カインの光学【Bogus】
坂本忠恆
第一章 Bogus
第一章 Bogus(序)
0-1
闇。昼の夢見る
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転校を経験する人の割合は意外と少ないという事実は僕にはちょっと口惜しい。学生時代にたった一度でもそれを経験する人は、だいたい五人に一人だという。僕の場合は今回で六度目だから、もし転校の回数で全国の学生と競い合うとしたら僕はいったい上位何パーセントに食い込むのだろうか。「これが偏差値だったらすごいだろうな」と、次の学校への初登校の道すがら、こんな救えない妄想をして、僕は独りでフフッと笑った。
天気の崩れがちな、秋霖の頃である。
——
『もしもし、おい、元気してるか? 明日からだろ? 新しい学校って』
「なんだよ、わざわざ、冷やかしか? 切るぞ?」
『おいおい待てって。こっちはおまえのこと心配してやってるのに』
「おまえに心配する才能なんてないだろ。それに、知っての通り、俺にとっちゃ慣れっこだよ。でも、高校生にもなって転校だなんて、なんだか損をした気分だなあ……」
『そうか? 漫画みたいでいいじゃないか』
「おまえは他人事だからそんな呑気なことを言うんだ。考えてみろ、折角入学試験に合格したのに、一年も経たないうちにまた転入試験を受けなくちゃならないんだぞ?」
『ああ、なるほど』
——
僕のように転勤族の家に生まれると、自然交友関係も浅くなりがちで、良くも悪くもこのことは子供の人格形成に大きな影響を与えるようだ。事実僕は人付き合いが上手くない。いや、上手くないというよりは、深く人と付き合うということが億劫なのだ。誰かと仲良くなってもどうせすぐに離れることになるのだという諦めが、人付き合いにおいて僕を少し賢くさせた。諦めるということが、大人の言う賢明さだと知ったのは僕がまだ小学生の頃だったから、何と言おうか、我ながらかわいげのない子供だったに違いない。
——
『まあでも、おまえは勉強だけはできるから、転入試験だって朝飯前だったろう?』
「転入試験って案外難しいんだぜ? それに、最近は朝飯は抜いてんだ」
『ははは、不良だなあ。どうせ夜更かしでもして起きられないんだろ?』
「……俺はできるだけ長く寝ていたいタイプなんだよ。ロングスリーパーってやつだ。彼のアインシュタイン博士も名を連ねる天才の系譜だぜ?」
『あっそう。まあ、でも、おまえは寝ることと勉強以外にも趣味を見つけるべきだな。どうせ今度も帰宅部志望だろ?』
「かれこれ十年選手さ。ここで辞めちゃ勿体ない」
——
昨晩電話で話をした
ただ、余り人付き合いを避けていると、(世にも厭わしい人間関係のもつれとやらとは無縁でいられるが)のっぴきならないある重大事に直面する。まあ、何と言おうか、とにかく暇なのだ。もし僕に何か打ち込めるもの(それが例えば非生産的とか言われているもの、ビデオゲームでもネットサーフィンでもなんでもいい)があれば僕も少しは救われただろう。しかし、僕はそういったものにのめり込むことのできる才能に恵まれなかった。恵まれなかったので、何もしないよりは気もまぎれるという理由で、勉強だけはした。ただ、これも進んでしたわけではもちろんない。ゲームも、ネットも、勉強だって、僕にとってはどれも大差ない、退屈なものだ。ただ、同じく退屈なものであっても、何もしていないよりは退屈度は低いし、それに、勉強なら何かしら生産的(?)な実りにつながるだろうという貧相な損得勘定と近視眼的な将来設計に促されて、僕は勉強を選んだというだけのことだ。秀才が眼鏡をかけるのも、彼らがそろいも揃って将来に対して近視だからだ。そのためか、僕は大抵どこに行っても優等生のように扱われるが、謂わば僕は不本意な優等生なのであって、もっとましな暇つぶしの方法が見つかったなら、僕は喜んで不良にでもなんにでもなったであろう。それと関係して、僕は今すぐにでも二十歳になりたいと思っている。特に酒。酒は実によい暇つぶしのアイテムだと聞くから、今からそれを飲んでみる日が待ち遠しい……と、こんなことを言いつつ、しっかりと「二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律」を遵守しているのだから、僕にはやはり不良の才能もなくて、良いとこ〝優等生〟止まりなのだろう。
