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 バスが校門前のバス停につくと、僕は押し出されるように降車した。雨は強くなっており、流石に傘を差さないわけにはいかなかった。

 初日は校門で担任教師と落ち合う手はずになっていた。教師らしき人は何人かいたが、まだ直接会ったことはないので、どれが自分の担任かは当然見分けがつかない。きっと向こうから自分を見出してくれるだろうと楽観して、僕は所在無げに傘を差しつつ校門の門柱の脇に立っていた。

 何人かの生徒が僕のことをじろじろと見ながら前を通り過ぎていく。「あんまり目立ちたくないが、目立たなすぎると今度は担任が俺のことを見つけられない。なかなか難しい塩梅だぞ」こんなことを考えながら、僕は傘の露先で心持ち顔を隠しながら待った。


 こんな状況で誰かを待つ時間の伸縮性の高さたるや! 次のバスが校門前にやってきて、再び人波のラッシュが過ぎて、それでも担任は僕を迎えに来ない。バスの間隔から推測するにまだ十分程度しか経っていないようだが、だんだんと緊張は弛んできて、待ちくたびれた僕はきょろきょろと周りを見回した。そして、僕は校門前の道路にちょっと奇妙な光景を見出した。そこに、雨粒に濡れて妖しく黒光りするセンチュリーが停車していたのである。

 センチュリーは緑ナンバーだったが屋根に表示灯を載っけていないので、多分高級ハイヤーか何かだろう。生徒はもちろんだが、教師の中にだってこんな偉物な出勤をするような人間はいないはずだ。何れにしても庶民的県立高校にはちょっと似つかわしくない事態(小事ではあるが)なのに、周りの生徒はそれに全く注意を払わないという不自然さが、反対に僕の興味を引いた。

 よくよく見ると、車の前で誰かを出迎えるように二人の男子生徒が傘を持って待機しているのが分かった。ここからだと二人の細かい様子までは窺えないが、片方は癖のある髪の毛を寝ぐせで更にぼさぼさにしたなんだか胡乱な男で、もう片方は対照的に小綺麗ですらりとした優男風の生徒だった。癖毛の方は、なんだか苛立たし気に、周囲に睨みをきかして威嚇をしているので、周りの生徒も注意を払わない、と言うよりは、関わり合いたくないと言った感じなのだとこのとき分かった。

 少しして、中老の運転手が出てくると後部座席のドア開き、立派な長傘を差して搭乗者に降車を促すようなポーズを取った、が、すかさず進み出た優男の方がそれを制して、代わりに安っぽいビニール傘を差し出した。すると、車内から白ソックスにピカピカしたローファーを履いた二本の華奢な脚がそろりと放り出されて、そのまま軽く跳ね出るようにしてセーラーを着た小柄な女子生徒が降車してきたのである。それから、彼女は何か一言二言運転手に言いつけると、右手に折りたたんで持っていたらしい白杖を振って伸ばして、それを突きながら自ら前に歩み出した。

 彼女が濡れてしまわないようにと二人の男子は慌てて後を追ったが、お互いの傘を彼女の頭上でがちゃがちゃと闘わせるので、雨粒がぱらぱらと振りかかってしまったらしく、怒った彼女は癖毛の方の傘を手探りでひったくり後ろへ放り投げてしまった。

「あっ、おい!」

 癖毛は抗議の声を挙げながら傘を追いかけると、それを拾い上げた後も何やら悪態をつきながら二人に着いて歩いて行った。

 薄情なことに、その間にはもうセンチュリーはさっさと発車してしまっていた。


 これらの光景に僕は思わず目を奪われた。(癖毛のチンピラなどはどうでもいいが)彼女が目の前を通って行く時など、そのローファーの革底のレンガ敷きの地面を叩くくすぐったいような軽やかな響きを、雨音の中から聞き分けることができるほどだった。ただでさえ夢のような現実味に乏しい一日なのに、彼女(とその従者)は非現実の印象をなおさらに決定付けた。僕は思わず頬をつねった。「確かにこれは漫画みたいだな……」

 校門から校舎まで伸びる月桂樹の長い並木道を進む三人の背中が小さくなっていくのを、僕はぼうっと見守った。



「ごめんなさい。遅くなってしまって。あなたが千羽せんばくんね……?」

 急に声をかけられたので僕はギクりとした。実によそ者らしい反応だったと思う。

「あ、はい、そうです」

 声の主は若い女教師だった。恐らく遅延を埋めるために急いできたのだろうが、肩で息をしながら傘の効果もなく雨に濡れた彼女の姿はあまりにも頼りない。

「わたし、萩城はぎしろって言います。今学期からあなたのクラスの担任を受け持つことになったの。今日からよろしくね?」

「こちらこそ、よろしくお願いします……」


 挨拶も早々に、僕たちは校舎の方へ歩きだした。はじめ僕はただ黙々と萩城先生について歩いていたが、彼女は沈黙を気まずく感じたようで、他愛ない話題を途切れ途切れに僕に振ってきた。


「高校で転校なんて大変だったでしょう? わたし担任をするのは初めてだけど、転入生の子も始めて。力になれるか分からないけど心配があったらなんでも言ってね?」

「分かりました、ありがとうございます……」


「わたし、担当科目は物理なの。女なのに珍しいって思うでしょ?」

「いえ、そんなこと……」


「この時期は雨が多くてイヤになっちゃうわね? このあたりの地域は特に天気が崩れやすいのよ」

「はあ、そうなんですか……」


 この短い間で、僕はだんだんとこの先生のことが分かってきた。言葉の最後に疑問符のようなアクセントをつける話し方。その上で、何を話すにしても相手に伺い立てるような物言いをする意志の弱さ。雨に濡れた捨て猫のような見た目もさることながら、この人の頼りなさを醸し出している最大の所以はこれか?


「あ、雨が止んできたわね?」

「ええ、止んできましたね……」


 それにしても、この高校は広い。事前に読んだ学校のリーフレットの情報で、ここは元々農業高校だったと知った。これでは校門から四階にあるという教室まで少なく見積もっても五分はかかりそうだ。家から駅までの距離の方がまだ近いかもしれない。これは骨だな。


「ほら、あそこの花壇、お野菜も育てているのよ」

「へえ、そうなんですか……」

「千羽くんは、ナス、好き?」

「……普通です」

 自分がナスを好きかどうかを考えてみるのは初めてかもしれない。花壇の野菜のように新鮮な体験だ。


「そう言えば」

 先生の話が加速度的につまらないものになっていくので、思わず僕の方から話題を振っていた。

「ん?」

「先生はさっき、今学期から担任になったと仰いましたが、前の学期までは別の先生が担任だったということですか?」

 先生の顔がこの空の色を映したように少し曇るのが分かった。

「ええ、そうよ……」

 僕は理由を聞こうかとも思ったが、先生の様子に何か特別な事情があったのではないかと思い、やめておいた。先生の方でも僕のこの躊躇を察したらしく、フォローを入れてきた。

「ううん、なんでもないの。気にしないでね」

 それからは先生は無駄話を振ってこなくなった。この人は頼りないうえに分かりやすい。


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