第5話 不穏な空気2


 時を遡ること半日前。


 大神官様と分かれて書庫へ向かったマドカは、ありったけの知識を本と照らし合わせて残していく。

 ここは中世観の強い異世界だ。今のところ現代地球人のにわか知識でも役にたっている。マドカから見たら、長く受けてきた歴史教育の一頁に過ぎない事柄ばかり。

 しかし魔法や錬金術など別系統の文化もあるため、一概に地球より遅れているとも言い難い。

 なので未分な部分にのみ白羽の矢を立て、彼女は文字を習う傍ら、各種書物に多くの知識を添え書きした。

 今日で神殿ともお別れだ。なるべく多くを残していきたい。

 そう考えつつ、彼女はこれまでの経緯を振り返った。


 あの日、いきなり歪んだ空間。


 部活帰りのマドカは、薄暗い夕闇に紛れ、自転車のライトに浮かぶ妙な歪に気づかず、そのまま突っ込んでしまったのだ。


 悍ましい浮遊感と共に落下していく恐怖。乗っていた自転車が砕け、マドカ自身もミシっと圧力を感じた時。

 どこからともなく吹き込んできた風が彼女を守るようにまとわりついた。その柔らかな蒼い風に身を任せて落ちていく彼女は、緑に包まれた水平な大地を目にする。

 急速に近づいてくる広大な陸地。凄まじい勢いで落下していた彼女の耳に、微かな声が聞こえた。


 鈴を転がすような軽やかな声。


『へあっ?』


 一瞬のことで聞き逃しかかったマドカだが、落ちていく彼女を見送るように微笑む女性が空に垣間見え、その姿がみるみる遠ざかるのを眺めているうちに真っ暗な場所へ降ろされたのだ。


 ぼわんと光り輝く巨大な魔法陣。


 何が起きたのか分からない彼女が周囲を見渡すと、突然、大地を劈くような歓声が轟いた。


「成功したっ?! 聖女召喚に成功したあぁぁっ!」


 わああぁっとあがる怒涛の叫び。喜色満面な人々の言葉が理解出来たマドカは、その端々の単語を拾って凍りつくような絶望に襲われた。

 聖女、召喚、神官、神殿、王宮…… どれを取ってもマドカには歓迎出来ない状況なのが見て取れる。

 肩を叩き合って喜ぶ人々。他意も悪意もなさげだが、彼女にとっては誘拐犯に等しい痴れ者ら。


 ……は? なに笑ってんの? アンタら、アタシを拉致したんだよ? 地球から誘拐したんだよ? ああ、じゃあ、さっきの女性が女神様か。彼女は知っていたんだな。……だから、あんなことを。


 熱狂する多くの人間達と正反対に、マドカの心が渇いてゆく。まるで汐がひくかのようにスルスルと身の内の血流が冷たくなっていくのが自覚出来た。

 そんな彼女が辛辣な眼差しで広場を見渡すなか、マドカの視線は一人の男性に吸い寄せられる。

 なぜならその彼は、わあわあと歓声をあげる人々の中で、唯一顔を強張らせていたからだ。まるで有り得ないモノを見るかのように凍りつく青年の瞳。


 ……真っ当な感覚の人間もいるのね。


 彼はマドカに起きた事態を正しく把握しているのだろう。これが犯罪なのだと理解している数少ない人物に違いない。

 その彼女の予想を裏切らず、青年と大神官という人間のみがマドカに頭を下げて謝罪してくれた。心から真摯な謝罪。

 

 この人にならついていっても大丈夫かも?


