよそしい。今の僕の心象は、この街の上に揺蕩う雲のようだ。ふわふわして、落ち着かない。

 ちょっとしてから、教室内を振り返って見てみると、半分近い生徒が戻ってきていた。

 僕に声をかけてくるクラスメイトはいなかった。


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