第54話 大切な存在

(……いつの間に、こんな術を)


 日菜子はいつだって巫女見習いとして優秀な成績を修めてはいたが、こんな藁人形を用いた使役の術を操っているのを目の当たりにするのは初めてだ。

 もしも鈴が使用人をしていた時に操られていたら、と思うとゾッとする。

 すると日菜子は藁人形を指先で突いてから、『もう必要ないわ』とばかりにポイっと投げ捨てて、「驚いた? 名無しのために練習したんだから」と困った風に言った。


「わ、わたしの、ため……?」

「ええ。番様あなたには堕ち神である青龍様のために生き血を捧げ終えたら、速やかに退場してもらわないといけないでしょう? その時に上手に退場させてあげられるよう、練習したの」

(退場って、どういうこと……?)

「知ってる? あなたって巷では〝龍の贄嫁〟って呼ばれてるのよ」

「りゅ、〝龍の贄嫁〟……ですか?」

「そう! 青龍様が本物の神巫女を選ぶために娶った生贄だから、〝龍の贄嫁〟。ふふふっ、無能な名無しにぴったりな名前だわ!」


 日菜子は歌うように言うと、真っ赤な振袖の前へと駆けていく。


「見てご覧なさいな。こんな上等な振袖、お婆さんみたいな見た目のあなたには絶対に似合わない」

「そ、それは……」

「地味な振袖の方はいらないから、呉服屋に引き取ってもらったわ。この振袖はなにかの時のための予備にって、呉服屋の厚意で仕立てていたそうだけど……ふふふっ、不思議ね。『牡丹華』、私の霊力の象徴を表した豪華な振袖がこうして届くなんて」


 恍惚とした表情で日菜子は真っ赤な振袖を両手で抱きしめ、頬を寄せる。


「神々の思し召しとは正にこのこと。〈歴々の神々〉の加護が私を導いてくださっているんだわ。――あなたではなく、私こそが〈青龍の巫女〉になるべきだって!」


 狂気を孕んだ顔で日菜子がそう叫んだ瞬間。

 鈴のそばにあった豪奢な鏡から、ゆうらりと、しなやかな腕がなにかを探すように出てきた。


「きゃ……っ!」


 肌色の二本の腕はすぐに鈴を捕まえると、力づくで鏡の方へと手繰り寄せる。

 恐怖に駆られた鈴が見た鏡の中には、日菜子によく似た美しい怪異がいた。

 それは日菜子の、鈴に対する激しい妬み嫉みから生まれた怪異だった。


「や、やめてっ」


 鈴は一生懸命に身をよじり、怪異の腕から逃れようとする。

 しかし美しい怪異はクスクスと不気味に笑いながら、鈴を鏡の中へと一気に引きずり込んだ。

 とぷん……と鏡面が揺れる。


「いや、やめて……っ。ここから出して……っ!」


 命の危機さえ感じる中、これ以上にないほどの恐怖に苛まれた鈴は、か細い声を振り絞って叫ぶ。


(まだ、こんなところでは、死にたくない――っ)


 竜胆との約束もなにひとつ守れぬまま、死ぬなんてできない。


「なに言ってるのか、まったく聞こえないわね」


 鏡の外側には聞こえていないのか、「まあいいけど」と日菜子は興醒めだとばかりに腕を組む。

 美しい怪異は言葉を発しない。

 ただクスクスと笑いながら、鈴の首に無理やり呪具を掛ける。

 その呪具には、朧げながら見覚えがあった。

 幼い頃、記憶の片隅にずっと残っていた、金属製の大きな錠前に華奢な鎖がついた首飾りだ。

 美しい怪異は錠前の鍵をかけると、クスクスと笑ってその鍵を暗闇の中へ放り投げる。

 カラン、カラン、カラン……と遠くの方で、金属が床に落ちて転がっていく音が響いた。


 鈴はガタガタと震えながら、その場に崩れ落ちる。

 恐怖が喉に詰まって、もう声が出なかった。


「その呪具はね、昔々、春宮家の優秀な巫女だった娘が神嫁にならなければいけない運命から逃れるために、腕利きの職人に頼んで作られたものなの」


 鏡の前に立った日菜子は、鈴の首元をトントンと指で叩きながら言う。


「嫁入りの日の朝……呪具は神々の目を見事欺き、彼女は雲隠れに成功したそうよ。けれどその代わりに、春宮家の血筋を引く彼女の侍女が呪符を飲んで、お嬢様の身代わりとして神嫁になったんですって。……だけど皮肉よね? 数百年の時を経て、こうして神嫁になる私に使われることになるだなんて」

(どういう意味? 日菜子様が……神嫁って……!)


 舞台女優のように日菜子は踊りながら両手を広げて華やかな目元をくわっと見開くと、「〈青龍の巫女〉として、私が青龍様と『婚約の儀』を行うわッ!!!!」と大声で叫んだ。

 鈴は日菜子のその宣言にひゅうっと息を詰め、両手で口元を押さえる。


「や、……いや……! 竜胆様……っ」


 鈴の脳裏に浮かぶのは、クールな面差しにふっと浮かべる竜胆の甘い微笑みと、どこまでも優しい声。

 心を寄せる彼に名前を呼んでもらえただけでも心臓がドキドキして、いてもたってもいられないほど胸がいっぱいになった、あの時――――竜胆の隣で、竜胆を支えられる存在になれたら、それこそが鈴の本当の幸せだと…………ようやく、強く自覚したばかりだったのに。


(竜胆様が、日菜子様と婚約するなんて――)


 考えるだけで苦しくて、切なくて、胸が潰れそうだと思った。

 竜胆は、鈴にとって〝誰よりも大切な存在〟なのだ。


「お、お願いです、日菜子様……っ! わ、私はここから、出れなくたっていい、です……。だけど、どうか……! どうか竜胆様だけは、奪わないで……っ」


 鈴はぽろぽろと涙を流しながら鏡面を叩き、懇願する。

 しかし鏡の外側には鈴の悲痛な叫び声が聞こえるはずもなく。


「ふふふっ、いい気味ね! あなたはそこで、私が世界一美しい神嫁になるのを見ているといいわ!」


 日菜子は憔悴している鈴を蔑むように眺めながらそう告げると、部屋の隅に控えていた使用人に命じて、『婚約の儀』のために用意されていた豪華絢爛な真っ赤な振袖へと着替え始めた。

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