 胡散臭い笑みでまとわりつく大勢を無視して、彼女はトリスターと名乗った王太子の手を取り、王宮へと招かれた。

 

 だが、そこで説明された散々な召喚理由。


 正直、怒鳴りつけてやりたい衝動に襲われたマドカだが、それは眼の前の王太子に対してではない。彼は真っ正直に説明してくれたし、今回の事態を心から悔いてもいた。コレ以上の責め苦を受けるべき人物ではない。

 大神官という人も、この王太子も、聖女召喚の儀式に最後まで反対したらしいが、強行したのは王宮だ。止められなかった責任はあれど、マドカには平謝りな彼を追及する気にはなれなかった。


『じゃあ、アタシがここで暮らしていけるよう取りはからってください。住み込みの仕事とか、王宮で働けるようにとか』


 うんざりした口調のマドカに、王太子は驚きつつも頷いてくれる。


『もちろんだ。私が後見人を務めよう。貴女の暮らしが立ちゆくように、よく学ばせ、仕事も側付きを用意する。……正直、働かなくても良いと言いたいところだが、そなたは多分、それを望むまい?』


 戸惑いがちに放たれた王太子の言葉。


 ……分かってんじゃん。馬鹿をやらかしたとは思うけど、悪い人ではなさそうね。


 軽く目を見張ったマドカが感じた、トリスターの第一印象。それが間違いでなかったことを、後に彼女は身をもって知る。


 王太子は時間を作ってはマドカを色々な所に案内してくれた。王宮内や城郭、自身の宮や庭園。街を散策したいといえば快く応じてくれ、共に市場を回ったりもした。


『この世界は、長く人間達と魔族が争っていてね。ほんの数年前に戦が終わったばかりなんだよ。その戦火の傷痕は未だに深く残っている。……それで、その……聖女召喚などという儀式まで行ってしまったのだ。荘厳な儀式の煌めく魔法陣を見るだけでも民の慰めになるかと思ってね』


 気落ちした顔で語る王太子。その結果が思わぬ事態を生み出してしまい、彼の心境は如何ばかりなモノか。察して余りあるマドカだった。


 しかし、現実というモノは常に予想の斜め上をいくものである。




『……も、無理ぃぃ』


 食卓に並ぶ、肉、肉、肉、肉。


 野菜など添え物程度にしかついておらず、パンや酒も硬かったり酒精の強いモノばかりだったり。未成年が口にすべき濃度でないのは確かで、水を所望すれば怪訝そうな顔をされる。


『水を直に? お腹を壊しますよ?』


 果実水というモノを手渡しながら、メイドらしき女性が端的な説明をした。


 生水ってヤツか。自覚あるんなら煮沸でもしたら良いでしょーがぁぁぁっ! このお酒、どう見ても蒸溜酒だよね? 水も蒸溜してよぉぉっ!


 どうやらこの世界は、あらゆる部分で偏っているらしい。聞けば平民らはエールを主に呑み、水も普通に飲んでいた。正直、井戸水なら天然の地下濾過で結構綺麗なものだ。

 けれど貴族達は平民と同じことをするのを嫌う。その結果が濃度の濃いお酒や果実水なのだろう。地球人、それも日本人には口に合わない事この上ない。

 

 肉に添えられた野菜を掻き集めて食事を済ませ、どうしたものかと考えたマドカは、王太子に城下町の市場を案内してもらったのだ。

 数多に並ぶ店や露天。そこで野菜や果物などをチェックし、これらが遠方から運ばれるため鮮度の維持が難しいことも教わる。

 新鮮な生野菜などは皆無に等しく、それらを食する文化もない。ほとんどの商品が穀物系や根菜中心。長持ちしない葉物は見当たらず、代わりに採取したばかりだという野草や薬草の中にハーブを見つけた。

 真剣にハーブを見つめるマドカを見て王太子は疑問顔だったが、薬草に興味があるならと、それ専門な店に案内してくれる。




『うわぁ……』


 店内の至る所に下げられた多くの薬草。テレビや漫画でしか見たことのないような小口引き出しが壁一面を覆い尽くし、棚にもギッシリと置かれた薬草や種子。

 それらの説明文を王太子に読んでもらっているうちに、マドカは幾つかの植物に興味を持つ。


『貧民の果実……? 赤くて少し渋く酸っぱい……』


『ああ、これは似たような果実に紫のモノがあってね。そちらは毒なんだ。毒も薄めれば薬になったりするんで、これにも薬効があるんじゃないかと考えられているよ。……戦でね。飢えた民らが毒でも良いからお腹一杯食べたいと食べて死ななかったから発見された植物だ。それで付いた名前がコレさ』


