第2話 鳴海 涼 ✕ 同僚1
私は冷房の効いた会社の事務所に入ると、自分のパソコンに電源を入れた。そして給湯室の冷蔵庫から出した、煮出した麦茶を自分のカップに容れると机に戻る。
そしてカップの麦茶を一口飲むとパソコンが立ち上がるのをボーと見ていた。
「おはよう、鳴海さん。いつも早いわね」
「おはようございます、鈴木さん。まだここでの業務に慣れないので、早めに来てるだけですよ」
私は後ろから突然挨拶をされたが、驚くでもなく挨拶を返すと、そのまま私の隣の机の椅子に座る女性に視線を向けた。
「謙遜しなくていいのよ。鳴海さんがいつも周りに気を使ってくれて助かってるわ」
彼女の名前は
私の机の右隣りの机を使用している社員だ。30 代後半の彼女は一人娘と会社員の夫と3人で暮らす、少しふっくらとした容姿の柔らかい雰囲気を醸し出す女性だ。
彼女は私がこの会社に転勤してきてから、隣の席のよしみで何かと世話を焼いてくれているが、彼女の醸し出す柔らかい雰囲気のせいか、私はそれを素直に受け入れていた。
「いえまだ皆さんに迷惑をかける事も多いので、朝くらいは早く来ようと思って」
私が軽く首を横に振ると、彼女は何が楽しいのかくすくすと笑った。
「知ってるのよ。鳴海さんが冷蔵庫の麦茶をいつも用意してくれてる事。今までは私しかやらなかったから嬉しいわ」
私は誰にも話していない毎日麦茶を煮出している事を唐突に鈴木さんに言われると、何だか恥ずかしい気がして耳を赤くし俯いた。
けれど鈴木さんはそれに気付いていないのか話しを続けている。そして眉間に皺を寄せると何故か嘆息した。
「ホントにね。鳴海さんはこんなに良い子なのに何であんな噂が立ったのかしらね」
「噂……?」
私は鈴木さんの言葉に顔を上げると、訝しげに鈴木さんの目を見た。
噂なんて初耳だ。
鈴木さんは私の様子に、初めて私が噂について知ったのを悟ると、バツが悪そうに顔を歪めた。だが私の顔をじっと見ると、直ぐに何か諦めたかの様に話し始める。
「鳴海さんは知らなかったのね。知らないなら、知らない方が良かったかもしれないけど、ここまで話しちゃったら話すわ。鳴海さんがね、向こうで何か問題を起こして、左遷されてきたってみんな話してるのよ」
「私、問題なんて起こしてません」
とんでもない噂を、私が即座に否定すると鈴木さんは頷く。
「そうよね」
「ただちょっと残業が多すぎて、退職しようかと課長に相談したら、ここに来てくれる人を探してるって言うから来ただけです」
「あらそうだったの?随分前からうちの係長に、私一人じゃ大変だから、誰か入れてってお願いしていたけど、それで鳴海さんが来てくれたのね」
噂について申し訳なさそうに嘆息する鈴木さんに、私もなんとなく居心地の悪さを感じる。毎日、笑顔で私に話しかけてくれる鈴木さんは、心から噂について申し訳ないと思ってくれているのだろう。
だが5月の半ばという中途半端な時期に転勤して来たので、話のネタの標的にされてしまったのだ。
それに何処に行っても噂好きはいるものだ。
「ごめんなさい。今度、この噂について話している社員がいたら、私から訂正しておくわ」
「そこまでしてもらう訳にはいきません」
「いいのよ。私が勝手にしたいだけだから。この話しはお仕舞い。今日も頑張りましょう」
私が鈴木さんの申し出に首を横に振ると、それを鈴木さんは有無を言わせない満面の笑みで否定した。
幾ら優しくてもやはり年長者である。私ではまだ、彼女の目に見えぬ圧に対抗する事が出来なかった。
そしてその日は、鈴木さんから聞いた噂話のせいで、一日中鬱々とした気分で仕事をする羽目になった。
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