こんな僕でも、漫画や本の類だけは人並みに読むが、それだって、他にやることがないからしているだけで、勉強と余り大差ない。それに、他人と適当な距離を保つうえで、漫画の話題は実に重宝する。プライベートな領域に踏み込む危険を冒さずに、適度な距離感で会話ができるからだ。
その日は初めての登校日だったが、予め入念に登下校のルートは確認していたから、僕は余り急がずに家を出た。
仮令多少遅刻しても、初めてだからという言い訳も立つ。(そのことのよって無駄に目立つことは本意ではないが、もとより転入生などいやでも目立つことは免れぬ存在なのだから、結果は大同小異だ)
バス停には僕と同じ学ラン姿の生徒の姿がちらほらあった。彼らは恐らく山鳴高校の生徒で、もしかすると僕の新しいクラスメイトかもしれない。そう思うと、僕はちょっとの好奇心を催して彼らを観察した。しかし、詰襟姿の男子生徒というものは全国どこに行っても代り映えのしない汎存種のようなもので、その特徴の無さには関心さえする。僕もまたその例に漏れないのだろうという類推は安心材料だ。前の学校と同じ制服を使えるということもまた幸運だった。着慣れた制服で彼らに溶け込むことは、僕が僕であるということの異物感を多少は和らげてくれるだろうから……昨日は菅原には強がって見せたが、やはり何度経験しても転校の初日というものは落ち着かない。例えば最初の自己紹介のときなどは特に居た堪れない。教室全員の注目を一身に集めて、気分はまるで競売にかけられる奴隷だ。自分の運命に祈りをささげるしかない時間だ。
バスを待っている間に、ぽつりぽつりと雨が降り出した。予報通りだったので僕は折り畳み傘を持ってきていたが、既に道の向こうにバスの影があるのを見つけたので、鞄からそれを出す労を惜しんで雨に打たれながら待った。
バスに乗り込むと、未だ定期券を持っていなかった僕は慣れない乗車切符の扱いに戸惑ってまごついてしまい、後ろに並んでいた女子生徒に助けられた。きっと彼女は僕の様子を訝しんだことだろう。思わぬ恥をかいた僕の顔はちょっと熱くなった。
乗客は疎らだった。席につくと僕は少しく火照った顔を冷やすために、雨粒を抱え始めた車窓に額をくっつけた。全てが始めて見る街の景色、これらがものの数週間のうちに見慣れたものに変わるだろうという確かな未来予想は、僕にはまだ現実味がない。この現実感の喪失は、転校の初日はずっと続くから、僕はいつも夢の中を揺蕩う非力な魚のような気分になる。ふわふわ浮かんで、波に流される感じ。こんなにも不自由な感じは他に無いように思う。実際、こんな日には僕の自由意志というものは殆どなく、鱗を傷つけないようとにかく郷に従うということが何より肝要になる。
駅前に着くと、たくさんの生徒がぞろぞろと乗車してきた。外にはバスを待つ大勢の生徒が隊列を作っており、僕はちょっとぎょっとした。席のすぐ横にまで人が押し込まれてくるので、僕は何人かの生徒に見下ろされるような恰好になる。謂れのない罪悪感。僕は学校前のバス停に着くまでの間、鞄を抱え、手には乗車切符を握りながら、寝たふりをしてやり過ごした。そうして僕は、降車のときには手間取らないようにすることだけに、心を配った。
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