第47話 朽ち果てる白菊

 春宮家に嫁いですぐに鈴を妊娠した母は、訪問医から安静を言い渡され外出も許されていなかった。

 政略結婚だったため、心の通っていない夫は見舞いに訪れることもない。

 そんな日々を、やがて産まれてくる鈴のために着物を仕立てることで慰めていたのだと、くすくすと笑いながら話す春宮家の使用人から聞いた。

 秋に行われる七五三詣でのために反物から仕立てられた紺地に白菊の上等な着物は、鈴が自ら仕立て直すことで長い間着られていた。


 母が嫁ぐ時に持ってきた数少ない荷物のひとつだったと聞いていた摘み細工の髪飾りとともに、これからも大切にしていこう……そう思っていた矢先、最悪の事態が起こった。


『ねえ名無し。あなたの髪ってもしかして白髪しらがなの?』

『え……っと』

『あははっ、おかしい! それじゃあ似合うドレスもなさそうだわ。むしろお婆さんに間違えられても仕方ないわね?』

『……そんなに、その……おかしいでしょうか』


 成績優良者だけが集う『桜雛の会』に招待された日菜子に、使用人としてついて行くことになったあの日。

 まるでお姫様のように綺麗にドレスアップした日菜子が、『ふふふっ、おかしいわよ! 和服を着てるから、後ろからじゃお婆さんにしか見えないもの!』なんて可愛らしく笑いがら、鈴の傷んだ長い髪に触れた。


 いつの頃からかどんどん傷んでいき、たちまち色素が抜けていく髪の毛を見て、自分でもどうしてこうなっていくのかと不安に感じていた。

 けれど今まで誰にも指摘されなかったから、この髪色を気にしているのは自分だけだと思っていたのに。

 実際は、鈴の髪になど興味がなかったから指摘されなかっただけらしい。


『そうだ、先輩から〝お婆さんを使用人にしてこき使ってる〟なんて噂されたら嫌だから、いますぐ染めといて。……墨汁って、白髪も染められるのかしら? 名無し、試しに被ってみてくれる?』


 そう言って戸棚から墨汁の入った容器を取り出した日菜子は、嘲るような笑みを浮かべて蓋を捻る。そして。

 ばしゃり、と墨汁が鈴の頭上から一気に被せられた。


『あら? 案外染まらないものね。もっと量が必要なのかしら?』

『や、やめてください、日菜子様』


 ばしゃり。

 ぽた、ぽた、と前髪の先から黒い液体が着物に落ちる。

 黒い雫は、紺色の生地に輪染みを広げ、白菊の花をぐちゃぐちゃに汚した。


『汚い畳。名無し、早く片付けてちょうだい。もう時間もないし、その着物でついでに拭いたら? 先生方にはあなたが髪を染めようとして失敗したと事情を話して、制服での参加を認めてもらうわ』


 日菜子は畳にできた墨汁の水溜りに顔をしかめて、部屋から出て行く。

 鈴はガクガクと震え呆然としながら、畳に吸い込まれて行く黒い水を見ていた。


 それからどれほどの時間、茫然自失だっただろう。

 ハッと我に返って、洗濯場へ走り、着物に染み込んだ墨汁を何度も何度も水道で洗い流す。

 しかし母の唯一残してくれた大切な着物は、染み抜きを施したところで無残な姿であるのは変わりなかった。


(あの着物は、すぐに日菜子様が呼んだ他の使用人によって畳の染み抜きに使われて)


 ゴミに出されたんだったか。


「ほら、お嬢様の髪色にもぴったりです。お嬢様はいかがですか?」

「あ……えっと」


 フラッシュバックした過去の出来事と重なり、鈴は言葉を失くす。


(本当だ、……私って、お婆さんみたい)


 母が作ってくれた着物は幼い娘にぴったりの和風なもので、今試着している着物は随分と洋風なデザインだが、色合いや花のあしらいがどこか似ていた。

 そのせいで、鏡に映る自分にあの日の黒い染みまでがくっきりと重なって見える。


「――こちらの、藤の花と蝶の柄の振袖を見せてくれ」


 竜胆の凜とした低い声が強く室内に響く。

 それが鈴を支配していた過去の出来事から、一気に現実に引き戻した。

 呉服屋の女将さんが、慌てた様子ですぐに竜胆が選んだ着物を着付けてくれる。

 しかし現実を直視しても、髪色はなにも変わらない。

 鈴はここまで休む間もなく次々と着物を着せ替えられながら、ただ慌てていただけの自分が、滑稽な道化のように思えてきた。


(お婆さんのような自分に似合う着物など、ここにはない。きっと呉服屋の女将さんたちも、そう思っているはず)


 鈴は顔を上げることができずに、うつむいてしまう。

 その様子を腕を組みながら眺めていた竜胆は、鈴の肩や袖を整えてくれた女将さんが離れると、代わるようにして鈴の後ろに立った。

 彼は鈴の前に立てられた全身鏡を覗き込みながら、背後からゆっくりと鈴の手を取る。


「うつむかずに前を見ろ」


 耳元で低く囁かれて、うつむく鈴の身体が震える。

 鏡を見てみろと言われているのに、反射的に、鈴はぎゅうっと両のまぶたを閉じた。


「……怖いか?」

「は、い」

「ここには、君を怖がらせるものはない」

「で、でも」

「他の誰の言葉にも耳を貸すな。君は俺の言葉だけを信じたらいい」


 竜胆は鈴の側頭部に頬をすり寄せ、再び耳元で囁いた。

 その甘い言葉が、鈴の思考を揺さぶる。


(竜胆様だけの、言葉を)

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