第34話 日菜子のたくらみ
昭正は名無しの背に刻んだ術式の写しを日菜子から受け取りながら、高慢な態度で言う。
「名無しがいつの日か、日菜子の権利を脅かすのではないかと思っておった」
「……私の権利?」
「そうだ。神々から〈神巫女〉に選ばれ、神嫁となる権利だ」
昭正の言葉に、日菜子は大きく目を見開き「やっぱりそうだったのね……!」と頬を紅潮させる。
「それじゃあ、やっぱり私が青龍様の……っ!!」
日菜子は胸が熱くなった。
このどこへもぶつけられない烈火のごとき怒りも、全身の血が沸き立つような嫉妬も、神々にプライドを傷つけられて感じた羞恥心も、本来は日菜子が感じなくてもいいものだったのだ。
日菜子に伝えられている春宮家と苧環家の因縁は、たった一部に過ぎない。
呪術に秀でた苧環家が祖父の生家であり、そのために異形となった祖母を娶ったこと。
様々な事情があり、政略結婚で良家の女性と一度結婚せざるをえなかった父の娘が異母姉であること。その間も日菜子の両親は想いあっていたこと。
それから。早産で日菜子より先に産まれてきた異母姉が強欲なあまりに、日菜子にも宿るはずだった春宮家の霊力のほとんどすべて宿して産まれてきたことだ。
日菜子は異母姉が重罪人であると疑わず、自分こそが正義で、春宮家の正当な後継者であると信じている。
歪んだ価値観の中で育ってきた日菜子にとって、異母姉は霊力を搾取されて当然の存在だった。
今の春宮本家に日菜子の意見を否定する者はいない。
使用人たちも皆、日菜子と同じ知識を持ち、日菜子の味方だった。
「それじゃあ、私の権利を名無しが脅かすのを危惧して、お祖父様は先手を打って策を講じていたのですか?」
「その通り」
「まあ! すごいわ! いったいどのような……!?」
「本来、呪詛破りは呪符を使って行うものだ。呪詛を結んだ者の名が呪符に浮かび上がる。しかし名無しの場合、呪詛を受けた数だけ、呪詛を結んだ者の名が肉体に直接刻まれておるだろう?」
「ええ。名無しの皮膚にいつも術者の姓名が火傷のように浮かび上がって」
「その姓名が重要なのだ。名無しには真名を剥奪した上で、呪符ではなくその背に術式を刻んでおるからな。あやつの皮膚は呪符と同じくまっさらな紙とみなされ、呪符と同じ効果を発揮するのだ」
そのかわり他者から向けられた呪詛の効果も、呪符の身代わりに生贄の娘に現れる。
「真名を剥奪し魂を握ったところで、神々の神域に隠されればひとたまりもない。しかし、肉体に他者の真名を刻めば刻むほど――……肉体をも〝名無し〟にできる」
「……あ、あれに、そんな効果があったなんて…………!」
「神域だろうが、名無しの魂と真名が肉体に還らなければ霊力は名無しに止まらず、霊力搾取の術式が優位に行使し続けられる。授受反転の術式は、そのすべての術式が永続的に行使されるための
どれも難易度が高く、術者にとってもが代価が大きい術式の組み合わせだ。それを永続的となると、さすがにこちらも寿命が尽きる。
だが、授受反転によってすべての術の負荷を名無しに背負わせることで、こちらには影響なくすべてが円滑に進む。
神々によって名無しが神域に隠されようと変わらず日菜子には霊力が届き、名無しは霊力の欠片もなく無能なまま。
それでは神々も『使えぬ娘だ』と辟易するだろう。
己の判断が間違っていたとさえ感じるはずだ。これは〈神巫女〉ではない、と。
そして本当の〈神巫女〉を――日菜子を見つけ出すはずだ。
住む家も生活費もなく、百花女学院を卒業してもいないため使用人としての働き口を探すこともできない名無しは、生きるためにまた春宮家に戻ってくるほかない。
霊力の欠片もない、無能な、名無しの使用人としての存在価値にしがみつくしかないのだ。
名無しには、そうであってもらわねば困る。あれは生贄の娘なのだ。
昭正は醜悪な笑みを浮かべる。
「日菜子。霊力が安定しないと話していたな」
「はい」
「これを持っていなさい」
厳重に封咒を施していた木箱から、祖父が取り出したのは赤黒い血痕にまみれた一枚の紙。
術者の血によって術式が精密に書かれた中央には、
【春宮鈴】
と、記されている。
「これは?」
「――名無しの真名を封じた呪符だ」
「…………ッ!」
祖父の言葉は、異母姉の魂がこのたった一枚の紙きれの中にあることを示していた。
「これを、私に……?」
異母姉の魂のなんと儚いことか!
日菜子は唇が
「日菜子のそばに名無しを置くことで、霊力搾取の術式が百パーセントの力を発揮するのは明白。だが、本人がいないとなれば、魂をそばに置くしかあるまい。もう呪符を失くすような年齢でもなかろう。日菜子に預けておく。――有用に使え」
「ええ、ええ……! 大切に使いますわ……ッ!」
やはり自分こそが〈青龍の巫女〉に……――あの恐ろしいほどに美しい神の神嫁になるのだ!
番様として選ばれた名無しには、堕ち神の彼を浄化したあと速やかに退場してもらわねばならない。
これからは〈神巫女〉である日菜子だけが、〈青龍〉のたったひとりの妻として……甘く愛でられながら、いつまでも幸せに暮らすのだから。
あの最悪な『巫女選定の儀』から一週間が経った日。
日菜子は新しい使用人を連れ、いつも通りの高慢な様子で百花女学院高等部のカフェテリアにいた。
「日菜子様、もう霊力のご不調は治られたのですか?」
「ええ。心配をかけたわね」
取り巻きの巫女見習いたちは互いの見合わせながら、ホッした様子で胸をなでおろす。
そんな日菜子たちの様子を、カフェテリアで過ごす巫女見習いの生徒全員が注目していた。
日菜子はまるで女優のように演技がかった仕草で、栗色の巻き髪を指先で耳に掛けながら声を張る。
「春宮家当主である祖父に聞いたら、やっぱり私が青龍様の〈神巫女〉だと判明したの」
その言葉に、カフェテリアの騒めきが増した。
「堕ちかけていた青龍様は、神気を浄化するための生贄として名無しを選んだだけに過ぎないわ。そして今度こそ、青龍様は私を選ぶの。――ふふっ、楽しみね」
日菜子の発言は、巫女見習いたちの様々な憶測を呼んだ。
そして百花女学院内で、全国に散らばった〈準巫女〉や〈巫女見習い〉たちが集う研修で、神世と現世の境で催されるパーティーで、ひそひそと囁かれ噂だけがひとり歩きしていく。
(……春宮鈴。いいえ、〝無能な名無し〟には、一生私の使用人でいてもらわなくちゃね……?)
百花女学院の寮にある自室で、華やかな容姿をさらに美しく磨きたてながら、日菜子は不幸な異母姉をクスクスと嘲笑った。
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