第6章 婚約の儀と代償

第49話 神世と現世の狭間

「この玻璃の壺が、穢れを帯びているのがわかりますか? では〝二乃紅にのくれない〟の貴女。どのような穢れか説明してみてください」

「は、はいッ」


 巫女装束をまとった女性教師が、とある巫女見習いの少女を指名する。

 指名された少女は緊張した面持ちで教卓の上に置かれた大きな玻璃の壺を凝視すると、「く、黒い影が壺の中にあるように視えます」と、上擦った声で答えた。


「なるほど、いいでしょう。では次、〝二乃蒼にのあおい〟の貴女」

「そうですね……。複数の気配を感じます。動物……いえ、人間でしょうか。音も聞こえます。……叫び、のような」

「いい回答です。では〝二乃紫にのむらさき〟の貴女に問います。この玻璃の壺に宿った穢れの正体は?」

「『死者の霊』です」

「その通り。この玻璃の壺は、経営破綻した病院のエントランスに飾られていたものでした。ではこの穢れを、〝二乃紅〟の生徒から順に実際に祓ってみましょうか」


 百花女学院高等部の第二学年に在籍する巫女見習いたちは、ひと学年にひとつのクラスしかない使用人科とは違い、成績と霊力によって三つのクラスに分けられている。霊力はあるが希薄である〝紅〟、平均的な霊力を持つ〝蒼〟、そして霊力が強く成績優秀な者が集う〝紫 〟だ。

 普段はそれぞれ別の教室で授業を受けているが、本日は『祓除』の実技実習のため、ひとつの教室に集まって合同授業となっていた。

 巫女見習いの生徒たちがひとりずつ順番に禍々しい壺の穢れを祓っていくが、〝紅〟の生徒ではやはり歯が立たない。


「アレが影程度にしか視えない〝紅〟の生徒では、壺の祓除ができるわけないですわ」

「祓詞を唱えているだけで、霊力がまるでのっていませんもの。努力もせず、恥ずかしくないのかしら? そう思いませんか、日菜子様?」

「ええ、本当にそうね」


 日菜子は同じ二乃紫に所属する取り巻きの少女たちの言葉に、澄ました笑みを浮かべつつ返事をしながらも、心の底では安堵していた。


 ――ああ、ちゃんと視えてる! いいえ、それだけじゃない。きっとここにいるどの巫女見習いよりも、私こそが穢れの正体をはっきりと捉えられているはずだわ!


 実技実習で使用するために教師が用意した祓除用の教材なのだから、〝紫〟に所属する巫女見習いたちには視えて当たり前のものだ。

 神気のような高次の清らかな力は、波動や振動や音の周波数が細かく繊細なため、霊力があったとしても感じにくく、はっきりと視覚で捉えるには難しい。清らかな霊力を持つ者を除いて、一般的な霊力を持つ者たちが神々の神気を感じその神威を推し量るには、よほどの神気をぶつけられるほかない。


 それは日菜子とて同じだった。

 膨大な霊力を持つ春宮家の令嬢としてのプライドがある日菜子自身は気づいていないが、日菜子の神気を感知する能力は幼い頃から一般的な巫女見習いとの大差はない。

 しかし、邪気や穢れと呼ばれる低次の悪しき力は、波動や振動や音の周波数が荒い。磁場なども荒く狂うため、霊力がある程度あれば感じたり視えたりしやすい性質があった。

 もちろん高度な呪力や呪詛となると認識しにくくなるため、また話は別なのだが、とにかく邪気や穢れと呼ばれる低次の悪しき力は、膨大な霊力を持つ春宮家の令嬢として視えて当然だったのである。


 けれど日菜子には、あの最悪な『巫女選定の儀』を終えて以降、視えなくなっていた。

 それが、今はどうだろう。

 祖父から名無しの真名を封じた呪符を譲り受けてからは、完全にもとの霊力を取り戻している。いや、それどころか以前よりももっと霊力に満ち満ちているようだ。

 日菜子は口角を吊り上げると、制服の内側、心臓のあたりに位置するポケットに忍ばせた呪符の上に右手を添える。

 どくどくと鼓動を打つ心臓の動きに合わせて、日菜子の自慢の霊力が全身を巡っている。


「合同授業なんて面倒なだけですのに。日菜子様も、もっと有意義に時間を使いたいと思いませんか?」

「ふふっ、そうね。私たちにとっては無意味な時間だわ。けれどそれでも合同授業が行われるのは、私たちの祓除の技術を紅や蒼の生徒に見せて良きお手本となることを、先生方から求められているから。……そう、例えば私のような巫女見習いの技術を」