 待てよ、どっかで聞いたことあるぞ? あれだ、トマトの原種にまつわる四方山噺。同じ、人類の築いた文明だ。似たような経路を辿ることもあるだろう。


 はっと顔をあげてマドカが店内を見渡すと、下がっている植物や棚にも見たことあるようなモノがチラホラあった。


 アレって干した人参だよね? あっちのトゲトゲした種は法蓮草なんじゃ? コレも二十日大根の種に似てるっ! たしか、料理のスープに大豆っぽい豆も入っていたし、もやしや豆苗作れるじゃん? 枝豆まで成長させても良いし、わあああ、食生活も何とかなりそうぅぅ!


 召喚時、部活帰りだったマドカ。彼女の部活は園芸部。あの日も夏休みで夕方の水撒き担当を終えた帰りだった。家庭菜園はお手の物。

 ばああっと明るくひらめくマドカの顔を見て、トリスターが安堵の笑みを浮かべていたのを彼女は知らない。


 こうして自室のテラスから降りた横に畑を作り、マドカは生野菜生産に勤しんだのである。




『豆苗……? こちらの白いのは? もやし? 食べられるのかい?』


『美味しいですよ? 豆苗はちょいとクセがあるんで、軽く湯通しします。もやしもね。あとは薄切りにした二十日大根…… こちらではなんていうんでしょうか。まあ、辛味のある根菜です。ついでに間引きした法蓮草のベビーリーフを散らして…… 出来たぁっ!』


 湯をくぐらせただけの豆苗ともやしをザルにあけて温かいまま皿に盛り、パラパラと他を散らしたシンプルなサラダ。

 その皿を掲げて感無量なマドカを眺めつつ、王太子は自分にも試食させてくれと頼んだ。

 

『これは?』


 用意されたサラダをテーブルに置いたマドカが、小さな器から何かを匙でサラダにかけている。


『オリーブオイルに塩と香辛料を混ぜて、レモンで味付けしたモノです。簡易的なドレッシングですね』

 

 この世界でも香辛料は高価だ。しかし、肉料理に必須なのだろう。王宮には数多な香辛料が揃っていた。さらに干した魚やキノコなども。

 マドカはサラダを作る前に、指先で砕いた干しキノコをオイルに足しておいた。程よく緩んで旨味の出たキノコの風味に王太子は眼を丸くする。


『これは美味いな。サラダとやらもシャキシャキして、このソースに良く合っているよ』


 もっもっと食べるトリスター。


『自分で育てたと思うと、その美味しさもひとしおです。トマトを足せたら良かったんですが、アレは収穫まで時間がかかるので』


 そう言いつつも、マドカは一抹の不安を拭えない。アレは原種系だ。地球で知識としては知っているが、その本にも生食には向かないような説明があった。

 彼女が地球で当たり前に食べていたトマトは、先人の努力によって品種改良され、磨き上げられた宝石のようなトマトである。

 思わず思案する彼女の耳に、素朴な王太子の称賛が聞こえた。


『楽しみだな。こうして口にすると確かに嬉しいものだ。これからも私が手伝うよ』


 そう。この王太子殿下、庭先で畑を作ろうとするマドカを止める人々を押し切り、彼女が作る畑を支援してくれたのである。

 

『ここの土を掘り返して柔らかくしたら良いのだな? 任せなさい』


 にぱっと笑い、あっという間に十メートル四方を耕した王太子。陽当りの良い中庭をいきなり掘り起こされ、泡を噴く侍女長。

 未だにモコモコと動く土を見て、マドカは我が目を疑う。


 ひょっとして魔法ってやつ? うわあ、便利だあっ!


