第26話 禁術


 その夜。己が研鑽を重ねている最中の、まだ領域の境目が霧がかりぼやけている箱庭に、ちりん、ちりん、と小さな鈴の音が鳴ったのを聞いた。


(耳にしたことのない音だ)


 警戒心を強めた竜胆は邸を出て、庭園を抜け、神域の入り口となっている朱色の鳥居まで出向く。

 すると不思議なことに、そこにはあの紺地に白菊の花が咲いた晴れ着を身にまとった幼い少女がいた。


「――――っ」


 竜胆は息を詰め、彼女を見つめる。

 彼女もまた、竜胆を不思議そうな様子で見つめ返してきた。


「あの……この辺りの方ですか?

 心細そうで儚い音色の、可憐な声だ。

 竜胆は彼女の声が聞けたことに目を見開き、これが夢だと自覚した。

 彼女が死んでいないのなら、もしかすると……という一縷の希望を見出していた竜胆は、禁書蔵の書物に記されていた他人の精神に干渉し影響を及ぼす禁術――夢渡りの術を試していたのだ。


【夢渡り――ひとたび渡りて七魄しちはくを害し、みたび渡りてこんついえる】


 禁書にはそう記されていた。

 これは、人の子の三魂七魄さんこんしちはくに夢渡りの術が大きな影響を及ぼすことを示唆している。

 三魂七魄とは、簡単に言うと魂には三つの側面があり、七つの感情を持っているという意味だ。

 相手の肉体を傷つけることなく他人の精神に直接干渉できる夢渡りの術を使うと、術者の見せたいものを見せ続けることができるため、七つの感情を破壊できる。

 そして三度渡った時には、相手の魂まで消滅させてしまうのだ。


 しかし。これが禁術だからと言って、相手に必ず影響を及ぼすものではないと竜胆は解釈している。

 禁術であるのは、夢渡りの術が言葉の見た目から連想するような逢瀬のために使用されてきたのではなく、呪術として使用されてきたからに過ぎない。


(ひとたび渡るだけなら、彼女の魂魄は傷つくことすらないだろう。……とは言え、二度も三度も行うの予定はないが)


 術者が払うべき代償となるのは夢渡りの禁術符が必要とするだけの神気、または霊力。竜胆の神気も、たった一度の禁術符の行使でごっそりと奪われた。人の子では、霊力どころか寿命の半分を失うかもしれない。


(さすが三魂七魄に影響を及ぼす禁術。危険度の高さは折り紙つきだ)


 禁術符に記す必要がある相手の情報には、【春宮家は直系長子に嫁ぎし〈六合の巫女〉の壱ノ姫】と書き記した。真名も知らない彼女とひと目逢えるかは完全に賭けでしかなかったが、どうやら成功したらしい。


(代わりに神気が多く奪われた気もするが、問題はないな)


 むしろ竜胆の持つ神気は、霊力を持つ人の子に畏怖を与える。彼女に怯えられるよりはいい。

 けれども竜胆の期待に反して、彼女からはあの五行の整った清廉な霊力は感じられない。

 やはり完全に、霊力を失っているみたいだった。


「その……ここは、どこでしょうか? いつのまに外に出てしまったのか、道に迷ってしまったみたいで……」

「……迷子か。状況がよくわからないから、詳しく教えてくれないか?」


 竜胆が問うと、彼女はこくりと頷く。


「えっと、その」


 彼女の頭の動きに合わせて、ちりん、ちりん、と小さな鈴の音がした。

 先ほど竜胆が耳にしていた音の出処は、どうやら彼女の髪飾りだったようだ。

 だが華奢な摘み細工の白菊の半分には、以前見た時にはなかった炎で焼けたような跡ができている。


(まさか火をつけられでもしたのか……!?)


 瞬時に胸の中に灯った春宮家の殺意の炎を、竜胆は慌ててぐっと呑み込む。

 釈放されたばかりだというのに堕ちでもしたら大変だ。


(上手く、やらないと)


 じわりと神気のうねりが反転しそうになるのを、手のひらを胸に当てることでなんとか抑えて、竜胆は努めて優しく彼女の髪飾りに手を伸ばした。

 突然見知らぬ男の子に髪飾りへ触れられたせいか、彼女はぴくりと肩を揺らす。

 ちりん、ちりん、と困惑気味の鈴の音が鳴る。


「あの……」

「ああ、すまない」


 夢の中だからか指先に髪飾りの感触はない。焦げたような匂いもせず、布地の変化を感じることはできなかった。

 そのため本当に炎で焼けた跡なのか、なにかの呪術による穢れを示しているのか……。

 それとも身に起きた恐怖を彼女の精神が髪飾りの焼け跡として現しているのか、判断はつかない。

 が、彼女の身になにか起きているのは明らかな事実だろう。

 竜胆が髪飾りをいじっていた指先を離すと、少女はあからさまにホッとした様子を見せた。


「その……今朝は元気だったのですが、突然の高熱で、寝込んで、いました。……それで、お祖父様とお父様とお継母様がお見舞いに来てくれて、それからはずっと、怖くて痛い夢を見ていたはずなのに…………いつのまにか、ここにいて」

「……そうか」


 どうやら彼女は残酷な悪夢にうなされていたようだ。夢の内容を思い出したのか、顔を蒼白にしている。

 彼女の言う突然の高熱は、十中八九、強すぎる霊力に彼女の肉体が耐えられなかったからだろう。

 幼い神々や眷属の力が成長する過程でもよくある話だ。安静に数日過ごせば、大抵は肉体が神気や霊力に慣れてくる。


(だが、怖くて痛い夢とは? 確かに高熱が出たら魘されもするだろうが――。それが本当に夢だったのかどうかは、わからないな)


 竜胆が彼女の霊力の目覚めを感じたのは朝方。

 そしてそれから一刻もしないうちに、彼女の存在がすべて消失したのだから、祖父、父、継母によるお見舞い・・・・が、彼女を害したのは明白だった。

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