第2話

 元和2年(2020年)4月19日。

 栃木県渡良瀬市。

 街にはサイレンが鳴り響いていた。

『怪獣警報が、発表されました。直ちに、避難してください』

 破壊され燃える家々。斜めに折れ、電線を垂れ流す電柱たち。ひっくり返って木っ端みじんになった車。大きく陥没し、水道管から水が噴き出ている道路。

 周囲は焦げ臭い臭いが充満し、町中から黒煙が何本も立ち上がっている。

 春の昼間、穏やかであっただろうこの街は、大きく様変わりしてしまった。

 獣害の爪痕が生々しく残るこの街を、二人の少女が走っていた。頭には黄色い通学帽を被っている。

 一人は長髪で、ピンク色のシャツにスカート。胸には「佐倉美波」の名札。もう一人はお団子ヘアにラメ入りのシャツとジーンズをはいた、快活な印象の子で、「東金萌仁華」の名札を付けていた。

「モニカ! モニカ! 待って!」

 佐倉美波は追いすがるように言う。

「早く美波!」

 前を行く東金モニカは、美波を手招きした。

 そんなモニカに、美波は涙目になって叫んだ。

「モニカ、ここ危ないよ! はやくみんなのところに帰ろう!」

「大丈夫大丈夫。怪獣は向こうの方にいるんだし」

 モニカが破壊された家の隙間を指さした。

 そこには一匹の怪獣がいた。二足歩行で歩く、巨大な灰色の竜。足先から頭の上に生える角まで70メートルはある。体長と同じぐらいある長い尾をゆらゆらとさせ、背中には大きな翼が生えていた。

