第14話 愚かな人間

 震えを止めようとするが、身体が言うことを聞かない。

 さあっと全身から血の気が引いていくのを感じながら、鈴は「私の、真名、は」と再び声に出す。


(……あ、あれ……?)


 声が、出にくい。


(ここは神域だから、現世とは切り離された竜胆様だけの箱庭だから、お祖父様たちに奪われた真名を口にすることだってできると思ったのに)


 先ほどだって、紅茶や金平糖の味を感じたのだ。鈴はそう信じて疑っていなかった。

 それはきっと竜胆もなのだろう。

 彼には『巫女選定の儀』の最中、鈴が大罪人として真名を奪われた〝名無し〟であると、日菜子が告げている。霊力がない無能で、巫女見習いではなくただの使用人であることも。


「……大丈夫だ。ゆっくり深呼吸して、落ち着いたら紅茶を飲むといい」

「は、はい」


 鈴は深呼吸を繰り返して、いったん落ち着こうと努力する。

 それから引きつった喉を紅茶でゆっくりと潤した。

 喉を通った甘味が、優しく労わるように食道を通って、すっと胃に落ちていく。

 かろん、かろん、と金平糖がぶつかり合うティーカップを傾け紅茶を飲むたびに、意識がふわふわとして不安が優しく溶けていった。

 鈴を雁字搦めにしていた鎖がするすると解けていく感覚に身を任せるだけで、心があたたかく満たされていく。

 こんなに心が満たされた経験はなかった。

 するとどうだろう。


(……私も、竜胆様に名前を呼んでほしい)


 そんな淡い願いが、鈴の胸に芽生えてしまった。

 名前を忘れてしまったら最後。きっと、取り戻したいとも思わなくなる。

 そして鈴は、本当の意味で〝無能な名無し〟になってしまうのだ。


 だからこそ――。

 ――ずっと、誰かに自分の名前を呼んでほしかった。

 ――誰でもいいから、忘れないでほしかった。

 ――会えなくてもいいから、覚えていてほしかった。

 ――伝えたかった。私が、私自身の名前を忘れる前に。

 けれど今は、誰か・・ではダメだ――。


 堕ち神である彼の生贄とはいえ、神とともに人生を歩む〈青龍の番様〉に選ばれた少女としては小さすぎる願いだ。

 けれども、霊力もないただの人の子が神々に望んではいけない、傲慢な願いとも言えた。


(それでも)


 鈴はともすれば溢れそうになる涙をこらえながら、ティーカップを持つ手を握り締める。


(それでも、竜胆様にだけは、伝えたい……っ!)


 鈴は勇気を振り絞り、ソファから少しだけ身を乗り出すと「私は」と意を決して口にした。


「私は、春宮――――っ、ゔっ、あああぁ……!」

「……っ、大丈夫か!?」


 鈴が家名を声に出した瞬間、全身が炎に炙られて燃えているかのように痛みだす。

 ガシャン! っとティーカップとソーサーが割れる音が響いた時には、カップに残っていた紅茶が飛び散り、ばしゃりと鈴の左手にかかっていた。


 慌てた竜胆は酷い形相で急いで鈴の隣へ駆け寄り、鈴を抱き起す。

 そして彼女の異常すぎる体温に目を見張って驚いた彼は、皮膚が焼け焦げて爛れたような異臭に気がついた。

 ぬるくなった紅茶が染み込んだ鈴の左手に巻かれた包帯を、荒い手つきで解いてく。


「――な、んだ、これは」


 彼女の左手の甲には、【夏宮旭】という文字が深く刻まれていた。

 高温の炎で炙られたか焼きごてでも当てられたかのような火傷跡は、まだ新しいのか爛れ、血が滲んでいる。

 竜胆は微かに触れるか触れないかの指先で文字をなぞり、その傷に似た痕跡がアイボリーのセーラー服が包む腕にも続いているのを見つけて、急いで制服の袖を捲り上げた。


「……ありえない」


 それはにわかには信じがたい光景だった。

 ぽきりと折れてしまいそうな儚い彼女の腕には、数え切れないほどの人の子の姓名が、赤黒く爛れた傷となって刻まれているではないか。


「呪詛の痕か……?」


 それにしては酷いものだった。

 肌に真名を残す呪詛など、聞いたこともない。

 しかも彼女を散々いたぶり傷つけた挙句、あまつさえ〈青龍の番様おれのもの〉を穢し、他者の真名を刻むなんて――!

 激しい怒りが、竜胆の胸を仄暗く支配する。


 ……許せない。許してなるものか。

 愚かな人間風情が…………完膚なきまで復讐してやる。


 神気は瘴気に転じ始め、溢れ出したそれによって、ふわりと彼の黒髪を浮かせた。


(……っ、竜胆様……)


 あまりにも凍てついた竜胆の双眸と、溢れ出る異能の冷気を感じ取った鈴は、彼を怒らせてしまったのだと思った。


(きっと、私の肌に刻まれた呪詛の跡が、見るに耐えない穢らわしさをしているせいだ)


 せっかく生贄に選んだ者が、傷物だったらどんな神様だってがっかりするだろう。

 しかもこんなに呪詛にまみれて、穢れているなんて。

 鈴は痛みに震えて言うことを聞かない右手を必死で動かして、一生懸命に、左手の甲を彼の視線から隠す。

 隠したところで、なくならない。

 きっといつかは見つかっていたかもしれない傷だ。

 だが、竜胆にこんな肌を見せてしまったことが、鈴にとっては悲しくて、恥ずかしくて、いてもたってもいられなかった。


「はあ、はあ……っ、竜胆、さま……申し訳ありま、せん……っ。お、っ、お見苦しい、ものを……、見せてしまい……っ」

「いい、喋るな。無理に動くと身体に障る」


 ひゅう、ひゅう、と彼女の喉が過分に酸素を取り込もうとしているのがわかる。

 急激に荒くなっていく鈴の呼吸を聞き、眉根を寄せた竜胆は「くそっ」と小さく悪態を吐く。

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