第39話 役立たずな私
「それでは玄武様を呼んで参りますので、もうしばらくお待ちください」
主治医の女性は丁寧な一礼をして、病室を出て行く。
「今から玄武が来ると言っていたが……断るか? 少しでもきつければ眠っていた方がいい」
まだ意識が戻ったばかりだというのに、主治医と彼女を長く話し続けさせてしまったと感じた竜胆は、鈴の前髪を指先で払い、長い髪の毛を耳に掛けてやる。
「い、いえっ、大丈夫です。神様をお待たせするわけにはいきませんから」
竜胆の優しい指先がかすかに耳に触れ、鈴はどぎまぎしながらきゅっと毛布を握る。
「……そうか。無理をしないように」
青い瞳をふっと細め、竜胆は鈴からそっと指先を離す。
まだ触れていたいという名残惜しさが胸を突くが、なんと言っても彼女は意識を手放す直前、堕ち神と化した竜胆を見てその生き血を捧げるために命を諦めようとしていた。今も変わらず、恐ろしいと思っていて当然だ。
せっかく一緒に過ごせる時間を手に入れたのだから、彼女を過剰に怯えさせたくはなかった。
「……あの、竜胆様」
「なんだ?」
「竜胆様にも、なんと感謝の言葉を伝えていいか……。本当に、ありがとうございました」
鈴はさらにきゅっと毛布を握りしめて、深く頭を下げる。
「当然のことをしたまでだ。かしこまらなくていい」
「でも」
「いいんだ。むしろ俺にも落ち度があった。……君を危険にさらしてしまって、悪かった」
鈴が言い募ると、竜胆は眉を下げて、心底苦しそうな寂しげで切ない表情を見せた。
「そ、そんなっ。竜胆様はなにも悪くありません!」
彼にそんな顔をしてほしくなくて、鈴はベッドからちょっとだけ身を乗り出す。そしてすぐにそんな自分の勢いを恥じ、もとの位置で小さくなった。
「私こそ、その……たくさんの穢れを、竜胆様に」
「これくらい、どうってことない」
「そ、そんなはずありません! 霊力のない私には視えませんが、きっと竜胆様のお身体を蝕んでいるはずです」
「俺は君の穢れを肩代わりすることができて、僥倖だとすら思っている」
竜胆は優しく甘やかに微笑む。
「君の穢れをすべて肩代わりしたいとさえ思っていたが、医師たちからは治療に携わるのを断られてしまった。神気を使うことさえできれば、もっと早く、君の痛みを取り除けたかもしれないのに」
竜胆は言う。
強い神気を用いれば、今回の外科手術的な治療と同じことができるそうだ。
しかし、それには神気を用いた神にそのまま穢れが移ってしまう。
十二の神々は受けた穢れを自己浄化できないので、時と場合によっては、最悪……命を落としてしまう場合もあるらしい。
だから竜胆は鈴の手をずっと握って、ただひたすら神気を流しながら祈り乞うことしかできなかったのだと言う。
それを聞いて、鈴は顔を青ざめさせていた。
もしかしたら手を握っている間にも、多少の穢れには触れていた可能性がある。
「……わ、私はどうやったら、竜胆様の穢れをすべて癒すことができますか? その、お恥ずかしいのですが、巫女見習いではないので、なにも知らなくて……っ」
巫女見習いは一日にしてならず。
初等部で六歳から学び始めて十八歳で高等部を卒業するまで、その技術を磨き上げる。
難易度や専門度が求められる大学へと進学できるのは、さらに少数だ。
その技術を習ったところで、霊力の欠片もない無能な自分ができるとも思えないが、鈴はそれも重々承知の上で聞いた。
(日菜子様だったら、すぐに竜胆様を癒せるのかな……?)
ふと頭に異母妹のことがよぎり、鈴は暗い気持ちになる。
片や巫女見習いとして将来を有望視されている学年主席、片やしがない使用人だ。知識量の差だけでなく、全てにおいて差は歴然としている。
「う、噂でしか知らないのですが、堕ち神様は生贄の生き血をすすると瘴気を神気に変えられると聞きました。竜胆様、あの、私の血でよろしければすべて――」
鈴がそこまで言ったところで、ベッドサイドの椅子に座っていた竜胆が身を乗り出し、鈴を抱きしめた。
「君の生き血を啜るくらいなら、俺は堕ち神として討伐されることを厭わない」
鼓膜を震わせたのは、激しい感情を押し殺したような甘くかすれた切ない声音。
捕まえていないとどこかへ儚く消えてしまいそうな鈴を、懸命に引き止めようとする力強い腕と彼のあたたかなぬくもりに、否応無しにどきどき鼓動が早くなり、翻弄されそうになる。
けれども、彼の言葉の真意に辿りついてしまい、鈴の唇は恐怖で震える。
(答えを、聞きたくない)
そう思うのに。
「そ、それは……生贄として、私の血が……、私に流れる血までもが、無能で、使えないものだからですか……?」
震える唇が、真実を問おうと開くのを止められなかった。
彼の口からだけは、その答えを聞きたくなかった。でもきっと……ずっと知らぬふりをしていくより、ずっといい。
お前は無能で役に立たない名無しだとひと思いに断言されてしまえば、なにも望まず、今まで通り生きていける。
(……もう、名前を呼んでもらいたいだなんて、願わずに済む)
霊力のない無能な人の子が持つには傲慢すぎる願いを、手放さなくては。
そんな鈴の心情を察した竜胆は、腕にぎゅっと力を込めて鈴をさらに抱き寄せると、灰色の髪が流れ落ちる頭頂部にそっと静かに口づけして、目を伏せる。
「違う。――君が大切だからだ」
それは、鈴が予想もしていなかった言葉だった。
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