第8話 日菜子の嫉妬


 その瞬間、鈴は頭から冷水を浴びせられたかのように、背筋がさっと冷たくなった気がした。


(日菜子様は間違ったことなんて言ってない。全部、日菜子様の言う通り)


 そう、ずっと理解していたはずなのに。


(私は、青龍様に側にいることを望まれるような価値がある人間じゃない。――間違えられたんだ、日菜子様と)


 何者でもない自分に、間違えて手をのばしてしまった美しい神様のぬくもりを感じる腕の中で、鈴はとっさにうつむく。

 心の奥底で小さく膝を抱えていたはずの自分が、緊張した面持ちで、『もしかしたら、本当に……?』なんて顔を上げているのを感じて、あまりのおこがましさに鈴は自身を恥じた。

 どんな状況下で間違えて判じられたのかはわからない。

 けれどこの状況は誰が見てもおかしい。

 青龍様が日菜子と鈴の存在を取り違えているのだと言われた方が、よほど納得できた。


「……っふ。くくく」


 彼はなにがおかしいのか、小さく吹き出すと笑いをこらえるようにして、軽く握った指先で口元を隠す。

 鈴は――ああ、やっぱり間違えられていたみたい、と思った。きっとそう思ったのは鈴だけでなかっただろう。


「わ、わかっていただけましたか? よかったですわ、青龍様の誤解が解けて! 無能な名無しは取るに足らない使用人。私こそが、あなた様のたったひとりの巫女であり番にふさわしいと、やっと誤解に気がついていただけたのですね……!!」


 日菜子はやっと美しい自分だけの神様に話が通じたことに安堵する。


「そこをどいてちょうだい、名無し。無能なあなたとは違って、私こそが、清らかな霊力を豊富に持つ巫女見習いだものね!」


 高飛車な笑みを浮かべた日菜子が、鈴に命令する。

 鈴が彼の側から退きさえすれば、今度は自分にその甘い微笑みと、こちらがとろけてしまいそうな焦がれた視線が視線が向けられるものだと、日菜子は信じて疑わなかった。

 しかし。


「誤解? 笑わせないでくれ」


 彼は底冷えがするような声で応じ、口角をあげる。

 初めて日菜子をその青い瞳に映した彼の美貌には、甘い微笑みなど欠片も浮かんでいなかった。

 途端に氷点下に下がった周囲の空気に触れて、思わず顔を上げた鈴は、足元から本当に氷が張り始めていることに気づいて驚く。


(これが青龍様の、異能)


 空気中の水分が凍り、きらきらと輝いている。感嘆のため息は、すぐに白くなった。

 すでに足元どころか講堂を覆い尽くしてしまった氷は、見るからに危険そうな尖った氷柱をいたるところに創り出しており、天井からは大小様々なつららが垂れ下がっている。

 一瞬で氷の青い洞窟と化した世界に、鈴は、なんて綺麗な世界なんだろうと魅入らずにはいられなかった。

 こんな状況下でもいまだに鈴を抱きしめたままの彼を、鈴は恐る恐る見上げる。


(まるで凍てついた冬の湖みたい)


 生気の宿っていない、美しい人形のような双眸。

 けれど鈴は、この抱き寄せられた距離からしか見えないだろう凍てついた冬の湖の奥深くを見て――はっと、目を見張る。


(もしかして、青龍様は怒ってるの?)


 だとしたら、なんのために。

 まさか、日菜子に鈴を侮辱されたからだと言うのだろうか?


(どうして見ず知らずの私のために、ここまで怒れるのだろう?)


 そう疑問を感じずにはいられなかった。

 そんな中、まだ神の怒りに触れたことに気がつかない日菜子は、急激な寒さに息を白くしながら両手を胸に抱きつつ、「あ、その、せ、青龍様?」とこの状況を作り出した神の名を呼ぶ。

 彼は無表情からさらに生気を削ぎ落としたような冷たい顔で、こてりと首を傾げた。


「あれがお前の霊力だと本気で言っているのか?」


 氷の青い世界を支配するかのような、底冷えのする声。


「その言葉に、嘘偽りはないな?」

「そ、それは……ッ!」


 さらには急激に禍々しさを帯び始めた神気の圧力に、ようやく彼の怒りを感じ取った日菜子は、恐怖で顔を強張らせる。

 一方、神の異能によって創造された世界に飲み込まれ、強すぎる禍々しい神気に当てられた多くの生徒や教師たちは、ガタガタと震え上がっていた。


【十二神将の中でも凶将は苛烈で激しい気性の神様が多く、吉将は穏やかで繊細な気質の神様が多い。】


 なんて、教科書に綴られた解説や授業で習った知識は当てにならない。

 神は、神だ。

 人の身で彼の神を直視するなど、正気の沙汰ではない。

 足元から崩れそうな畏怖を感じずにはいられないほど恐ろしいと、多くの生徒や教師が感じていた。

 しかもこの状況は、危険だ。

 禍々しい神気を感じられるだけの者もとっさにそう考えたが、目に視えている者たちはその紫から黒へと転じていく色合いに強い危機感を抱いていた。

 こんなに禍々しい色の神気が、はたして神気と言えるのだろうか? ――こんなのは、きっと瘴気だ。


「お、堕ち神よっ! か、彼が、彼が堕ち神様だわ……ッ!!」


 一年生の席から上がった悲鳴じみた声が、静かな氷の世界にこだまする。


(青龍様が、堕ち神様なの?)

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