0-3
その後、僕と萩城先生は職員室で何やら簡単な手続きを済ましてから、新しい教室へと向かった。
予鈴が鳴る。
一年Ⅰ組の教室の前。
「もうすぐ始まってしまうけど、朝のホームルームで自己紹介をしてもらえるかしら?」
「分かりました」
「緊張している? 心配しないでね、みんないい子たちだから……?」
そこは自信を持ってもらわないと困る。
「大丈夫です、転校は慣れていますから」
といいつつ、本当は今すぐにでも帰りたいのだが。
予鈴が鳴って少し経っているからか、廊下には僕たちの二人しかいない。教室の扉に嵌められたすりガラスから室内は伺えないが、そこから漏れてくるにぎやかな声はくぐもりがちに廊下を満たして、疎外感に僕は溺れそうになる。
「わたしが呼んだら入ってきてね」
先生が教室の扉を開けた。
室内の声が止んだ。
先生に生徒を黙らせるような威厳はない。当然のことだが、どうやら彼らは転入生の存在を事前に聞き及んでいるらしい。今度は押し寄せる無言の期待が僕を圧死させにかかる。
「皆さんには既に伝えてありましたが、今日からクラスメイトがひとり増えます。千羽くん、入ってきてくれる?」
僕は覚悟を決めた。
教室へ入いると二対三十組足らずの双眸が一斉に僕を見据えた。教室のどこを見渡しても誰かしらの視線がそこにはあって、またどの瞳にも何かしらの真剣な熱があって、僕はレンズで集められた光に焼かれるありんこのような気分になった。
「えっと……」
皆が皆、僕の一挙一動一言一句に集中し、品定めをしている。
こいつはいったいどんな奴なのか? こいつは自分たちにどんな影響を与えるのか? 歓迎するべきか、仲間に入れるべきか……ひょっとして、
暴走する自意識の過剰は言うことを聞かない。
それでも僕は努めて冷静に、無難さと必要最低限を心がけて、言う。
「
「へえ! 東京!」
声の大きい女子が叫ぶように言った。僕はびくっとする。
「東京のどこ? 渋谷? 新宿?」
「……沼袋です」
「え? 沼? 池じゃなくて?」
「へえ、東京にも沼ってあるんか」
そりゃ探せば何処かにはある。
「池袋ではないけど、その近くにある普通の住宅街です」
「東京にも住宅街ってあるんだなあ」
「ビルしかないのが東京じゃないのか?」
「ハハハ、それじゃ東京人はみんなタワマン暮らしかよ!」
この学校は、大丈夫か?
だんだんと教室が賑やかになってきた。色々なことを口々に聞かれて困った僕は、先生に目くばせをして助けを乞うた。
「ちょっとみんな、色々聞きたいことはあると思うけど、一度に聞かれて千羽くん困っているわ。そろそろ授業も始まっちゃうし……ほら、千羽くんの席はあそこよ?」
先生はそう言ってこの場をそれとなく鎮めようとした。下手なやり方だけど、僕は助けられた。
案内された席は最後方の窓際の席だった。ラッキーと、心の中で小さくガッツポーズ。
席まで歩く僕を皆はまだ目で追ったが、背中までは首は回るまい。僕の姿を視界から外せば、皆の意識は次第にいつも通りの散漫な、思い思いのものになっていくはずだ。一人のつまらない転入生の存在よりも、例えば明日のテストのことなんかに意識を集中させるべきなんだ。それに、僕のことなんて皆すぐに気にしなくなる。それで良いのだし、なにより僕自身、それが良い。
が、僕の期待は外れた。というより、ちょっと、予想外のことが起こったという方が正確かもしれない。僕が席に座り、ほっと一息ついてもなお、今しがた僕を焦がした視線の熱は続いていたのである。
そうとも知らずに油断していた僕は何の気なしに黒板の方を見やる、すると、身をくねらせてまで僕を目で追い続けるクラスメイト全員の視線がそこにある。
僕が何かおかしなことをしたのか? 彼らがおかしいだけなのか? それとも、そんなによそ者が珍しいのか?
