第2章 青龍様の神隠し
第10話 神域という箱庭
立ち並ぶいくつもの鳥居をくぐり、鈴を抱き上げていた彼が煌めきを帯びた『百花の滝』へ足を踏み入れた時。
(う……っ。……びしょ濡れに、ならない?)
鈴が予想していた滝壺の落水のしぶきと水圧は訪れず、ただ澄み渡るような清涼な冷たさに身体が包まれたのみだった。
それが、先ほど日菜子から向けられた業火に焼かれて恐怖で震え出しそうだった鈴の心を、静かに穏やかにさせていく。
滝の落水に備えてぎゅっと目を瞑っていた鈴は、ゆるゆると瞼を上げる。
(……あれ?)
そして目の前に広がった光景に対し、ふと言語化できない違和感を覚えた。
(夕方になってる?)
『巫女選定の儀』は一限目に当たる時刻に行われていた。あれからどんなに時間が過ぎ去っていようと、まだ正午頃のはずだ。
しかし空は一面、黄昏時と呼べる色合いに染まっている。
その上、背後にあるはずの『百花の滝』もまったく見当たらなくなっている。
かと言って無音ではない。
(ざあざあと滝が流れている音は聞こえてくる)
異様なほどに澄んでいる空気の中、川のせせらぎや滝の音、高らかに響く鳥の声、それから春と夕暮れの混じり合った心地よい風と匂いがしていて――。
(ここが神世にある神城学園の敷地内? だとしたら『百花の泉』があるはず)
鈴が持つ、使用人科の生徒たちも参加できる授業で習った最低限の神世の知識によると、『百花の滝』の向こう側は神世に繋がっていたはずだ。それも神城学園にある、巫女見習いたちの祈りによって捧げられた霊力の花が咲き誇る『百花の泉』と。
けれども鈴の視界に映るのは、幼稚舎から大学までを内包する広大な神城学園らしき建築物ではなく、龍神が昇る厳粛な緋色の鳥居。
その鳥居の向こう側に広がるのは、神社本殿の屋根造りの様式と同じ
(なんだろう、この建物。神城学園じゃなさそうだけど、神社でもなさそう?)
限りなく神社に近いその建物だが、
(まさか豪華なお
「あの、先ほどまで青龍様の前を歩かれていた神々の皆様はどちらへ……?」
鈴が疑問を口にすると、彼は長い睫毛に縁取られた双眸をやわらかく細める。
「彼らはここには入れない。今頃はきっと学園に戻ったはずだ」
「学園に?」
(ということは、やっぱりここは神城学園じゃないんだ)
だとしたら、ここはいったいどこなのだろう?
「……ああ、この日をどれほど待ちわびただろう。ようやく君をここへ招くことができた」
「えっ?」
異様なほど生き物の気配がしない不可思議な場所。
そこにただひとりだけ招かれたと知り、鈴は思わず心細いような気持ちになって顔を固まらせる。
しかし彼はこの世の僥倖をすべて噛み締めたと言わんばかりの表情で、蜂蜜を溶かしたみたいに甘く、けれど独占欲に満ちた瞳で微笑んだ。
「――ようこそ、俺の神域へ」
艶やかな色気をまとった彼に見つめられる。
神様への畏怖や戸惑いに似た羞恥心がごちゃ混ぜにせり上がってきて、鈴の喉はきゅうっと締めつけられて苦しくなった。
「神……域……?」
けれども〝神域〟という言葉に、一気に不安が増してしまう。
鈴がそう思うのも仕方がない。神域とは神世であり、許されざる者は入れぬ禁足地であるという認識が一般的だ。
神世は神々やその眷属たちによって現世のどこかに創られた、結界内にある特別自治区。政府の行政機関のひとつである神代庁の管轄下にある、鈴の住まう日本となんら変わりのない物質世界である。
だが、
それは――神の創った〝箱庭〟だ。
彼自身の神力で創造された非物質世界と言うのだろうか。すべては幻想であり、彼の想い描く
神がその名において治める絶対的な領域には、
そこには老いも、病も、穢れもないとか。
そのかわりに……――彼の神の許しがない限り、永久に閉じ込められ続けることもあるという。
大切な親類縁者や友人にも会えず、人の子の一生という時間を遙かに超えた悠久の時を、永遠に。
このような神の創った箱庭に招かれる現象を、人の子は〝神隠し〟と呼ぶ。
〝神隠し〟という現象は、平安時代くらいから稀に起こっているらしい。
日本には八百万の神々が存在し、神社という
と言っても、民間伝承や伝説といった噂話程度なので、今となっては本当に起きていたかは定かではないが。
しかし人の子と同じ肉体を持ち、生き神となった十二の神々が引き起こす〝神隠し〟は、その伝承の何倍も恐れられている。
なにせ、どれもこれもが真実である。
歴史書に名を残した堕ち神の神域で、女性の遺体が見つかったというのはあまりにも有名な話だ。
女性は堕ち神の番様だった。
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