第55話 蹂躙

 身支度はすぐに整えられ、日菜子は栗色の巻き髪を揺らして振袖姿を鏡に映す。


「やっぱりこの振袖は私のためのものだったのね! こんなによく似合うなんて……! 青龍様も、私の姿を見てきっとお喜びになるわ! あなたみたいな貧相な女じゃ、娶ったところで味気ないものねえ?」


 クスクスと妖艶に嗤う着飾った姿の日菜子を真正面から目の当たりにした鈴は、心がすっと冷たくなっていく。


(そうかも、しれない)


 誰もが褒めそやす美しさ、そして華やかさが日菜子にはある。

 大柄の牡丹が大胆にあしらわれた豪華絢爛な真っ赤な振袖も、春宮家の令嬢という日菜子を、これでもかと引き立てていた。


「あら? もうこんな時間。そろそろ儀式が始まる頃だわ」


 日菜子は胸元から一枚の紙を取り出す。

 身代わり符と呼ばれるそれには、【春宮鈴】と書かれていた。

 奪われていた真名が鈴に返されている今だからこそ、身代わり符の術式の効果が正しく発揮できる。

 鈴の真名を封じていた呪符を一度は手にした日菜子が、激昂もせずに祖父に呪符を返した理由はここにあった。


「神様も、こんなもので騙されるのね。効果は短期間らしいけど、『婚約の儀』で一度誓ったら婚約破棄なんてできないもの。効果の短さなんて関係ないわ。これで……これで私が! 私こそがッ! あの美しい青龍様の神嫁になるのッ!」


 欲望にまみれた日菜子は「うふふっ」と口紅で彩られた口角を吊り上げる。


「……あ、そんな……やめて……っ、やめて…………っ!」

「青龍様のために生き血を捧げ終わったら、あなたはその怪異が作った鏡の世界で、ずーっと、ず〜〜〜〜〜っと私のために生き続けるといいわッ!」


 美しい怪異はクスクスと笑いながら、鈴を拘束するように絡みつく。

 そんな中、日菜子は狂気満面の笑みで【春宮鈴】と書かれた呪符を唇に咥え、甘い砂糖菓子でも食べるかのように飲み込んだ。


「そうそう。花嫁道具としてこの鏡も持って行くから安心して? それであなたが飽きないように、青龍様との幸せな日常を毎日欠かさず報告してあげる。私の優しさに感謝しなさい? あははははッ!!!!」


 真っ赤な振袖を踊るように美しく翻し、日菜子は最高の笑顔を見せて支度室を出て行く。

 それに続いて日菜子の使用人も、【春宮日菜子】と書かれた身代わり符を飲み込んで出て行った。


「待って、……待ってください……日菜子様……!」


 部屋にひとり残された鈴は懸命に声を張り、鏡の外の世界へ手を伸ばす。

 しかしそれも虚しく。

 暗闇の中では、美しい怪異のクスクスと嘲笑う声だけが不気味に響いている。

 そして。


「……無様ねぇ、名無し」


 美しい怪異が、日菜子と同じ声で言葉を発した。

 鈴はゾッとして顔面を蒼白にさせる。


「あの使用人がだなんて滑稽だけれど。……うふふふ。こうやって言葉を手に入れて、自由になれるのならなんだっていいわ」


 ひたり、ひたりと、美しい怪異は上機嫌で鈴の周囲を円を描くようにゆっくりと歩く。


「ねえ、楽しい遊びをしましょうよ!」

「…………あ、遊び?」

「私が鬼で、名無しは逃げるの。私から逃げ切ったら名無しの勝ち。もし逃げきれなかったら…………あなたの身体の一部を私にちょうだい?」

「…………っ!」

「そしたら私が、……私こそが! 本物・・になれる! すべてが終わったら、に成り代わって……青龍様と幸せに暮らすの!」


 どろりと、美しい怪異の目が濁る。

 日菜子の鈴に対する妬み嫉みから生まれた怪異は、日菜子の意図せぬところで主人から離れ、自我を持ってしまったのだ。


 鏡に生まれた怪異を使役できていると思い込んでいた日菜子は、これから先、自分にも害が及ぶなどとは考えてもいないかもしれない。

 それどころか、〈神巫女〉として生きていくための霊力搾取元である異母姉が、怪異に取り殺されるなど――。


(あ、あ、あ、っ)


 悲しみと恐怖で混乱しきった鈴は、「はっ、はっ」と短い呼吸をしながら後退りする。


「それじゃあ、始めましょうか。いーち、にーい、さーん、しーい」


 濁りきった表情をした怪異が、突然数字を数え始める。

 鈴はまさかという思いで小刻みに震える足を叱咤し、慌ててその場から駆け出した。


(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)


 五を数える怪異を振り返りながら、鈴は闇雲に走り続ける。


「ろーく、なーな、はーち、きゅーう、じゅう!」


 遠くで聞こえる日菜子の、否、怪異の声。


 けれども、「捕まえた」という無邪気で不気味な声は、鈴のすぐ耳元で聞こえた。


「それじゃあ、まずは右腕をもらおうかしら」


 クスクスと笑い声が響く。

 そうして怪異が鈴に襲いかかろうとした、その刹那――。


「怪異ごときが。僕の可愛い、可愛い番様に手を出すな」


 暗闇の中に、ぶわりと氷晶をまとった大風が吹き荒れる。

 きらきらと白い光を発する氷の粒が視界を明るく照らした時、誰かが鈴の前に現れた。

 それは和装束姿の、この世のものとは思えぬ美貌を持った青い双眸の少年――――幼い頃の竜胆の姿をした、青龍の加護・・・・・だった。


(だ、誰? 子供の頃の、竜胆様……?)


 鈴は突然現れた少年に驚く。

 けれども彼は恐れる存在ではなく、この暗闇を唯一照らす一縷の希望なのだとすぐに悟った。


 彼の操る氷晶の異能は、瞬く間に暗闇を青く輝く氷の世界に変えていき、怪異の両脚を凍りつかせる。

 そして凍りついた地面の四方八方から、剣のごとき氷柱がすごい速度で現れたかと思うと、怪異の四肢を宙に持ち上げるようにして一気に貫いた。

 それは彼の、一方的な蹂躙だった。

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