 日菜子は肩にかかっていた栗色の巻き髪を、さらりと右手の甲で払う。

 すでに〝二乃蒼〟の巫女見習いたちも祓除のための祓詞を唱え終えていたが、穢れはクラスの人数分祓われた程度で、禍々しい壺の様相にあまり変化は見られない。

 次は〝二乃紫〟の生徒が順に祓詞を唱えるが、それでもひとり三体から十体、穢れのもととなっている死者の霊を祓えるかどうかだった。

 それでも完全に祓えているから優秀なのだが、今の日菜子にはそれが、巫女見習いごっこ――おままごとにしか感じられない。


「次、春宮日菜子さん」

「はい」


 教師に名前を呼ばれ、日菜子は生徒たちの輪から中央に歩み出る。


「〝祓いたまえ、清め給え。一切衆生の罪穢れ、萬物よろずのもの禍事まがごとをもたちどころに祓い清め給えと、かしこみ恐みもうす〟」


 自信たっぷりに日菜子がそう唱えた瞬間。

 膨大な霊力が雷のように玻璃の壺へ直撃したかと思うと、数百体はいたはずの死者の霊が一気に浄化されていく。しかもそれだけに留まらず、ヒビすら入っていなかった壺が粉々に粉砕されていた。


「……す、素晴らしい! 素晴らしい祓除の技術です、春宮さん! まさか呪具になりかけていた玻璃の壺まで無効化してしまうなんて……!! 皆さん、圧巻の技術を魅せてくれた春宮さんに盛大な拍手を!」


 玻璃の屑だけが残る教卓を見て、女性教師は興奮したように目を輝かせて大きく拍手をする。


「やっぱりすごいわね、日菜子様って」

「初等部の時から、理解の範疇を超えた霊力をお持ちだったものね」

「霊力を操作した形跡なんて、まったく視えなかったわ。私たちの霊力とはまるで違う……」


 教卓の周囲で半円を描くようにして見学していた巫女見習いたちは、拍手しながら感嘆のため息をついた。

 日菜子は巫女見習いたちの賞賛と羨望の眼差しを一身に浴びながら、高慢な表情で微笑む。


「うふふっ。青龍様の本物の神巫女である私には、この程度の祓除は簡単なことですわ」


 そう、これこそが私の霊力! これこそが私の本来の力!

 青龍様の神巫女として大切にされ、最愛の神嫁として愛されるべき私の、百花女学院一の霊力よ!


 日菜子は異母姉の真名を封じた呪符の威力を改めて認識し、邪悪な様相で赤い唇に弧を描いた。

 



   ◇◇◇




 あっという間に五月末となり、『婚約の儀』を執り行う当日がやってきた。

 早朝から準備を整えた竜胆と鈴は、神世と現世の境界に存在する場所とされている〝狭間〟を訪れていた。


 狭間は山頂にある神社の社殿から続く参道、そして格子状に整備された鳥居前町から成る場所で、ごつごつとした灰色の石畳が続く。

 この場所の要となる神社は、〈始祖の神々〉が降り立った戦国の乱世以前である平安時代に創建されたものだという伝承がある。


 幾度となく争いや戦火に巻き込まれたその神社は、伝承によると十二回の焼失と再建を経験している。

 その際になんらかの時空間の歪みが生じたことによってその場所を移し、結果として神世でも現世でもない場所となったと言い伝えられているが、足を踏み入れられる者が限られているため真相の解明は進んでいない。


 鳥居前町には様々な老舗料亭や商店、甘味処や薬屋、それから湯屋なども立ち並ぶ。

 現代ではさらに人の手も多く入り、町家を使った宿泊施設がオープンしたり、大きな観劇場を改装して作られた上流階級が訪れるような洋風の社交場も存在していた。

 舞踏会を行う大広間やバンケットホール、ティーサロンを内包しているこの社交場を使って、政治家やあらゆる業界の権力者が神々や眷属を招いたパーティーを催すことも多い。

 上流階級の巫女見習いの生徒たちが様々な噂を仕入れてくるのも、たいていはこの場所だった。


 鳥居前町の中央から続く参道は、入り口となる現世側から次第に山を登っていくかのようななだらかな上り坂で作られていて、最奥には三千もの朱色の鳥居が続く。

 畏怖を感じざるを得ない圧巻の光景を抜けると、立派な社殿が見えてくる。

 そして神世へと続く風光明媚な『境界の滝』が、轟音と水しぶきをあげているのだ。


 竜胆は黒の紋付袴に〈始祖の青龍〉蔵面を付け、鈴は先日竜胆から贈られた着物のひとつである壺装束つぼしょうぞくをまとい、顔を隠すための長く薄い布を垂らした帔垂むしたれのついた市女笠を被って、神世側から狭間へと降りて来ていた。


 ふたりの後ろに続くのは、竜胆と同じように〈始祖の眷属〉の蔵面を付けている狭霧家の者たちだ。

 竜胆と鈴に朱色の大きな妻折傘を差し掛け行列を作る彼らは、この度の儀式において誓いを結ぶ十二人の眷属のひとりとして名乗りを上げた、竜胆に忠誠を誓う霊力の強い眷属たちばかりである。


