第37話 祈り乞う

 再びふたりきりになった病室は、点滴を繋がれた鈴の心臓の脈拍を示す電子音と呼吸器の音だけになる。


『怪異や呪詛で苦しんだ患者様が意識を失ったあと、回復傾向にあっても、目覚めるかどうかは患者様次第になります。あとは彼女の生きたいと思う心に懸けるしかありません』


 主治医となった女性医師からはそう説明されていた。


「……どうか、帰ってきてくれ」


 眠り続ける鈴の手を握りながら竜胆は目を伏せ、彼女が一刻も早く目覚めるようにと、彼女の身体の負担にならないよう少しずつ神気を流しながら祈り乞う。

 竜胆も湖月も諦めてはいなかった。

 しかし多くの患者を見てきた医師や看護師たちは、この手の患者が目を覚ますのは難しいと考えているようだ。


 竜胆は飲食も睡眠も必要とせず彼女に付き添い、己の番様に神気をまとわせる。

 鈴は治療のために一日のうちの数時間は別室へと移されたが、その間も竜胆が食事を摂り眠ることはなかった。


 そんな日々が続き、彼女が入院してから七日間が経過した。

 入院着から覗く点滴に繋がれている腕は、いまだ儚くポキリと折れそうだが、白く滑らかな肌を取り戻している。

 他者の真名が焼きつき爛れた傷痕となって刻まれていた鈴の肌は、すべての治療を終えていた。


(このまま神域に連れ去れたとしたら――)


 神域の強制力が働き、彼女の魂を手にできる。

 今度こそ真名も正しく奪い返せるだろう。

 ただこんな状況だ。一週間も寝たきりの彼女の肉体へかかるかもしれない負担を考えると、予後が悪くなってしまうかもしれないという不安に苛まれる。


(……それに。あの時の彼女の表情が忘れられない)


 呪詛の穢れが残る左手の甲の火傷痕に唇を寄せた時の、長い睫毛に縁取られた黒く大きな瞳が溶けてしまいそうなほどに涙を浮かべた彼女の表情が。


『……やっ、やめて、ください……っ、竜胆、様…………』


 彼女は、はらはらと儚く涙し懸命に声を振り絞って竜胆を拒絶した。

 怖がらせ、怯えさせてしまった彼女に再び〝番の契り〟を強いるのは、あまりにも無情というもの。

 竜胆自身、己が冷酷無慈悲と噂されているのは知っているが、それは人の子に対して相応な態度を取っているだけであり、そこに悪意もなければ善意もない。

 だが己の番様の前だけでは、殊更ことさらに誠実で慈悲深くありたい。

 それが神であり、ひとりの男としてのさがだろう。


 彼女をこの世の誰よりも大切にしたいという想いが、竜胆の決断を鈍らせる。

 それに加えて…………彼女がこれほどに苦しめられ、虐げられ、嬲られ、搾取され続けられていたとわかった以上、彼女を神域に連れ帰って真名を取り戻し、己の加護を与え春宮家から守るだけではなにも終わったことにはならないと、飢えきった本能が咆哮を上げている。


(神の番様を害するとはどういう意味を持つのか、――愚かで傲慢なあの一族に教えて差し上げねばならないな)


 因果応報。真に代償のない呪術など存在しない。

 神を前にした時、人の子は代価からも責任からも、逃げられはしないのだ。


 その時。


 ふと、竜胆が握っていた鈴の手のひらに、きゅっと弱々しいながらも力がこもる。

 竜胆は瞠目し、彼女の手をぎゅっと握り返す。そして。


「…………ん……」


 小さな音が、薄く開いた唇から零れた。

 それは、もう何日も聞いていなかった大切な少女の、どこか心細そうで儚い音色を持つ可憐な声。


「………………っ」


 竜胆は彼女の名前を呼びたい衝動に駆られ口を開くが、呼びかけるための真名を知らなければ呼吸音がもれるだけ。

 酷く悔しい感情に圧し潰されながら、「どうか、起きてくれ」とただただ懇願する。

 すると願いが通じたのか、彼女はゆっくりと両の瞼を開いた。

 天井のライトに眩しそうに目を細め、そして大きな黒い瞳が竜胆を映す。


「…………りん、どう、……さま?」


 竜胆は思わず溢れ出しそうになった涙をぐっとこらえると、「ああ」と彼女の呼びかけに短く返事をする。

 その声が、自分でも聞いたことのないような穏やかな音色だったことに少し驚くも、竜胆はそのまま青い双眸をやわらかく細めた。


「おかえり、俺の大切な番様」


 そしてかけがえのない、たったひとりの〈青龍の巫女〉。


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