第7話 日菜子の怒り
それは周囲の誰が見てもわかるほど、甘く優しい微笑みだった。
一部始終を見ていた巫女見習いたちはそれが神々への不敬に当たるなど忘れて、「そんな!?」「嘘よっ!」と口々に叫び出す。
人垣の中でうつむき続ける鈴の前に彼が立つ。
すると周囲にいた使用人科の生徒たちは、混乱した様子ながらも、彼のために道を開けるようにして左右に割れた。
(どうしたんだろう?)
周囲のざわめきでようやく顔を少し上げた鈴は、――自分の目の前に立つ美しい神の姿に、言葉もなく息をのんだ。
(……えっ!?)
まるで、長年恋い焦がれていた少女をようやく見つけたと言わんばかりにとろけた色を帯びた青い瞳と、視線が交じりあう。
彼は鈴の手を優しく取ると、神々しか歩くことの許されていない神聖な石畳の上に鈴を強引に引き寄せた。
「ひゃっ」
あまりの突然な出来事に、思わず唇から驚きの声が零れてしまう。
たたらを踏みそうになった鈴を彼は力強い腕で支えると、その勢いのままに胸元で抱きとめる。
今は軍服のような制服に隠されている彼のほどよく鍛え上げられた肉体は、鈴が勢いをころせずにぶつかろうともびくともしない。それどころか、鈴の腰のあたりに回されていた彼の腕は、さらにぎゅっと鈴を抱きしめた。
「ああ、やっと見つけた。〈青龍の巫女〉……いや、俺の唯一の〝番〟」
「…………っ」
「今日から君は俺のものだ。これから先、俺から片時も離れることは許さない。いいな?」
甘く見つめられる中、低く耳触りの良い美声が鈴だけに語りかける。
だが鈴は大混乱の思考の渦の中にいた。
(あっ、え……っ? ど、どういうこと……っ?)
目の前の美しい神様は、どうやら自分のことを〈青龍の巫女〉であり、彼の〝番〟であると認識しているらしい。
極度の混乱と緊張に晒されて、鈴の心臓はこれ以上にないくらいドキドキしていた。
神々を招く場で、神々の許可なく発言をしてはいけない。それはこの百花女学院に通う生徒の中では周知の事実。『否』を唱えたくてもできずにいた鈴に、彼は「……まさか、喋れないのか?」と心配そうに眉根を寄せながらも、鈴の答えを欲しがった。
ドキドキと混乱のさなかにいた鈴は、ふるふると首を横に振る。喋れないわけじゃない。
「そ、その……」
「ん?」
甘い声音で問われて、頬が熱を持ってくる。
鈴の胸のドキドキは依然として激しいが、意を決して、美しい神様――十二神将は六人の吉将のひとり、〈青龍〉であろう彼に向かって真実を告げることにした。
「なにかの間違い、です。私は、巫女見習いでは……っ」
(だから、その、『いいな?』と有無を言わさぬ問いかけを投げかけられても、困ります……!)
なにせ鈴は日菜子のもので、霊力の欠片もない。『無能な名無し』と呼ばれるだけの、ただの使用人なのだ。
鈴の否定の言葉を聞いて、すかさず、「そうよ! なにかの間違いだわ……っ!!」と一際大きな抗議の声がどこからか上がった。
日菜子だ。
巫女見習いとして一等特別な場所で彼の背中を見つめたまま立ち竦んでいた日菜子は、いつもの高飛車な勢いを取り戻したらしい。
鈴が神域に招かれたことで、その道が神々にしか歩むことが許されていないのをすっかり忘れてしまっているのか。
日菜子はぴんと背筋を伸ばして、アイボリー色の制服のプリーツスカートを揺らしながら、肩で空気を切るようにして早歩きで美しい神様の数メートル近くまでやって来る。
「尊き四季幸いをもたらされし十二の神々がひとり、青龍様。先ほどの非礼をお詫びいたしますわ」
そうして堂々とした面持ちでカーテシーを披露し、彼の前で非礼を詫びて見せた。
神に呼ばれたわけでもない巫女見習いによるカーテシーは、社交場でもないこの場において不釣り合いな挨拶だ。
だが、春宮家という上流階級の令嬢の完璧な所作に、女子生徒たちは神々への不敬を批難するのも忘れて目を奪われるしかなかった。
「青龍様。どうかこの巫女見習いの、差し出がましいお申し出をお許しくださいませ」
「……なんだ」
日菜子の言葉に、彼は鈴へ向けた声音とは到底似つかないほどの冷たい声で応じる。
しかし日菜子は動じず、凛とした面持ちで淑女然として、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「彼女の言う通り、彼女は巫女見習いでありませんわ。春宮家を代表する巫女見習いである私の、使用人でございます」
「……そうか」
「そ、それに幼少期にすでに大罪を犯したため、当主に真名を剥奪された『名無し』ですわ!」
「…………それで?」
「そっ、それで? それでもなにも!」
彼の短くそっけない返答に、日菜子は余裕のある笑みから一転、切羽詰まった形相をする。そして。
「霊力の欠片もない無能な使用人を、どうしてお選びになるのでしょう!? 『百花の泉』から春宮家の霊力を感じ取られたのでしたら、それは……それは私のものですわッ!!!!」
肩を怒らせながら、日菜子はとうとう言い切った。
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