第16話 堕ち神


 春宮と声を出した途端に急激に熱を持った身体、そして呼吸困難に近い彼女の様子から推測するに、真名を奪い取った術者は彼女が神域に隠されても不具合・・・がでないよう、最初から卑劣な呪術を仕組んでいたのだろう。


 刻まれている姓名のほとんどは竜胆が知らぬ者であったが、夏宮とくれば四季姓を冠する名家だ。

 そんな名家の術者が、わざわざ好き好んで自分の真名を残す呪詛をかけるわけがない。

 と、すると、これは真名を奪い取った術者によるものだろう。


 彼女が受けた呪詛を結んだ術者の真名が残るように、あらかじめ卑劣な呪術を施しているに違いない。

 呪詛をかけた者の真名を肌に直接刻ませるなんて、彼女の肉体を他者のものにするのと同じだ。

 刻まれた姓名の数だけ、彼女の肉体にはべっとりと他者の穢れが染み込み、肉体までもが〝名無し〟になる。


 それはすなわち、彼女の肌に刻まれた穢れの染み込んだ他者の真名が彼女自身の魂を受け入れず、逆に拒絶反応を起こし、彼女自身の真名が迷子になるということだ。

 いくら神域の食べ物を口にさせて神気を肉体に宿させたところで、他者の真名が刻まれた部分は他者の所有物。

 真名を取り戻したところで、他者の真名が刻まれた肉体に彼女の真名は還れない。――魂は、肉体に還れない。


 結局、神域の強制力によって春宮家から竜胆が奪えたものは、彼女の純粋無垢な精神と、拒絶反応を起こし彼女の肉体を蝕む呪詛の痕のせいで〝名無し〟となってしまっていた彼女の肉体だけ。

 竜胆は彼女を神域に隠した時点で、彼女の真名を剥奪した者の卑劣な罠にかかっていたというわけだ。


 もし今回の件で一命を取り留めたとしても、神域で彼女に真名を口にさせようとするたびに、肌に刻まれた呪詛の痕が穢れを帯び、彼女を苦しめ命を蝕んでいくだろう。

 それを止めたくば、彼女の真名ひいては魂をを捨て置けと――。

 冗談じゃない。

 彼女に真名と魂を、――彼女本来の運命を生きる権利を返せ。

 ふつふつと募る怒りが瘴気に変わり、竜胆の青い双眸の色を次第に赤く鮮やかに染め上げていく。


 鈴は堕ちていく神様を息も絶え絶えに見つめながら、自分の命の終焉を悟った。


(きっと私を助けようとして穢れに触れすぎたせいで……竜胆様の穢れも、深刻化してしまったんだ)


 竜胆の唇に触れられた傷痕から灼熱の痛みが引いていくを感じるたびに、彼への心配が増していた。

 左手の甲から今朝方の呪詛破りの痕跡が消え、左腕に残された過去の傷が癒えていくたびに、『これ以上は触れないでほしい』と泣きながら懇願したくて仕方がなかった。


(けれど、苦しさのあまり声が出なくて)

「……はあっ、……はあっ、…………ふうう……っ」

(もう、消えていなくなりたい)


 身体の隅々まで刻まれている灼熱の穢れを帯びた傷痕が、彼に見つかってしまう前に。

 初めて心から名前を呼んでほしいと願った彼を、自分のせいで歴史書に名を残したような堕ち神にしてしまう前に。

 願わくば、生贄としての存在価値を与えてくれたまま…………終わらせてほしい。


「……あと少しだ。もうすぐ終わる。だから、堪えてくれ――!」

(竜胆様の瞳、青と赤が混じって、とっても綺麗……)


 見たことのない色をしている。まるで宝石みたいだ。


「り、んどう……さま……」


 宵闇と朝焼けのあわいを見つめながら、鈴はもう、彼に諦めてほしくて懸命に微笑む。

 そうして最後の力を振り絞って、竜胆の頬に手を添えた。


「…………お会い、できて……っ、……よかっ、た…………」


 つかの間の、泡沫のような幸せだった。


(どうか、この命が、竜胆様のお役に立ちますように)


 儚く微笑んだ鈴の瞳から、あたたかい涙がひと雫、頬を伝った。




 ぱたり、と彼女の手が力なく落ちる。

 頬にひと筋の涙の跡を残したまま、瞼を閉じた彼女は意識を失っていた。


「……諦めるな、待ってくれ。…………俺はまだ、君の名前すら知らないんだ……!」


 竜胆は力尽きた鈴を両腕で抱え込み、慟哭どうこくをなんとか押し殺した表情で懸命に呼びかける。

 異常な高熱が引かない身体。いまだに燻る、皮膚が焼き爛れたような匂い。

 膨大な神気を流し込んだことで左手の甲から腕に続いていた数多の真名は消えたのに、彼女を苦しめる症状は変わらない。


 自らの命を捧げるかのごとく眠るように意識を失った彼女は、俺が完全な堕ち神にならないために彼女の生き血をすするとでも思っているのだろうか?

 あり得ない。

 彼女の生き血を啜るくらいなら、完全なる堕ち神になることさえいとわない覚悟だ。

 だが。


「また俺は、君を失うのか……っ」


 彼女を失う覚悟なんか、あるわけがない。

 竜胆は再び暗闇が続く絶望の深淵に落とされた気がした。

 ………………しかし。絶望がなんだと言うのだろう?

 今までだって十四年間、暗闇の中にいた。深淵で生きるのには慣れている。


 けれども、彼女は?

 もしも、あの日から……真名を奪われるだけでなく、酷い苦しみや灼熱の痛みになぶられながら、十四年間を生きてきたのだとしたら……。


 溢れ出す紫色の瘴気に包まれた竜胆はゆうらりと立ち上がりながら、鈴の膝の裏に片腕を回すと一等大切な宝物のように抱き上げる。

 もう二度と、君の運命を奪う愚かな春宮家の者たちの好きにはさせない。


「……君は俺のものだ。俺から片時も離れることは許さない。――こうして、命を諦めることさえも」


 長い睫毛に縁取られている朝焼けの双眸は、鈴をまっすぐに見つめたままうっとりと細められる。

 壮絶な瘴気をまとった堕ち神は、一歩、また一歩と箱庭を歩きだした。


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