第56話 日菜子の悲願

「があ……ッ!」

「汚い声を出さないでくれ。僕の番様の耳が穢れる」


 動きを完全に封じられた怪異は、神格の強い青龍の強すぎる神気に灼かれて、じわじわとその実体を失くしていく。


「無様だな。怪異ごときが、神々の番様に手を出せると思うなよ」


 幼い姿をした竜胆が、少年らしからぬ表情で冷たく言い捨てる。

 日菜子の姿をした美しい怪異は絹を引き裂くような断末魔をあげながら、パリンッという鏡の割れるような音を残して、粉々に消滅していった。

 硬質な鏡面の先にしか見えていなかった支度室の風景が、いつのまにか視界一面に広がっている。


「……も、もしかして……鏡から、出られたの?」


 腰が抜けた鈴は、力の抜けた両足で立っていられずにぺたりとその場に座り込む。

 幼い竜胆は床に落ちていた鍵を拾うと、鈴の首に掛かっていた呪具の錠前に差し込み、封を解いた。

 神から隠すための呪具よりも先に鈴へ与えられた加護には、その効果は発揮されなかったらしい。

 彼はへたり込んだ鈴の正面に跪いて、眉を下げた。


「僕がついていながら、怖い目にあわせてしまって申し訳ありませんでした。番様の加護として与えられたばかりで、その上現実世界に顕現するのは初めてだったので、時間がかかってしまって」


 幼い竜胆の姿をした彼は、鈴との年齢差を気にしてか敬語で喋りかけてきた。

 緊迫した状況から一変、それがなんだか不思議な感じがして、鈴は「い、いえ」と気の抜けた返事をする。


「あの、助けてくださって、ありがとうございます」

「これくらいどうってことないです。それよりも、お疲れになったでしょう?」


 どこからともなくひらひらと侵入してきた綺麗な蝶が、幼い竜胆の指先にとまる。


(あっ、竜胆様の式……)

「あちらももうすぐ片付くそうです。それまでは……〝どうぞゆっくりおやすみください〟」


 幼い竜胆が神気を使ってそう告げると、鈴の意識がどこか朦朧としてくる。

 よほど疲れていたのか、ぱたりとその場に倒れるようにして眠ってしまった鈴に膝枕をしながら、幼い竜胆は幸せそうに「おやすみ。僕の可愛い番様」と微笑んだ。



   ◇◇◇



 粛々とうつむきながら朱色の太鼓橋を渡る真っ赤な振袖の日菜子の後ろに、春宮家の当主である祖父や両親、そして苧環家出身の当主に陶酔し慕ってきた春宮家と苧環家に連なる十二人の血族たちの行列がつく。


 同様に太鼓橋の対岸からは、紋付袴をまとい正装をした竜胆の後ろに狭霧家の当主と母、それから竜胆に忠誠を誓う十二人の眷属たちの行列がつき従い、一歩、また一歩と『婚約の儀』を行う太鼓橋の中腹へと向かっていた。


 そうして、その時が訪れる。

 朱色の太鼓橋の中腹に辿り着いた竜胆は、甘美な行為を前にしたかのように長い睫毛に縁取られた双眸を細め、口角を上げる。

 その表情を真正面から向けられた日菜子は、『あ、あああっ! なんて美しいの!』と内心歓喜の声を上げていた。


 あの最悪な『巫女選定の儀』から約二ヶ月……。

 激しい怒りと嫉妬にまみれた毎日は本当に長かった。

 でも、それも今日限りだ。


 日菜子は竜胆の恐ろしくも美しい美貌を前にして、真っ赤に染まった頬を上気させ、まるで恋人かのように彼へ微笑み返す。


 やっと、やっと私が青龍様の〈神巫女〉としての権利を認められる。

 そして神嫁として、世界で一番幸せな結婚ができるんだわっ!


 目の前では、何も知らず疑う様子もないひとりのおとこが、「〝それでは『婚約の儀』を執り行う〟」と宣言する。

 いよいよだ。……いよいよだ、いよいよだ!

 日菜子は歓喜で震えながら息を吸った。


「――〝春宮鈴〟」

「はい」

「〝十二神将は吉将が木神〈青龍の番様〉として、この婚約に嘘偽りはないと誓うか?〟」

「誓います」

「〝十二天将宮に座す十二の神々と契りを交わし、嘘偽りなく自分こそが〈青龍の神巫女〉であると誓うか?〟」

「誓います!」

「〝本日馳せ参じた十二人の〈青龍の眷属〉、そして春宮の十二人の血族の命を神々に捧げ、ここに婚約破棄をせぬことを誓うか?〟」

「もちろんです、青龍様。永遠に誓いますわ!」


 感情が高ぶった日菜子は自身の口調を偽るのも忘れて、そう宣言した。

 けれど口調なんて偽らなくてもいいのかもしれない。相手には、日菜子のことが異母姉に見えているのだから。

 眷属たちも言葉を発しないということは、誰も入れ替わりに気づいていないのだろう。

 身代わり符でこんなに簡単に騙せたのは、やはり一度真名を返した効果が大きいようだ。


 異母姉は鏡の異界に隠しているし、神々からその存在を隠すための呪具も掛けてきた。その気配を悟られる心配もない。

 異母姉は今頃、さめざめと泣きながら、自分の運命を呪っているはずだ。

 ふふふっ、かわいそうな名無し!


 日菜子は今すぐにでも竜胆に抱きつきたいのを我慢して、恍惚とした表情で誓いの口づけを待つ。


 ――しかし。

 誓いの言葉を述べ終わった竜胆は、底冷えのする凍てついた双眸で日菜子を睥睨すると、

「それはそれは。立派な心構えだ」

 低く冷たい声音で、そう告げた。


 ゆうらりと、紫色の瘴気が神々しい神気を侵食していく。

 そうして黄昏時が迫るかのごとく、竜胆の青い瞳に赤が交わった。


「お前はまだ、自分こそが〈神巫女〉に相応しいとでも思っているのか? 愚かな人の子風情が、目障りだ」

「な……なんのことでしょう?」

「とぼけても無駄だ。鈴のすべてを奪い、霊力を搾取し、虐げ続けた罪は重い」

「う、うそ…………ッ」


 竜胆が一歩、また一歩、と日菜子と距離を縮めるたびに、足元から氷晶の異能が世界を変えていく。

 その恐ろしくも美しい堕ち神の怒りに触れたことを知り、恋する乙女のように上気していた日菜子の顔からは、サアッと血の気が引いた。

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