 卒倒寸前な王宮の面々を余所に、マドカとトリスターは楽しく畑仕事を強行した。


『芝を除けてゴミや小石を拾う? 手伝うよ』


『え? 汚れますし、アタシ一人で大丈夫です』


『二人でやった方が早い。なぁに、時間はあるから、手伝わせてくれ』


 屈託ない彼の笑みにおされ、二人は仲良く畑仕事をした。なぜだか分からないが、テラスあたりを陣取って仁王立ちする王太子の側近達に見守られながら。

 ときおり誰かしらの声が聞こえた気がするが、畑仕事に夢中な二人には届かない。


 そんなこんなで王太子とも上手くやってきていたと思っていた所に青天の霹靂。


 いきなり王宮側から王太子の妃として打診を受けたのだ。なんでも国王陛下や貴族達らが乗り気で、聖女様の夫は王太子以外に考えられないとか捲し立ててきた知らないおっさん。

 しかもこれは決定事項。打診とは表向きで、こちらには受け入れる選択肢しかない。

 唖然とするマドカの前で、トリスターは再び申し訳なさげに土下座のごとくテーブルに頭をつけている。


『本当ーっに、すまないっ! 後見人となった経緯を説明したのだが、誰も取り合ってくれず……… 正直、国王陛下の勅命となれば、私にも抗う術はない。だが、君の自由は保証する。聖女ともなれば神殿の関係もあって清い関係を望むことも可能だ。大神官と話し合い、必ずそのように持ち込むから安心して欲しい』


 切実なまでに真剣な王太子の表情。


 この国の王侯貴族には怒り心頭なマドカだが、彼だけは憎めなかった。この暴虐不遜な王宮にあって、彼だけが誠実だった。

 彼自身の過ちでもないのに、どこまでもマドカを慮って守ってくれ、やりたいことをやらせてもくれる。そんな彼が傍にいてくれるのならば、形だけの結婚くらいしても良いかもしれない。


 どうせ行く当てがあるでなし、せっかく畑も充実してきたし、肩書だけで暮らしが変わらないなら、むしろ儲けものかも。


 そう考えて結婚を承諾し、やってきた結婚式当日。


 またもや深々と頭を下げている王太子を見て、マドカは腹の底から笑いが込み上げてきた。

 実直な良い人だ。この人が相手なら、案外、本当の夫婦になっても幸せになれるかもしれない。いや、全力でしてくれるに違いない。


 傾き始めた彼女の心。


 やくたいもない軽口を叩きつつ、自身の心の変化を心地好く受け止め、マドカは王太子の妃になった。




「……なのに現実って、シビアよね」


 くすぐったい過去を思い出して、思案に耽るマドカ。


 まさか、あれほどに真摯で誠実だった彼が浮気をしようとは。

 まあ仕方がないとは思う。彼とて適齢期で健康な男子だ。そういった下半身の事情もあろう。なにより、彼が望むなら侍る女性は幾らでもいるし、それらに手をつけても良い身分もある。

 マドカが学んだ限りでは、この世界は平民ですら一夫多妻制。王侯貴族はいうにおよばず、現国王陛下も六人の妻を持っていた。

 王の後宮には一ヶ月で日替わり出来るほどの愛妾が収められており、子供を孕めば側室へと昇進する。寵愛を頂き、子が宿るのを待つだけの女達。

 そのような婚姻事情だ。王太子にだってお手付きな女の一人や二人はいたのだろう。

 だいたい、浮気とも限らない。マドカが来るより前からの関係かもしれないし、だとしたらお邪魔虫だったのはマドカの方だ。詳しく聞く気もないが。


「さってと…… 棚の半分くらいは片付いたかな。ごめんなさい、大神官様。アタシ、この国の王宮が大嫌いなんです。神殿に身を寄せても迷惑かけるだけだと思うので…… 消えますね」


 マドカはざっと書庫を見渡し、整理した本の上に一通の封筒を置く。それには事のあらましと、王宮の強権が届かぬ場所までにげますとだけ書き記し、今までの感謝で締めくくった手紙が入っていた。

 そして彼女は再び神殿最奥の祭壇に向かう。


 きっとそこに、あの人はいるから。


 のこのこ歩くマドカを包むように、蒼い風が渦を巻いていた。


 ここより彼女の消息はプツリと途切れ、手紙を読んだ大神官が王宮に突撃していくのは余談である。

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