第15話 歓喜と怒り


 彼女の真名が何者かに奪われているのは、彼女に会う幾年も前から知っていた。

 政府に定められた十二の神々を縛り付ける法律により、彼女を見つけ出すために動くこともできず、手助けも許されなかった十数年が、どれほど竜胆にとって悔しく、惨めで、怒りに満ちたものだっただろうか。

 それがようやく、やっと彼女を探して手を伸ばしても良い機会が訪れたのだ。

 この日をどれほど待ち望んでいたか、竜胆に黒く渦巻く胸の内など誰にもわかるまい。

 竜胆は自分の不甲斐なさを感じて、ぐっと奥歯を噛みしめる。


「……はっ、……はっ、…………うう……っ」

「ゆっくり息を吸うんだ。……君を、必ず助ける。だから安心して、息をしてくれ」


 苦しげに呼吸をする鈴を支えながら、竜胆はすぐさま思考を巡らせる。

 理論上はなにも問題などなかったはずだ。

 真名を他者によって剥奪されることは、魂を他者に掴まれていることと同義。だが、その何者からか彼女自身を奪い、無理やりにでも自分の神域に隠してしまえば……。

 彼女の肉体と精神に結びつけられた魂は、神域による影響――〝神隠し〟をした対象の三位一体を神域の主が所有できるという箱庭の強制力のもとに、現世から完全に隔離され、いかなる形であろうが神域の主である竜胆のものになる。

 それは神々が生き神となった昔から永久不変の、絶対的な法則である。

 だからこそ竜胆はそれに則り、何者かに真名を奪われた状態の彼女の肉体と精神を、強引に神域へ隠す決断をした。


 彼女の魂の所有権が竜胆に移りさえすれば、同時に真名を取り戻すことが可能になる。

 けれども一抹の懸念を抱き、彼女の身を案じた竜胆は、さらに徹底的に保険をかけることにした。

 彼女が真名を奪われる以外に、なにかしらの呪術や呪詛による影響のせいで箱庭の強制力を受けにくくなっているかもしれない状況を危惧して、あらかじめ神域の食べ物を肉体に摂取させることで彼女自身に〈青龍〉の神気を宿させ、ただの人の子ではなくさせたのだ。


 つまり竜胆は、竜胆の神域に流れる濃厚な神気をってして強制的に真名を奪い返すという、神格の高い神にしかできない理論を組み立て実践したことになる。

 実際、竜胆は『数百年に一度生まれるかどうか』と称えられるほどの莫大な神気をその身に宿している。

 現存する十二の神々の中では最高峰・・・の神気と強力な異能を持つ、神格の高い〈青龍〉――それが狭霧竜胆という青年だった。


 しかし、それらの計画的な行為に、彼女へ対する所有欲や征服欲がまったく掻きたてられなかったわけではない。

 むしろ抑えきれないほどの独占欲が腹の中で渦巻き、飢餓状態だった己の喉が少しずつ潤っていく感覚に歓喜しさえした。

 ただの金平糖だと思っているのか怪しむ様子もなく、はにかむように顔を綻ばせる彼女のなんと純粋なことだろう。神域内に忽然と現れた食事が、現世のものであるはずがないのに。

 彼女から感じられ始めた自分の神気に、つい小さく口角が上がってしまうのを堪えるのが難しかったほどだ。


 無垢な反応とは対照的に、紅茶を異常なほどの慎重さでこくりと嚥下する白い喉の動きに、ふと、なにか見落としているような違和感を覚えるまでは、彼女さえ見つけられれば人の子に奪われた真名を奪い返すなど簡単なことだと信じていた。

 ……そう、信じて疑わなかっただけに、この状況は想定外だった。


 腕に抱えていた鈴を見つめていた竜胆は、ぐっと眉根を寄せる。

 このままでは呼吸困難に陥り、命の危機に瀕するだろう。

 事態は急を要する。

 今は、なによりも彼女の命が優先だ。


「……すまない。少しだけ我慢してほしい」

 竜胆はそう告げるやいなや、はくはくと苦しそうに呼吸を繰り返す鈴の左手の甲へ、そっと唇を寄せた。

「…………あ……っ!」


 突然の行為に驚いた彼女の双眸は限界まで見開かれ、じわじわと涙の膜が張る。

 ――彼女を大切にしたかった。だからこそ、こんな状況で彼女の肌に触れる気はなかった。

 しかし、一度に膨大な神気を流し呪詛の穢れを取り祓う最も効率的な方法が、今はこれしか思いつかない。


 酷い痛みと苦しさ、それから竜胆には隠していたかった穢れた醜い痕への急な口づけに戸惑った鈴は、「……やっ、やめて、ください……っ、竜胆、様…………」と声を振り絞る。

 神様を呪詛の穢れに触れさせるなど、教養のある巫女見習いならさせない行為だ。


(なのに、長いあいだに渡って自分に刻まれ続けてきた呪詛を、あろうことか自分を選んでくれた大切な神様に唇で触れさせるなんて)


 どれほどの穢れが、鈴から竜胆へ移ってしまうかわからない。

 穢れは神の寿命を縮める。

 すでに堕ち神と呼ばれている彼なら、なおさら影響があるはずだ。

 混乱しきった鈴は、心がいっぱいいっぱいになって堪え切れなくなり、ぽろぽろと大粒の涙を零す。


 長い睫毛に縁取られた黒く大きな瞳が溶けてしまいそうなほどに涙を浮かべながら、はらはらと儚く涙する鈴を見て、怖がらせてしまったか、と竜胆は罪の意識に苛まれた。


「拒絶の言葉なら後からいくらでも聞く。だから、今だけは我慢してくれ」


 彼女を少しでも安心させようとさらに強く抱きしめる。

 左手の甲から続くように左腕に刻まれた呪詛の痕へと毒を吸い出すように唇を這わせながら、竜胆は胸が潰れるような思いがした。

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