 老若男女様々な十二人の中には、長年保守派だった分家の当主らも含まれている。

 彼らは竜胆の両親の懸念をよそに、やっと若様が番様を得られたことにこれ以上にないほど歓喜し、『宴を』と騒ぎ立て、涙を流した。

 そして〝名無し〟となった番様の事と次第を聞いた彼らは、若様への忠誠心と春宮家への鉄槌を望む心のもと再び一枚岩となり、今ここへ馳せ参じたのだ。

 神とその番様の後ろに続く、十二人の眷属たち。

 その物々しい雰囲気に、狭間を訪れていた人の子や朝の支度をしている鳥居前町の住人が頭を垂れる。


(わわわ)


 前日から心配と不安で眠れなかった鈴は、雰囲気に気圧されてさらに緊張してしまう。

 帔垂の中で思わずお辞儀を仕返しそうになる鈴に、竜胆は前を見据えたまま告げた。


「堂々としていろ」

「は、はい」


 小さな声で返事をした鈴は、竜胆の隣で慌てて背筋を伸ばす。

 神々を尊ぶ鳥居前町の人々の前で、人の子とはいえど〈青龍の番様〉ともあろう者が頭を垂れるなどあってはならない。

 竜胆も鈴の育ってきた環境や性格から考えれば、威風堂々とした振る舞いがいくらか難しいことであるのは理解しているが、これから会うのはあの春宮家だ。厳しいようだが、ここからすでに堂々と振る舞ってもらわねばいけない。

 鈴の手を握って優しく諭してやりたい気持ちをぐっと抑え、竜胆は十二神将は吉将が木神〈青龍〉として、すっと前だけを見続けていた。



 延々と続く鳥居の道を下り、参道を通って向かった先は、鳥居前町で最も格式高い老舗料亭『瑞祥ずいしょう』。

 春宮家との会合が行われる会場として、竜胆が指定した場所だ。

 趣のある瑞祥の門をくぐると、女将や仲居がずらりと並んで狭霧家の到着を待っていた。


「青龍様、本日はお待ちしておりました。応龍の間をご用意いたしております」

「ああ。よろしく頼む」


 雅楽の音が響く静かな料亭内からは、広い窓越しに庭石に囲まれた池を望むことができる。

 紅白の鯉が悠々と泳いでいる姿を見て、鈴はふいに竜胆の神域で見た鯉を思い出した。


(ここの鯉には口も目もある……)


 どうやら正真正銘の鯉らしい。

 白足袋を履いた足で内向きに小さな歩幅で歩みを進める鈴は、あの日の出来事を思い出して、ごくりと唾を飲み込む。


(……真名を、返してもらえる。……そしたら、やっと、竜胆様に名前を呼んでもらえる)


 嬉しいのに、真名を奪われたことで与えられた様々な苦痛が一気に思い出されて、手の震えが止まらない。

 そんな鈴に気がついた竜胆は、一度立ち止まり身体をこちらへと向ける。

 そして鈴の指先をすくいあげると、蔵面の下にそっと運んだ。


(ひゃ……っ)


 周囲からは見えていないが、鈴には彼が自分の手の甲に唇を寄せたのがわかった。


「おまじないだ」

「あ、ありがとうございます」


 竜胆の神気が鈴に移る。

 しかし霊力のない鈴には神気の光はわからず、ただ甘酸っぱい感触が指先をかすめただけだった。

 そのせいで頬だけでなく耳まで一気に熱くなって、ドキドキと心臓が速くなる。

 蔵面に隠れている竜胆の口角は、きっと悪戯っぽく上がっているのだろう。


「もし春宮家のことを考えているのなら、緊張する余裕もないくらいに、俺のことで頭をいっぱいにしていてくれ」


 そう言って竜胆は、蔵面の下で指先をやわく食む。


「…………っ!」

(竜胆様に、噛まれた……!)

「ああ、いい表情かおだ。不安になったらその感情を思い出すといい」


 尖った歯の感触に驚いた鈴は、『きゃあっ』と叫びたいのを我慢して思わず責めるように竜胆を見上げるが、真っ赤に染まった顔では迫力も出ない。

 竜胆はまるで何事もなかったかのように、再び蔵面を翻して歩き出す。

 そのわずかな隙間から、彼の形の良い唇が悪戯っぽく弧を描いているのが見えた鈴は、『やっぱり』と思いながら両頬を手で押さえる。


(ううう、恥ずかしいっ。こ、こんなところで、皆さんの前なのに……っ)


 走り出したいほど恥ずかしくなった鈴の頭の中は、竜胆の思惑通り彼への気持ちでいっぱいになる。

 今まで感じていた震えがどこかへ消え去っているのも忘れて、鈴は耳まで真っ赤にしながら応龍の間までの廊下を歩いた。

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