第11話 初めての願い

 江戸時代末期頃からは演劇や小説の題材にもされ、現代では内容をぼかして子供向けの可愛らしい絵と物語が付けられて、巫女に憧れる子供たちへの教訓を教える絵本にもなっている。

 物語では、【堕ち神様の神隠しにあった番様は、光を帯びた硝子の欠片になって砕け散り、天に昇っていきました】というのが一番多い結末だ。


 しかし現実はそうではない。

 堕ち神の〝神隠し〟にあっていた番様は、白骨化していたというのが真相である。


(神域に隠れた堕ち神を討伐して代替わりさせるために、神域を他の神々たちが強制解除したせいで、本来経過するはずだった時間が一気にその女性の肉体に刻まれたことによる自然現象だって、授業では習ったけれど……)


 つまり今、鈴が〝神隠し〟にあっているこの空間は、時間の流れが完全に止められた異界というわけだ。


「この邸は君のために俺が用意した」

「わ、私の、ために?」

「ああ。ふたりだけの、邸だ。誰にも邪魔されることなく、君を奪うことができる」

「え……っ?」

「早速だが、邸内を案内しよう」


 彼の微笑みには、堕ち神を象徴するような禍々しさはない。

 日菜子が鈴に向けるような悪意に満ちた視線も向けられず、害意も感じられない。

 現世と神世の境に詳しい巫女見習いたちの噂話では、『冷酷無慈悲な人嫌い』と称されていたが、鈴に対しては普通のようだ。

 それどころか、ただただ甘く艶やかで、鈴にとっては過ぎた好意を向けられているように思える。


(けれど。なんとなく背筋が凍って、胸の奥で底冷えがするみたいな気持ちになるのは、青龍様のことをよく知らないから……なのかな)


 巫女見習いの生徒から、『堕ち神様』と呼ばれていた青龍様のことを怖いと思っているのではない。生贄であろうと自分を選んでくれたことに、鈴は感謝すらしているのだ。

 だからこそ、こんな風に過剰な好意を向けられた経験がない鈴にとって、底知れぬ感情に緊張してしまうのは当然のことで――。

 と、ここで、鈴はまだ自分が青龍様に抱き上げられたままの体制だったことに気が付いた。


(だ、だからこんなに青龍様のお顔が近かったんだ……っ!)


 どうりで彼の低く甘い声が鼓膜を溶かそうとするし、向けられる視線にタジタジになってしまうわけである。


「あ、あの、そろそろ自分で歩きます! 長時間すみませんでした、青龍様に運んでいただくなんて……。すぐに降ろしていただけたら、と」


 鈴があたふたと申し出ると、微笑みを浮かべていた彼は途端に無表情になった。


「降ろす? 君を? どうして?」

「ど、どうして? このような行為は、青龍様に対して大変失礼に当たりますので」


 気に障ることを言ってしまったのだろうか。彼の青い瞳に仄暗い影が落ちる。


「せっかく奪ってきた君を、俺に手放せと?」

「い、いえ、そうではなく……!」


 優しげに見える微笑みには先ほどの甘さはなく、伽藍堂がらんどうに見える。


(や、やっぱり気に障ることを言ってしまったのかも)


 鈴は「えっと、そのっ」と言葉に詰まった挙句、ふるふると首を振る。


「あのっ、重いでしょうし……」

「君は軽すぎるくらいだ。もっと食べた方がいい」


 そう断言されて、鈴は少しばかり羞恥心を覚える。

 長い間、無能な名無しの使用人として、満足な食事を摂れない環境下で生きていた。生贄としては不十分なくらいに栄養不足で、ポキリと折れそうな身体しか持ち合わせていない自覚はある。


(堕ち神様が穢れを祓うために必要とされる血液だって、無能な私に流れているただの血液でいいのかな? 霊力も流れていないのに、青龍様の期待に応えられないかもしれない)


 そんな自分が青龍様の腕に抱き上げられているなんて、やっぱりおこがましい。


(私が本当に彼の番様なのだとしたら、慎ましく、青龍様の後ろを歩いていたい)


 鈴は両手をきゅっと握り締め、自信なさげならがらも彼を上目遣いに見上げる。


「あ、歩かせてほしいのです。その、人の子である私が、青龍様の神域を歩くことを許していただけるのなら……なのですが」

「………………」

「お願いです、青龍様」

「………………片時も離さないつもりでいたんだが、君から初めて乞われる願いだ。無下にはしたくない」


 ぎゅっと眉根を寄せて不服そうな表情をした青龍様は、鈴を自らの神域に降ろす。

 かわりに彼は鈴の手をそっと握り、口角を上げるだけの悪戯な笑みを浮かべると、優しく指先を絡めて「行こうか」と鈴とともに歩き出した。


 鈴は少し速い彼の歩幅について行きながら、黒革の手袋に包まれた彼の冷たい指先から伝わってくる温度に、再び頬が熱くなるのを感じる。

 誰かと手を繋いで歩くのは初めてだ。

 鈴の人生において、誰も、鈴の手を引いてくれる人はいなかった。


(青龍様の手は、他人に触れるのを拒絶していると示す真っ黒な革の手袋に覆われていて……。お互いに歩く歩幅も速さもまったく違って、ちぐはぐなのに)


 どうしてだろう。世界で一番大切にされているかのような錯覚に陥ってしまう。


(手を繋ぐのって、こんな気持ちになるんだ)


 心臓がドキドキする。

 指先から彼にそのドキドキが伝わらないか、心配してしまうくらいに。


(白骨化していた番様は、自分を選んでくれたたったひとりの神様と一緒に過ごせて、幸せだったのかな?)


 鈴の脳裏では、真っ白になった髑髏しゃれこうべを大切そうに胸に抱いた青龍様が、先ほど鈴に向けたのと同じように、この世の僥倖をすべて噛み締めたと言わんばかりの表情で、とろけんばかりの微笑を浮かべている。


 巫女見習いではない鈴が参加できた授業では、十二の神々について学ぶことは多くなかったが、彼が言った通り、今から鈴のすべてを『奪う』というのなら、この場所は最適に思えた。

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