第13話 真名を問う

(わっ、金平糖だ)


 その砂糖菓子の可愛らしい見た目と色合いに、鈴の頬が淡く上気する。

 金平糖を最後に口にしたのは、いつの頃だったか。


(どこかの神社で、初めて口にして、甘くて、それで――)


 記憶にあるのは、幼い頃に手のひらに乗せられた三粒の金平糖と、初めての甘さに感動した瞬間だけ。

 心には『またあの感動に出会えるかもしれない』という期待感と、『神様の前なのだから遠慮しなくちゃ』という気持ちが鬩ぎ合う中、


「お砂糖は、えっと、ひとつ……で」


 もじもじとしつつ、鈴はそう伝えた。


(どんな味がするのかな? でも、わからないかもしれないから、少し申し訳ない気もする)


 自身の紅茶の好みなんて、ちゃんと味わって飲んだ経験がないからわからない。

 鈴が知っているのは紅茶の正しい淹れ方だけだ。しかし使用人科の座学であらゆる茶葉の種類や味を学び、実践練習をしたのも今は遠い昔。

 それ以来、〝名無し〟として水しか飲むことが許されてこなかった。

 それも、春宮家から送られてきた瓶入りの浄化水のみ。

 食事は蔑ろにされていたのに、飲み水だけは徹底して厳しく管理されていたものだ。


 大罪人を清めるためだろうか。

 それとも、飲み水くらいは援助してやろうという、祖父たちの唯一の優しさだったのだろうか。

 もしかするとただ単に、巫女見習いとして優秀な日菜子のそばに置く使用人が呪詛やらなんやらで穢れていては、日菜子に支障が出るからそれを防ぐため……だったのかもしれない。


 けれども使用人としての給料もお小遣いも出ない鈴にとって、確かに確保されている飲料水は『生命線』とも呼べるものだったので、理由はなんであれありがたかった。

 だが紅茶の味以前に、毒味のしすぎで鈴の舌は味覚がない。

 せっかくの紅茶も金平糖も、台無しにしてしまう可能性の方が高い。


 ケーキなんてもってのほかだ。

 春宮家で日菜子の祝い事がある時だけ、無理やり彼女の隣に着席させられて空の皿が配膳されてきたせいで、幼い頃からついケーキへの憧れを抱いてしまっていたが……。

 いざ目の前に繊細な生クリームのデコレーション、そして旬を迎えている艶やかな大粒の苺の乗っているケーキを出されると、味覚のない自分には大それたものに見えて、恐縮するしかなかった。


「さあ、お茶にしようか」


 彼はシュガーポットから水色と青色、そして紫色の三粒の金平糖を取って鈴のティーカップへ落とすと、彼は指を揃えた手で『どうぞ』という仕草をして、鈴へ紅茶を勧める。


「い、いただきます」

(ひとつと伝えたのに、金平糖、三つも)


 もしかして、欲しそうにしていたのがバレたのだろうか。

 鈴は恥じらうも、つい嬉しくなってしまって、手に取ったティーカップの中を覗き込んだ。

 そうして紅茶に映った自分自身の顔が記憶にあるどの顔よりも明るく穏やかなのに気がつき、現実へと引き戻される。


(……なにかを口にするのは怖い。それが日菜子様の前でなくても)


 けれどここは、青龍様に守られた神域。

 毒味をする皿のように呪詛を示す黒い靄も漂っていないのだから、苦しめられる心配もしなくていい。

 ここには老いも病も、穢れもないはずだ。

 鈴は意を決して、こくりとひとくち、嚥下する。


「…………あっ、あ……っ。……美味しい……っ!」


 食べ物を『美味しい』と思う感覚はとうに失われていたはずだ。なのに、こんなに美味しいと感じるのはどうしてだろう。

 舌の上にじんわりと広がる優しい甘さと爽やかな香り、乾いた喉を潤す上品な渋み。それらが、鈴の胸をあたたかくする。


 青龍様の神域にいるからだろうか。

 神世とも現世とも完全に遮断された神の箱庭では、なにが起きてもおかしくない。

 鈴は、自分に絡みついていたたくさんの鎖から、少しだけ解き放たれたような気がした。

 それは完全ではなくて、もちろんまだまだ残っているのだけれど、〝春宮鈴〟という自分の一部が還ってきたかのような感覚というのだろうか。


(すごい、ちゃんと味がする……っ。美味しい……っ!)


 それだけで涙が溢れそうになる。

 鈴はぐっとこらえて、もうひとくち、さらにひとくちと紅茶を飲んで、「美味しいです」と青龍様へ微笑んだ。


「それは良かった」


 考え込むようにして嚥下する喉を無表情で眺めていた彼は、我に返ったように微笑みを浮かべる。


「そういえば、自己紹介がまだだったな。現世では真名を口にすることがないから、失念していた」


 彼は自分のティーカップには金平糖を入れずにストレートで口をつけると、静かにティーカップとソーサーをローテーブルに戻した。


狭霧さぎり竜胆りんどうだ」

「狭霧、竜胆様……」

(綺麗なお名前……)


 鈴は彼の真名を聞き、彼の異能で創られた青い世界を思い出す。

 氷の粒がきらきらと輝く世界の中心で、堂々と立つ彼の凛とした姿に竜胆という青紫色の花の名前はよく似合う。まさに青龍様のイメージにぴったりな真名だと思った。


「畏まらずに、ぜひ竜胆と」

「そ、そんな、青龍様を気軽にお呼びすることはできませんっ」

「ここは現世ではないから、誰に遠慮することもない。――君にだけは、俺の名前を呼んでほしい」


 切実な声音で言われて、鈴は「うっ」と言葉を詰まらせる。


「……そ……それでは、その、竜胆様とお呼びしてもいいですか……?」

「ああ。そうしてくれ」


 無表情にも見える顔にわずかに喜びを浮かべた彼は、「次は君の番だ」と言う。


「〝十二神将がひとり〈青龍〉として、君の真名を問いたい〟」

「私の、真名は……」


 紅茶に溶けきっていない金平糖が、かろん、かろん、と涼しげな音を立てている。

 無意識に、ティーカップを持つ鈴の手は震えていた。


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