第5章 始まりの予感

第38話 生贄としての恩返し

 見知らぬ真っ白な部屋で目を覚ました鈴は、竜胆の姿を目に映し――そしてあの宵闇と朝焼けの景色を閉じ込めた宝石のような双眸が、青く凪いでいるのを見て心の底から安堵していた。

 身体の隅々まで刻まれていた灼熱の穢れを帯びた傷痕が、すべて彼の神気で癒されてしまっていたら後悔してもしきれないと思っていたが、最悪の結末はまぬがれたらしい。


 あれからすぐに竜胆がナースコールで呼んだ神霊経絡科の主治医である女性医師から、鈴に施された治療についての話を聞きながら、鈴は相槌を打ちつつぽろぽろと涙を零す。


(ああ、よかった……。私のせいで、竜胆様を歴史書に名を残したような堕ち神様にしなくて、済んだんだ……)


 十二の神々は穢れに敏感だ。現世を少し歩くだけでも、穢れをまとってしまうと聞く。

 そんな十二の神々のひとりである竜胆が、鈴に長年刻まれていた穢れに触れて堕ちてしまったあの時、竜胆の寿命を縮める存在となってしまった自分の存在を酷く恥ずかしく思っていた。


(だけど、まだ、生贄として竜胆様に恩返しをする猶予があるのなら)


 これほど嬉しいことはない。……これほど、幸福なことはなかった。

 鈴の身体中に刻まれていた呪詛の痕は、すべて神霊経絡科の侵蝕度の深い穢れの切除を専門とする医師や看護師によって、七日間をかけて浄化されたのだという。


 浄化と聞いて、巫女見習いたちが行なっていた祈祷をイメージしていた鈴だったが、神霊経絡科で行われるのはもっと高度で専門的なものらしい。

 なんと清らかな霊力と特殊な医療器具を使い、穢れや呪詛を切除していくという外科手術に近い治療を経て、深部から取り除いていくそうだ。


 治療のおかげで、竜胆が唇で触れて浄化した左腕だけでなく、右腕にもあの呪詛の痕は残っていない。

 きっと入院着の下も同じなのだろう。

 鈴が自分自身のこんなに綺麗な肌を見たのは、おそらく初めてに等しい。

 物心がついた頃にはすでに、日菜子に向けられたあらゆる呪詛を代わりに被っていたからだ。


 特に日菜子が百花女学院の中等部に入ってからは、他の巫女見習いたちから嫌われたりやっかまれたりする頻度が上がり、カフェテリアで提供される食事に呪詛が仕込まれるパターンが急増した。

 というのも、特定の物に対し座標や時間軸を指定して、遠隔で浄化の術式を行使するという授業が行われ始めたからだろう。


 高等部を卒業するまでに習得できるかどうかという技術らしいが、巫女見習いとして神々の穢れを癒す巫女になるためには必要な技術になってくる。

 それを習得した優秀な巫女見習いが悪意を持って、浄化の術式を呪詛の術式に応用し始めたのだ。


 代償は霊力のみ、効果は一度きりという呪詛であれば、術式の応用程度で行使できる。

 その上、不特定多数が触れる可能性のあるものや座標や時間軸がわかりやすい物は、呪詛をかける対象物にしやすい。

 シェフや配膳係など多くの手が入るカフェテリアの食事は、その代表格と言っていいだろう。

 日菜子は学年主席を維持し続けているので、カフェテリアで提供される特別なメニューは呪詛をかける対象物として格好の的だったのかもしれない。


 普通の巫女見習いは霊力を使い、食事に祈祷をしてあらかじめ浄化することで、呪詛を仕込んだ術者の力量を下回っていなければ回避できる。

 だが日菜子に呪詛をかける巫女見習いたちは、日菜子がそれをしないのを承知の上で行なっていた。


 さらに巫女見習いとして優秀な者は、呪詛を呪詛とも思わせぬ方法も得意だ。

 日菜子の食事を毒味する〝無能な名無し〟に霊力がないのを知っているからこそ、〝無能な名無し〟にかけられている呪詛破りの術式を突破する自信があったのだ。

 犯人が特定されない限りは『退学』という罰則も発生しないため、食事に呪詛が仕込まれるのは日常茶飯事だった。

 それこそ、鈴が味覚をなくすくらいには。


 けれどその真相も、日菜子の異母姉を虐げたいという思惑も知らぬ鈴は、日菜子に言われるがままに使用人として毒味をする毎日だったのだ。


(これなら竜胆様にも、穢らわしいと思われないかもしれない……。それに、私の肌に刻まれた呪詛の痕のせいで、竜胆様を予期せぬ穢れに触れさせなくて済むかも……)


 鈴は驚くほど真っ白になった両腕を見て、「ありがとうございます」と涙ぐみながら女性医師に感謝を伝える。


「背中にはまだいくつかの術式が残っていますので、そちらの治療はまた改めてということになります」


 主治医として執刀したという彼女は〈玄武の眷属〉だそうで、言われてみれば確かに人の子とは違う雰囲気をまとっている。

 初めて神々の眷属という存在を目にした鈴は、それから一拍して、ここは現世ではなく神世なのだとようやく気がついた。


 ベッドに入ったまま枕を背もたれに座っていた鈴は、慌てて居ずまいを正して一礼する。


「わ、わかりました。治療していただき、本当にありがとうございました」

「いいえ。術式の詳細に関しましては、青龍様から伺った方がわかりやすいかもしれません」

「は、はい」


 鈴は涙をぬぐい、緊張気味に頷く。


 背中には真名を剥奪された際の術式と呪詛破りの術式が刻まれていることは知っているが、いかせん自分は巫女見習いではない。

 使用人科では術式のじゅの字も習わないため、今から竜胆の手を煩わせるのかと思うと、申し訳なさで動悸がしてくる。

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