 竜は空に向かって嘶く。数キロは離れているはずのこの場所も、空気が震えた。

「モニカ!」

「大丈夫!」

 引き留めようとする美波に、モニカは余裕の表情だった。

「お母さんの手紙持ってくるだけだから!」

「でも……」

「だから美波は凛と一緒にいてていいって言ったのに」

 煮え切らない態度の美波に、モニカはしびれを切らしたように言う。

「美波は今からでも戻ったら?」

「それは……。モニカのことも心配だし……」

「大丈夫だって言ってるのに。ほら、もうそこだよ!」

 モニカは明るい声で言った。彼女の自宅は、全壊した家が多い中、何とか原型を保っていた。

「美波は外で見張ってて。私、すぐに戻ってくるから」

 美波は心配そうな表情のまま、玄関の外に立つ。

 東金モニカの母は、彼女が幼い時に亡くなっていた。モニカは母の顔を写真でしか知らないと、常々幼馴染である美波に打ち明けていた。

 そんなモニカの宝物が、母から送られた手紙だった。

 病気でもう先が長くないと悟ったモニカの母が、モニカに向けて残した手紙だ。

 それを取りに帰るとモニカが言い出した時、彼女を止める術を、12歳の美波は持ってはいなかった。

「でも……」

 パン、と何かがはじける音がして、美波は肩をすくめる。

 怪獣が来襲したのは、学校の授業中だった。みんなで避難している途中、二人でこっそりと抜け出したのだ。今頃、友達も先生も心配しているだろう。

「凛……」

 もう一人の幼馴染の名前をつぶやく。こんな時頼りになるだろう、かっこいい、憧れの子。だが今はいない。

 彼女が今ここにいてくれたら、と強く思う。だが凛はクラスも違ったので、呼びに行くことが出来なかったのだ。

「大丈夫、大丈夫だよ、ね……」

 怪獣はすでにここから離れたところにいる。もうすぐ駆除も始まるだろう。

 だから大丈夫だ。美波は自分に言い聞かせる。

 ふと、あたりが暗くなった。

「え」

 上を見上げる。

 そこには、太陽を隠すように飛ぶ、巨大な怪獣の姿があった。

「え、あ、も、モニカ」

 状況が変わったことを、本能で感じた。

 これはまずい。モニカを呼びに行かなくちゃ。

 だが美波が振り向くよりも早く、衝撃と地響きが美波を襲った。

「きゃっ!」

 土煙が上がり、美波は吹き飛ばされる。

「あ、あ……」

 目の前に、ドラゴンがいた。

 元々モニカの家があったはずの場所に立っていた。

 それを認識した瞬間、美波の意識は急激に薄れた。次に目が覚めた時、美波は病院のベッドの上にいた。怪獣はもう死んでいた。

 そして東金モニカもまた、この世の人間ではなくなっていた。



 それから10年がたった。



 元和12年(2030年)7月23日。

 ガシャン、ガシャンというベンチプレスの音が、まだ人の少ない庁舎に、リズミカルに響いていた。それを聞いた美波は顔をしかめる。

 腕時計を見ると、時刻は朝の8時前。

 庁舎に併設されたトレーニングルームは、9時からしか利用できない決まりだ。つまり誰かが、勝手に使っているということになる。

 美波は大股で廊下を歩く。肩まで切りそろえた髪が揺れ、廊下には革靴のツカツカという音が鳴った。

白地に緑のラインが入った環保の制服をきっちりと着こなしていて、あとは制帽を被るだけだ。だが今は、それよりも大切なことがある。

「ちょっと!」

 トレーニングルームのドアを勢いよく開けると、そこには短髪の女性が一人、ベンチプレスに座っていた。上半身はスポーツブラ一枚で、下半身もスパッツ一枚の、非常にラフな格好をしていた。

他の人間の姿はないから、自動的に彼女が犯人と言うことになる。

 犯人の顔を見るなり、美波は叫んだ。

「凛! また貴女ね!」

 うんざりして額を押さえる。そしてヒールを脱いでトレーニングルームに入ると、彼女の元に近づいた。

「ん、なんだ美波か。朝からお前と顔合わすとか、最悪だな」

 北凛は体を起こすと、平然とした様子で汗をぬぐった。

 先ほどまで追い込んでいたらしい凛は、汗まみれで真っ赤な顔をしていた。短い髪は、額に張り付いている。

 反省の色がない凛の物言いに、美波は眉を吊り上げる。

「なんだとは何よ。ここの利用は9時からって決まってるでしょ! 規則違反よ!」

 凛はふんと鼻を鳴らして肩をすくめた。

「だってそれだと混むだろ? 空いてるところでやりたかったんだよ。いいじゃん別に。鍵がかかってるわけでもないし」

「良いわけないでしょ。規則なんだから守りなさい。大体その恰好も露出が多すぎなのよ。バカみたいじゃない」

「暑いんだから仕方ないだろ」

 凛は相手にしないという風に、ベンチプレスをタオルで吹き上げる。そして挑発するように、美波の額をつつく。

「朝からそんな顔するなよ美波。可愛い顔が台無しだぞ」

「うるさいわね!」

 美波は凛の頭を叩く。

「いって。パワハラだ。暴力反対!」

「同期同格で何言ってんのよ」

「同期同格でもパワハラはパワハラだっての」

 そう訴えながら、凛は立ち上がった。

「ま、ちょうど今日の追い込み終わったところだし。帰りますよーっと」

「貴女ねぇ!」

 反省の色がない凛に、美波が詰め寄る。

「だいたいあんた昔からそうじゃない。そうやって何でもかんでも適当なの、本当に勘弁してくれない!?」

 すると、今度は凛も顔をしかめる。

「はぁ!? なんで昔の事までお前に言われなくちゃいけないんだよ。それなら言うけど、美波だってぐちぐちぐちぐちうるさくてマジ勘弁なんだけど」

「それはあんたが!」

 口喧嘩がヒートアップした瞬間、非常ベルが鳴った。

 二人は一瞬ベルの方を見たのち、すぐに走り出す。

『観測室より各員。怪獣が第一孔第一隔壁を突破。総員、緊急駆除準備態勢へ移行せよ』

 誰もいなくなったトレーニングルームに、そんなアナウンスが響いた。


 ここは特異環境保安庁関東特異環境保安局。『北総特異環境孔』に併設された、怪獣駆除の最前線。

 彼女たちの仕事が、今まさに始まろうとしていた。

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