第53話 日菜子の鏡

 梅と名乗った巫女に連れられて鈴がひとりきりで向かった先には、小さな庭園に囲まれた庵があった。

 鈴の予想に反して、春宮家の者たちの姿はない。鈴はほっと胸を撫でおろす。

『婚約の儀』だからと、わざわざ今まで使用人だった鈴を祝福して声を掛けるような春宮家ではないのは知っていたが、悪意をもった嫌味を言いに来るほどでもないらしい。


「おかしいですね。先ほどまでは使用人の方もいらっしゃいましたのに、どなたもおられませんね……?」


 梅は不思議そうに首を傾げながら、「こちらがお支度室です」と鈴を庵へと通す。

 室内にはすでに衣装や化粧道具が並べられており、『婚約の儀』の支度が整えられていた。どうやら梅が話していたように、先ほどまで誰かがいたのだろう。


 しかし。


 室内の中央に鎮座していた立派な朱塗りの衣桁いこうには、あの日、竜胆が鈴のために選んでくれた振袖ではなく――なぜだか牡丹の花が大胆にあしらわれている絢爛豪華な真っ赤な振袖が、威風堂々と掛けられていた。


「どうして、これが……?」

(もしかして呉服屋の女将さんが、仕立てる着物を間違えたのかな……?)


 あの日、あんなにたくさん着物を購入していたのだから、間違えてしまうのも無理はない。

 それに納期も短かった。壺装束と儀式に使用する振袖を最優先に依頼していたが、それでも『振袖のお仕立て上りは儀式当日になりそうですので、直接届けさせていただきますね』と言われたほどだ。

 きっと呉服屋の人々の中で、〈青龍の番様〉は〝春宮家のお嬢様〟という印象があまりにも強すぎて、うっかり間違ってしまったのかもしれない。


(竜胆様に選んでいただいた振袖を着れないのは、残念だけど……)


 鈴は振袖に描かれた牡丹の柄にそっと触れ――……そのそばに置かれていた豪奢な全身鏡を見つけて、ひゅっと喉を引きつらせた。


(この、鏡は……)


 庵の調度品とは明らかに違う、異質な雰囲気をまとう不自然なそれに、鈴は違和感を覚える。

 そばに近寄り、観察すればするほど、見覚えがあるように感じる。

 いや、見覚えがあるなんてものじゃない。


(日菜子様のものに、似ている。……違う、似てるだけじゃなくて、これは、間違いなく日菜子様の鏡……っ!)


 春宮家の日菜子の部屋に置かれている、日菜子が小さな頃からお気に入りの金縁のこの鏡を、使用人として毎日磨き上げてきた鈴が見間違えるわけがない。


(で、でも、どうして? どうして、わざわざ鏡を)


 奇妙な違和感と言い表せない不気味さに、鈴の身体が小さく震えだす。

 そしてこれが違和感なんかではなく、仕組まれたことであると鈴が知るのはすぐだった。


「ぐううっ、ううううっ」

「う、梅さん……!」


 鈴のすぐ後ろに控えていた梅が、苦しげに呻き声を上げて喉を掻きむしる。

 顔面を蒼白にした鈴が為す術もなく、梅はその場にどさりと倒れ伏した。


「梅さん! 梅さん! どうしよう、救急車……っ!」

「あはははっ、救急車?」


 梅のそばに駆け寄って座り込んだ鈴の声に、嘲笑う少女の声が重なる。


「さすが、無能な名無し。呼んでどうするの? 呪術で首を絞められた人間が、一般の医療機関で治療できるわけないじゃない。発想が無能ねぇ?」

「……ひ、日菜子、様…………!」

「ああ、おかしいっ」


 鈴を心底馬鹿にした様子でクスクスと笑う日菜子が、庵へと入ってくる。

 その後ろには新しい使用人だろう少女がひとり、控えていた。


(日菜子様が、どうして十二天将宮に……っ)


 まさか鈴に連なる十二人の血族として、儀式に参加するつもりなのだろうか。

 日菜子を前にした鈴の身体は、長年刷り込まれていた彼女への恐怖でカタカタと震えを増していく。

 それでも、意識を失っている梅を抱き寄せて懸命に庇いながら、鈴は日菜子を見上げた。


「……梅さんを、どうするおつもりですか」

「彼女をどうこうするつもりはないわ。ただ見張りが邪魔だったから、意識を落としただけ。でも、こんなに苦しむなんて呪力耐性が低いのねぇ? やっぱり家系の問題かしら」


 日菜子は左手で持っていたなにかの紐を、ぷらぷらと揺らす。

 よく見ると、それは首に黒い麻紐が掛けられている藁人形だった。


(この藁人形って、まさか、梅さん……!?)


 鈴は目を見開き、絶句する。


「巫女見習いや術者が大勢来るのに荷物検査をしないだなんて、十二天将宮は呑気だわ。神様とその番様の『婚約の儀』を、誰もが無条件に祝福してるとでも思ってるのかしら? ふふっ、この鏡も花嫁道具と伝えたらすぐに通してくれたわ。この鏡の中に何が入っているかも聞かずにね」


 日菜子は鈴のそばまでやって来ると、豪奢な姿見の鏡面を指先でつうっとなぞり、「滑稽だこと」と嘲笑する。


(日菜子様の言葉通りなら、この鏡の中に藁人形を隠していたってこと……? 鏡の・・中に・・?)


 いったいどうやって。

 言葉では言い表せない不気味な気配が、ひたり、ひたりと鈴のそばまでやってきているかのような気がして、背筋がすっと冷たくなる。


「さあ、案内係は外で控えておいてちょうだい」


 日菜子が命令すると、意識がないはずの梅がのっそりと上半身を起き上がらせる。

 そして鈴の手を振り払い、その場ですっと立ち上がった。


「う、梅さん……?」


 鈴が咄嗟に呼びかけるも、返事はない。

 ぼんやりとした表情をしたままおぼつかない足取りで、彼女は庵から出ていく。

 どうやら意識がないまま、日菜子に使役されているらしかった。

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