第52話 運命の始まり

 ちりん、と耳の奥でここにはないはずの髪飾りの鈴の音が響く。

 竜胆はこれまで鈴を苦しめていた存在を無に帰すかのごとく、白紙になった呪符と木箱を神気を使い燃やし尽くす。

 すべてがさらさらと灰になり見事に無になったあと、彼は真剣な眼差しを鈴へ向けた。


「君の背中に刻まれている術式の一部は真名の解放によって消えたかもしれないが、すべてを消すにはもう少しだけ時間がかかるだろう。だが、これで『婚約の儀』は滞りなく行える」

「はい……」

「〝春宮鈴。俺は君だけを生涯、深く愛し続けると誓う〟」


 竜胆は鈴の腰を両腕で抱き寄せると、額にそっと己の額を合わせる。そして彼女の瞳を見つめながら、そう宣言した。


 長い睫毛に縁取られた青い双眸が、先ほどまでの氷のような表情から一変して一気に甘くなる。

 この世の僥倖をすべて手にしたかのような竜胆の、仄暗く、けれど抑えきれないほどの熱を帯びた眼差しに射貫かれ、鈴は身体が熱くなった。

 とくり、とくりと心臓が早鐘を打ち始め、喉元にきゅーっとせり上がってきたときめきのせいで、胸が痛くなる。


(あ、あ、あ……っ)


 至近距離で見つめられながら甘く名前を呼ばれて、しかもこれ以上にないほど竜胆と密着している体勢にいてもたってもいられないほど恥ずかしくなった鈴は、顔を真っ赤に染めてきゅっと唇をつぐむ。


(竜胆様に名前を呼ばれるだけで、こ、こ、こんなにドキドキして胸が苦しくなるなんて……っ!)


 想像もしていなかった。


 そんなふたりのやりとりを見ていた眷属たちは、『おめでとうございます!』と大声で叫びたいのを我慢して、感動に打ち震えていた。

 老若男女、十二人の眷属たちが今にも盛大に拍手しだしては、『本当にようございました……っ』『若様の純愛が実を結びましたね!』などと囃し立て始めそうな一体感に包まれている。

 先ほどまでの物々しい雰囲気はどこへ行ってしまったのか。

 応龍の間は、それほど祝福に満ち溢れていた。


(……恥ずかしいけれど、なんだか、嬉しいな)


 照れた様子で竜胆の言葉にこくりと頷き応じた鈴は、今は奪われていた真名を取り戻せただけでも十分だと思った。


(きっと、これからが、私の運命の始まりなんだ)


 鈴の背中に刻まれている術式がすべて消し去られた暁には、〈青龍の巫女〉として立派にお役目を果たせるように努力を重ねて――……これまでとは少し違う自分で、胸を張って、自分の運命を生きていけるようになれたらいい。


(竜胆様の隣で、竜胆様を支えられる存在になれたら……)


 それこそが鈴の本当の幸せだと、そう思った。




   ◇◇◇




 眷属たちを連れた竜胆と鈴は、十時を迎える前には一度神世へ戻ると、『婚約の儀』を執り行う十二天将宮へと向かった。

 広い境内に一歩足を踏み入れると、限界まで張りつめられたかのような高貴で気高く、そして清々しい神気が訪れる者へ対し厳しく問いかけてくる。

 眷属たちは背筋をより一層伸ばし、竜胆と鈴の背後に控えた。


 本日の十二天将宮は儀式のために参拝者が制限されている。現在この境内にいるのは十二天将宮の管理を代々任されている十二の神々の眷属と巫女や神司、そして狭霧家と春宮家の者たちだけだろう。

 この辺りには誰もいないので、どうやら裏方である狭霧家の者たちと春宮家の者たちはすでに一足先に儀式の準備に取り掛かっているらしい。


 境内を少し歩いていくと、白装束をまとった眷属と緋袴をまとった人の子であろう巫女が立っていた。


「青龍様、番様、お待ちいたしておりました。本日はご婚約おめでとうございます」


 十二天将宮を任されている神職だろうふたりは、竜胆と鈴の姿を認めると丁寧にお辞儀をする。


「ここから先は、青龍様と番様、それぞれ別の殿舎へ向かっていだたくこととなります」


 そう。『婚約の儀』では、婚約を誓う神と人の子が別々の支度室を使用しなければならない。

 それは現世から神世に嫁入りする人の子と、神世で人の子を迎える神の立場の違いが理由だ。

 これから鈴が向かう予定支度室には、人の子しか入れない。

 太鼓橋の中腹で待つ竜胆の手を取りともに歩みだすまで、眷属たちであろうとついてはいけないのだ。


 鈴はそれが少し心細かった。

 支度室を出たら、当然だが春宮家の者たちと言葉を交わさねばならない。

 先ほど別れたばかりの当主である祖父、そして両親、『婚約の儀』のために集められた十二人の血族たちに、春宮の名を背負う番様として挨拶する必要があるのは十分理解しているが、毅然とした振る舞いをするにはまだ時間が足りていなかった。


「本日、番様のお世話役を務めさせていただく梅と申します。お支度室のご用意はすでに整っておりますので、早速ですがご案内させていただきます」


 竜胆は人の子である巫女を推し測るような視線を向ける。

 黒髪の巫女から禍々しい霊力は感じられない。

 それも当然か。十二天将宮の管理を代々任されている家系の巫女だ。


「……彼女を頼む」

「かしこまりました」

「くれぐれも彼女をひとりきりにするな。彼女のそばに必ず控えていてくれ」

「お任せください。それでは番様、参りましょうか」

「は、はい」


 鈴は心細いながらも頷き、隣に佇む竜胆を見上げる。


「一瞬でも君と離れるのは堪え難いが、十二天将宮内で定められている掟にはなにがあっても背けない。春宮家にどんな言葉を浴びせられようと、君だけが〈青龍おれの巫女〉で…………たったひとりの番様だということを、絶対に忘れるな」

「は、い」


 眉根を寄せた竜胆は、意を決する鈴の頬を手の甲でさらりと撫でる。

 そうして、「……行ってこい」と、神世へ〝人の子〟として嫁入りする鈴を送り出した。

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