第51話 決別

 対して、自分はどうだろうか。鈴は考える。


(日菜子様の使用人だった頃は、悲しい出来事がたくさんあった。……つらい出来事も、理不尽な出来事も、たくさん)


 真名を剥奪され、霊力を搾取され続け、呪詛破りの道具として扱われ、『無能な名無し』という使用人として生かされるだけの毎日だった。到底許しがたい出来事も多くあった。けれども。


(……ずっとずっと、諦めて生きてきた)


 そこには、怒りはない。

 鈴の心の中を占めるのは、ただ痛みと悲しみと恐ろしさと、諦めだけ。


(竜胆様に出会ってから、いろいろな感情を知って…………今は……とても幸せ、だと、思う)


 だからだろうか。

 名前を返してくれるのならば、――もう、それでいいと、思ってしまうのは。


 鈴が隣に座す竜胆を見上げると、凪いだ湖のような青い瞳と視線が交わる。

 この場は自分に託されているのだと感じた鈴は、「……も、もういいです」と小さな声を発した。


「もういいです。頭を、上げてください」


 鈴の言葉を受けて、最初に頭を上げて上半身を起こしたのは祖父だった。父と継母がそれに続く。


(嬉しい、とか、良かった、とか、そういう気持ちはまだわからない)


 しかしこれで春宮家に奪われていたものがすべて返ってくるのだと思うと、鈴はどこかほっとしていた。


「……真名を返していただき、ありがとうございます」


 静かにそう口にし、〈青龍の番様〉としての品位を保ったまま小さくお辞儀をする。

 怒ることも、責めることも、詰りさらなる謝罪を求めることもない。

 それは問題はあれど十六歳まで衣食住を保証してくれた春宮家への恩義を込めた、鈴の精一杯の決別の言葉だった。





 

 真名の封じられた呪符の真贋を竜胆が確認し、春宮家を退出させたあと。

 蔵面を外した竜胆や眷属たちによってその場は清められた。

 鈴は呪符が収められている木箱を手に持ち、不思議な気持ちでいた。


(――春宮、鈴)


 忘れてはいなかった。

 ずっと心に刻み続け、何度も何度も擦り切れるくらい頭の中で唱えてきた。

 その名前がやっと、返ってくる。


(……やっと、竜胆様に名前を呼んでもらえる…………!)


 大切な存在である彼に名前を呼んでもらえるなど、どれほど幸運で、どれほど幸福な運命だろう。

 これまでは名前を呼んでほしいと願うことすらおこがましいと思っていたのに、これから始まる新しい日々への希望と期待が、徐々に湧き上がってきて胸を突く。

 しかし緊張しているのも事実だ。

 なにせ、物心ついた頃から誰にも名前など呼ばれた経験がない。


(名前を呼ばれるって、どういう気持ちなんだろう……?)


 初めての経験すぎて戸惑いすらある。

 鈴は希望と期待と緊張感が鬩ぎ合い、どきどきと高鳴るばかりの心臓の上に、そっと手のひらを乗せる。


「緊張しているのか?」

「緊張、しています」

「大丈夫だ。そう難しい解呪方法ではないから緊張する必要はない」


 竜胆は鈴の手から木箱を受け取ると、呪符に「ふっ」と息を吹きかける。


(呪符を、神気で清めているのかな?)


 式神を作る時のようだ。そう思いながら、鈴は手元に戻された呪符を見つめる。


「解呪は、祝詞を唱えながら呪符を手にしているだけでいい」

「えっ、祝詞を? 霊力がなくても、できるのでしょうか……?」

「ああ。術式の成り立ちから考えると、神々の許しがあれば簡単なことだ。〝十二神将は吉将が木神〈青龍〉の赦しのもと、奪われし我が真名を我に与え給えと、かしこみ恐みもうす〟……――言ってみろ」


 竜胆に促されて、鈴はこくりと力強く頷く。


「〝十二神将は吉将が木神〈青龍〉の赦しのもと、奪われし我が真名を我に与え給えと、恐み恐み白す〟」


 真名の封じられた呪符を両手で持ちながら鈴が祝詞を唱えた途端。

 呪符に赤黒い血で記されていた文字が、さらさらと解けるようにして、次々と消えていく。

 そうして最後には、中央に刻まれていた【春宮鈴】という真名が空中に浮かび上がり、眩しい光に包まれながらほろほろと鈴の両手へと降り注いできた。


「あ…………っ!」


 胸の内側が、感動で熱くなるような高揚感で満たされていく。

 霊力もないのに不思議な感覚だが、鈴は自分の真名と魂が還ってきたのだと理解できた。

 その証拠に、手にしていた呪符は白紙に戻り、その術式の終わりを正しく告げている。


「わ、わ……っ!」


 言葉では言い表せない感情でいっぱいになった鈴は、頬を紅潮させて竜胆を仰ぎ見た。

 竜胆はそんな鈴の頭を愛おしげに撫でると、やわらかく口角をあげる。


「〝十二神将がひとり〈青龍〉として、君の真名を問いたい〟」


 それは竜胆が鈴へ、初めて神域でかけた名を問う言葉と同じだった。

 あの時はできなかった自己紹介をやり直せることに、鈴の感情は嬉しさで高ぶる。


「私の、真名は……」


 ぽろぽろと零れ出る涙が止まらない。


「私の真名は、春宮――春宮、鈴と申します」

「……鈴…………」


 すべての感情がこもったような声で、竜胆は壊れものに触れるかのごとく大切にその名を紡ぐ。

 初めて口にできた彼女の名は、儚く、けれども凛としており未来への希望に満ちていた。


 そしてようやく、幼い頃に夢渡りの術で彼女と初めて言葉を交わした時、彼女の存在を示すかのように鳴っていた小さな鈴の音が印象的だった理由を知る。

 あれは彼女の魂が懸命に真名の剥奪に抗い、竜胆へその名を伝えていたのだと――。

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