第36話 幼馴染


 慌てて口をつぐみながら、湖月は「今後は彼女にかかる負荷を考えた方がいい」と声を落とす。


「今回は〝番の契り〟と神域の滞在時間が運良く等しく作用したのかもしれないけれど、神域に一週間滞在しようものなら、場合によっては彼女の年齢に誤差が生じる可能性だってあるんだ」


 今後も竜胆の神域の時間の流れに変化がなく、一時間が一ヶ月に相当するのなら……神世や現世で十年を超える時間と代価を等しくするためには、一度の口づけで済むわけがない。

 そこに老いも、病も、穢れもないというのは、人の子がその箱庭の主である神と正しく契った時のみだ。


 しかも現世の理において人の子の寿命を超える神域の滞在には、神世や現世に降りた時に死という残酷な負荷が発生する。

 竜胆がそこまで長期間の滞在を考えていなくとも、神域で行う〝番の契り〟がなんたるかを知る湖月には、医療に携わる特別研修医としても竜胆に注意したいことが山のようにあった。

 けれども、羞恥心が勝ってしまい「とにかく」と言葉を濁すしかない。


「学生の本分は勉学に励むこと! 神域はしばらく出入り禁止だからね」

「湖月に言われずともそのつもりだ。どれだけ待たされようと、理性のない獣になるつもりはない」


 眉根を寄せて不服そうに告げた竜胆に、「それならいいけれど」と湖月は胡乱げな様子を隠さずに言う。


「それから検査結果に書いている通り、彼女の肩の下から背中、そして腰にかけて、見たこともない術式を含んだ複数の呪術式が肌に直接刻まれているのが見つかった」

「……それは湖月も見たのか?」

「馬鹿! 僕は見てない!」


 湖月は顔を真っ赤にして再び怒る。


「君ってやつは、幼馴染をよくそんな射殺しそうな目で見られるな……。他の患者で必要な場合は見せてもらうけれど、君の子・・・だからね。僕が見たのは写しだ。一応伝えておくと、検査をしたのはすべて彼女の主治医になった女性医師と〈準巫女〉の看護師だからね」

「そうか」


 湖月は白衣の下に着ているシャツのネクタイの結び目を直しながら、「まったく、君の独占欲は厄介すぎる」とぼやく。

 それでも配慮してしまうのは、やはり同じ十二神将という神だからだろう。

 湖月にはまだ番様も〈神巫女〉もいなかったが、もしも見つかったら竜胆と同じようになるだろうと、なんとなく想像がついていた。


「その術式は、三日前に専門機関に提出して今朝ようやく解読結果が受け取れたんだ。ひとつずつ説明していくと」

「真名剥奪、霊力搾取、呪詛破り、そしてもうひとつは……この文字と紋様の羅列から考えると、授受反転と言ったところか」


 竜胆はさらりと読み解きながら、「しかも苧環家の家紋まで組み込まれているとなると、この授受反転の術式は苧環家が開発した苧環家の血筋の者だけが使役できる秘術だろうな」と忌々しげに術式の写しを睨みつける。


「……さすが竜胆。そんなに早く読み解くのなら、最初から竜胆に任せた方が早かったな」


 疲れた様子の湖月は肩を落として、「全部正解だ」と告げる。


「代々霊力が清らか過ぎて呪術に向いていない春宮家が施したにしては、複雑で悪意に満ちた組み合わせだと専門機関の担当者も話していたよ。やっぱり、苧環家が一枚噛んでるとみていいかもしれないね」

「ああ。真名剥奪と呪詛破りを掛け合わせようなんて、よほど呪術に傾倒した者でなければ考えつきもしない。そこに霊力搾取を重ねがけ、さらに授受反転を施して代価の責任逃れとは。卑劣な犯行としか言いようがないな」


 竜胆は彼女を苦しめていた呪詛の正体を知り、再び愚かな人の子への怒りがふつふつと沸いてくるのを感じて、ぐっとこぶしを握りしめる。


 湖月は懇々と眠る春宮家の長女を見つめながら、「残念だけれど、背中の術式に関して神霊経絡科ではこれ以上の治療はできない。すべての術式を正しく解いて痕を消すには、彼女の真名が刻まれた呪符を取り戻してからになるかな……」と言うと、痛ましげな表情をして唇をつぐんだ。

 背中に刻まれていたのは、真名剥奪を中心として編まれた非常に卑劣な術式だ。

 他のものから解こうにも、魂に障りが出る可能性がある。

 それでなくても、真名を封じた呪符が春宮家に握られているのだから、こちらも慎重に動く必要性があった。


「それから。君が応急処置で彼女の呪詛の一部に神気を流していたから命は助かったけれど、他の場所にも刻まれている他者の真名もすべて同じ方法で消し去るには、君が相当な穢れを受けることになる」

「穢れくらい、いくらでも引き受けるつもりだ」

「馬鹿! 自分の穢れで神が寿命を縮めたと知ったら、悲しむのは君の子だぞ!」


 他者の真名が刻まれていた鈴の肌は、侵蝕度の深い穢れの切除を専門とする神霊経絡科の女性医師と看護師資格を持つ〈準巫女〉たちによって、すでに三日間をかけて清められている。

 まだ五割程度であるが、焼け爛れたような傷痕が綺麗に浄化された素肌は透き通るように白く、本来の美しさを取り戻していた。


「君はそれでなくても堕ち神として瘴気を帯びやすいのだから、穢れにはあまり触れないようにしてくれないと。今後の治療も、引き続きうちに任せるように」

「…………わかった」

「なんにしろ、君の子が見つかってよかった」


 湖月は物心がついた時から、幼馴染が自身の番様を奪われて堕ち神となり、誰よりも苦しんで生きてきたのを間近で見てきた。

 初等部に入った頃にはもうひとりの幼馴染と一緒に連れ立って、伽藍堂な瞳で生きる竜胆を少しでも励まそうと、『百花の泉』に通ったこともある。

 泉に浮かぶ赤い牡丹の花を複雑な表情で手に取っては、無言でぐしゃりと握り潰し粉々にしていた竜胆の心情を理解できず、幼心に恐ろしいと思った日もあった。


 ……けれど。

 幼い頃は気弱な泣き虫でいじめられっ子だった自分に、何度も手を差し伸べてくれたのもまた、誰よりも強く気高い竜胆だった。

 湖月が大学を卒業する前に特別研修医になろうと決意したのも、なにかの時に幼馴染を少しでも助けたかったからだ。


 ――〈青龍の番様〉、か。

 その存在は、湖月にとっても大きく、なぜだか胸の奥底をあたたかくする。


「……竜胆。僕はもう行くけど、なにかあった時はすぐにナースコールを押すように」

「ああ。恩に着る」


 竜胆はもう湖月へと視線を向けずに、ベッドの上で眠る鈴の手を握る。

 そんな幼馴染に呆れた思いを抱きつつ、湖月は眉を下げてふっと優しげな笑みを浮かべ、この三日間で通い慣れてしまった病室を出た。

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