僕は一瞬硬直しながらも、思わず苦笑を浮かべた。
こんな調子で、午前の授業はぎこちなかった。規則正しくチクタクと歩を進める秒針でさえ、緩急のある挫折と進捗を繰り返しながら千鳥足を踏んでいるように僕には思われた。昼寝時、長い長い夢を見たと思ったらまだ数分も経っていなかったというあの時間と認識の錯誤。履きなれないスニーカーを足になじませるために、地面をじりじりと踏みしめるような、あの、日常を病ませる違和感……
何人かのクラスメイトは僕を瞥見しながらこそこそと耳語していたが、こればっかりは僕の自意識の過剰の見せた白昼夢ではない!
未だ教科書を持っていない僕に気を使いそれを見せてくれた前席の女子生徒でさえずっとモジモジとしていて、まともに会話もできなかったが、これはどう判断するべきか……?
授業の進度が前の学校と大差ない(寧ろ少し遅れていた)のには安心した。各科目の先生も、特に代り映えしない平凡な感じで、僕のために改めて自己紹介をしてくれる人もいたが、気にせず授業を進める人もいた。
午前最後の授業は物理だった。担当は萩城先生で、教壇に立つと思い出したようにこう言った。
「そういえば、私もまだみんなの自己紹介をちゃんと聞けていなかったわ。千羽くんもいるし、一人ずつお願いしてもいい?」
いかにも乗り気ではない感じが教室を覆ったが、わざわざその提案に異を唱えるほど野暮な生徒もいない。先生はやけにニコニコとしていたが、僕は口実にされたようで心中穏やかではない。
前方の廊下側の生徒から順番に、名前と所属する部活動、趣味なんかを一人ずつ述べていく。
ただ、流石にこの一度で全員の顔と名前を覚えるのは無理だ。
ただ、彼らのするミニマリズムな自己紹介にも個性は滲み出るものである。高校生活にも最低限の人付き合いは必要になる。僕は今までに多くのクラスメイトと接してきたから、人を見る目はあるつもりだ。彼らのする
意趣返しというのではないが、今度は僕が品定めをする番というわけだ。
エトセトラ、エトセトラ……
そんなこんなで、自己紹介の順番も半ばを過ぎた。
そんな中で、僕は徐々に妙な違和感を(些細なものではあるが)覚え出していた。僕は違和感の正体を探ったが、先にそれを指摘したのは先生だった。
先生は出席簿を確認しながら、言った。
「ねえ、みんな、このクラスはまだ席替えをしていないの?」
同時に僕もハッとした。自己紹介は前方の窓際から席順に行われていたはずだが、確かに、彼らの名乗った名前は五十音順に並んでいたような気がする。先生の言う通り、単に席替えをしていないだけなのか……?
「いいえ。していますよ」
ある女子生徒(確か志村さんといった)が答える。
「たまたまです。くじ引きでたまたまこの席順になったんですよ」
まだ自己紹介をしていない身元不明の隣席の男子がそう言い添えた。
「え、でも……」
先生は指で算盤をはじくような仕草をしながら、釈然としないといった風に言った。多分先生は僕と同じことを考えている。
「まあいいじゃないですか、そんなこともありますよ」
男子生徒は猶も続けて言った。その言葉の調子には、速く自己紹介を続けろという含みを滲ませているようにも感ぜられた。周りの生徒も心なしか俯きがちで、一瞬だが、教室には妙な緊張感があった。
くじ引きでたまたま席順になった……? そんなわけがあるかと僕は思ったが、もしかするとあるのかもしれない。そんなものかもしれない。まあ、どんなものでもよいか、と、よくよく考えてみる暇もなく次の生徒が自己紹介を始めたので、僕の興味は次第に失せていった。先生も同じようで、その後も自己紹介はつつがなく続き、僕の前の席の生徒まで終わると、自然と物理の授業に入った。
生徒数は、僕を合わせて丁度三十人だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます