KILL ME STOP
拓海は病室に盗聴器を仕掛けることにした。麗子と沢尻が、どんな会話をしているのかが気になったからだ。
手に入れたのは、「盗聴用ボイスレコーダー」と呼ばれるもので、通常の手のひらサイズのボイスレコーダーと同等の大きさだ。拓海は同じ商品をネットで二つ購入した。二つ合わせて四万円弱で、会話が発生した時点で録音を開始してくれるという優れものだ。
品物が届くとすぐに、病室のベッドの下に忍び込ませた。麗子は寝ていることが多かったため、彼女の目を盗んで盗聴器をマットレスの下に入れるのは簡単だった。
毎日の見舞いのたびに、一つを回収して、もう一つのものと入れ替える。これで、二十四時間の盗聴が可能になる。
盗聴器を仕掛けてからは、見舞いが少しだけ楽しくなってきた。自分がいないところで麗子と沢尻がどんな会話をしてるのか、それが知りたくて病院へ向かう足取りも軽くなった。ところが、期待していたような会話はまったく聞けず落胆した。録音された音声は、医師と看護師との短いやり取りが主で、沢尻ともこんな感じの会話ばかりだった。
沢尻「お嬢様、何か必要なものはございますか?」
麗子「とくにないわ」
沢尻「そうですか。では私はこれで」
実りのない盗聴がしばらく続いた。秘密めいた会話がされることはなかった。麗子と沢尻の間で、世間話すら交わされることはなかった。
しかし、盗聴を開始して一週間ほどしてから、朗報が耳に飛び込んできた。
麗子「沢尻さん、頼んであった調査は継続中よね?」
沢尻「ええ、お嬢様」
麗子「どう、彼、浮気してる様子はない?」
沢尻「ええ。今のところ、そういった兆候は見当たらないですね」
麗子「そう……」
沢尻「通話記録も調べさせましたが、きれいなものでしたよ」
麗子「沢尻さんはどう思う? 彼、浮気してると思う」
沢尻「そうですね……。私が見た限りでは、女性の影があるようには見えませんが」
麗子「そう……」
沢尻は、美穂と会っていた事実を隠してくれた。前に言っていた通り、味方でいてくれるようだ。
録音音声は続いた。
沢尻「引き続き、調査しますか?」
麗子「いえ、もういいわ。もう調査しなくていい。彼を信じることにするから」
どうやら調査をやめさせるという。つまり美穂に会えるということだ。油断すべきでないのはわかっていたが、もう半年以上も美穂の体に触れていないのだ。そろそろ限界だった。
録音音声はさらに続いた。
麗子の咳き込む声が聞こえた。それはだいぶ長く続き、聞いているほうまで苦しくなってくるような咳き込みようだった。
沢尻「お嬢様、大丈夫ですか——?」
麗子「ええ、大丈夫……。お水、もらえる?」
盗聴器は、水を注ぐ音もしっかりと拾っていた。
沢尻「お嬢様、どうしました?」
麗子「ねえ、沢尻さん、このお水、変な匂いしない?」
まただ——。拓海は録音音声を聴きながら身をこわばらせた。
麗子「どう?」
沢尻「いえ、とくには——」
麗子「そう……。ならやっぱり、気のせいなのかな……」
沢尻「あれでしたら取り替えてきましょうか」
麗子「いえ、いいわ。たぶん、わたしの気のせいだから……」
匂いの問題は、とりあえず解決したようだ。
麗子「沢尻さん、お願いがあるの……」
沢尻「何でしょう」
麗子「次来たときに、封筒と便箋を用意してきて……。最後に拓海さん宛てに、手紙を書こうと思うの……」
沢尻「かしこまりました」
麗子「頼んだわよ……」
そこで録音音声は終わった。
拓海は、彼女の手紙など受け取りたくないと思った。
* * *
麗子の衰弱ぶりが、目に見えてひどくなっていた。食事もまったく口にしなくなり、栄養摂取は点滴からだけになっていた。今では呼吸することすら困難らしく、酸素マスクがつけられている。
心臓が著しく衰弱しているらしく、主治医からは、「覚悟しておいてください」とまで言われていた。ついに、長かった計画が終わりを告げるのだ。
酸素マスクをつけて横たわる麗子の顔は、とても酷いものだった。完全に生気を失った顔は、今夜死んでもおかしくないほどだった。
麗子は酸素マスクを外すと弱々しい声で言った。
「拓海さん、もうわたし……、本当にダメかも……」
「麗子、気をしっかり持つんだ。約束したじゃないか。元気になって、ぼくの舞台を観にくるって」
「ごめんなさい……。その約束、守れそうにない……」
「大丈夫だ、麗子。あきらめちゃいけない。きっと君はよくなるから」
「今まで……たくさん迷惑をかけて、ごめんなさい……。拓海さん……、わたしが死んだら……、サクラのこと……、お願いね……」
麗子は途切れ途切れの言葉で愛猫の心配を口にした。
「何言ってんだ麗子。そんな弱気になっちゃいけないよ。サクラは君の帰りを待ってるんだ。サクラのためにも、がんばらなきゃいけないよ」
麗子は苦しそうに喘ぎながら続けた。
「拓海さん……、一つお願いがあるの……」
「何だい?」
「前に……、わたしが死んだあと……、恋人を作っていいって言ったけど……、やっぱりわたし、拓海さんが他の人といっしょになるのは、どうしても許せないの……。だから誓って……。絶対に、再婚はしないって……。拓海さん……、お願いだから、誓ってちょうだい……」
拓海は麗子の手を取ると言った。
「誓うよ。ぼくは絶対に再婚なんてしないよ」
「ありがとう……。わたし、天国からずっと……、見てるから……」
麗子は弱々しく微笑んだあと、疲れたように目を閉じた。ただ目を閉じているだけなのか眠ってしまったのか判別がつかなかった。
拓海は酸素マスクを麗子の口元に戻すと、彼女の頭を優しくなでてから言った。
「麗子、ちょっと外の空気を吸ってくるよ」
一度病院を出たが、彼女の病室に戻る気にはならなかった。嘘の誓いをした罪悪感もあり、しばらく彼女の顔は見ないでいたかった。それにこのまま一緒にいては、麗子の死に目に立ち会ってしまう。誠実な夫ならば、死ぬまで妻に寄り添うことだろうが、自分が死に追いやった女の死に目になど立ち会いたくなかった。それに、毎日のように見舞って献身的な夫を演じてきたのだから、死に目に立ち会わなかったとしても、それほど非難されることもないだろうと思った。
気づいたときにはタクシーに乗り込んでいた。先日盗聴した録音音声から得た情報により、すでに尾行を警戒する必要がなくなっていたから、美穂と距離を置くべき障害は消えていた。
本来なら、安全を期すためにも、遺産が手に入るまで会うべきではなかったが、半年以上彼女の体に触れていなかったのだ。さすがに限界にきていた。
欲望は簡単に理性を上回ってしまう。それでも多少は理性を働かせて、一応念のためタクシーを途中で乗り換え、慎重に尾行がないことを確認しながら彼女のアパートに向かった。
突然の訪問に、美穂は大きく目を見開いて驚いていた。サプライズを狙って連絡しなかったのだ。
「たっくん、来て大丈夫なの!?」
「話はあとだ!」
拓海は玄関に足を踏み入れるなり美穂の唇を吸った。
「ちょ、ちょっ、ちょっと待って!」
動揺している美穂の制止を振り切って、そのままベッドまで押し込んでいく。顔じゅうにキスを浴びせながらベッドに押し倒すと、部屋着を乱暴に脱がしていく。最初こそ軽い抵抗を見せていた美穂も、こちらの興奮が乗り移ったのか、急に鼻息が荒くなり、ベルトに手をかけてくる。
拓海は美穂の下着を乱暴に剥ぎ取ると、たぎったものを彼女の下腹部に押し込んだ。
「ああ——!」
美穂が悲鳴にも近い声を上げた。すでに絶頂を迎えたかのように全身をけいれんさせている。
互いの性器を通して繋がった結合が、魂の結合のようにも感じられた。拓海は何度も腰を振ったが、それは夢の中の出来事のように感じられた。夢、もしくは別次元でセックスしているような、不思議な高揚感に包み込まれていた。
この間、美穂の顔も体も見えていなかった。まっ白な空間の中で、ただ至上の愉悦だけを感じとっていた。このまま消え去ってもいいと魂が叫び続けるのだった。
行為が終わったとき、ほとんどの記憶が失われていた。ただ、長時間、絶頂を感じていたという感覚しか残っていなかった。はじめての経験だった。
しばらく幸せに包まれながら二人して寄り添っていた。そんな中、外から大きな雨音が聞こえてきた。
「さっきの、すごかったね……。あたし、壊れちゃうんじゃないかって思った……」
「半年ぶりだったからかな。ここ一週間ほどは、君のことが、欲しくて欲しくてたまらなかった」
「一人で、しなかったの?」
「ぼくが自己処理をしないのは知ってるだろ」
連続する大きな雨音が、セックスの余韻を少しずつ醒ましていく。
「雨、すごいね」
「ああ」
この大雨は、何かを暗示しているように思われた。麗子の最後の涙か——。
拓海は、麗子の命があと数日ほどだということを伝えた。
「ならもうすぐ、いっしょに暮らせるんだね」
「ああ、そうだよ」
「とうとう、終わるんだね……」
美穂が感慨深げにそう言った。
「でも美穂、聞いてくれ。前にも話したが、彼女が死んでも、すぐにはいっしょに暮らせない。少なからず、喪に服さないといけないからね。でも、二人で会える時間は、確実に増えるはずだよ」
「もう、我慢しなくていいんだね」
「そうだね。でも話は変わるけど、彼女が入院してくれて本当によかった——。知ってるかい? 自宅で死んだ場合、警察が検視をするんだ。死因に事件性がないかを調べるんだよ。家族が保険金目当てに殺害したんじゃないかって疑ってかかるんだ。警察がぼくの素性を知ったら、貧乏役者が遺産目当てに結婚して殺害したんじゃないかって疑ってくるだろう。まあ、事実そうなわけだから、彼女には入院先の病院で逝ってもらいたいんだ。このまま病院で息を引き取ってくれたら、おそらく警察は関与しない。でもね、もし警察が動いたとしても、家のメイドさんたちには愛想よく接しているから、彼女らがぼくに不利になるような証言はしないはずだよ。みんながみんな、夫婦仲はよかったって答えてくれるはずだ」
自分が屋敷の使用人たちからよく思われているのは間違いなかった。昔から敵を作らないタイプで、人当たりのよさは自覚していた。
「あの人がこのまま、病院で最期を迎えてくれればいいね」
「そうだね……。もしかすると、今夜にも逝くかもしれない。それくらい弱ってるからね……。彼女には少し気の毒だけど、これも二人のためだからね」
「うん、だね。二人のためだもんね。あたしも気の毒に思うけど、あの人は、ものすごいお金持ちの家に生まれて、これまでさんざんいい思いをしてきたわけだから、今死んでも、そんなに悪い人生でもなかったと思うよ」
「その通りだ。お嬢様として、今まで優雅な生活を送ってきたんだ。長生きできなくても、誰よりもいい人生だったはずだ」
ここで突然、ベッドの下から着信音が聞こえてきた。拓海はベッドの下に手を伸ばすと、ジーンズのポケットに入れていたスマホを取り出した。
着信画面には、〝沢尻さん〟と表示されていた。
「噂をすれば、だよ」
拓海はベッドに腰掛けてから応答した。
「もしもし——。はい、ええ。今は稽古が終わって、劇団の仲間と食事をとっているところなんだ。で、どうかした? え、何だって——。わかった。ぼくもすぐに病院に向かうよ」
通話を切ると、美穂が緊迫した顔で聞いてきた。
「どうしたの?」
拓海は笑いが込み上げてきた。笑うべきことではないのだが、自然と笑みがこぼれ出てしまうのだった。
「どうやら麗子が肺炎にかかって、意識を失って集中治療室に運ばれたらしい。危篤状態だそうだ」
「じゃ、早く病院に行かなきゃ」
美穂が動揺したように言う。
だが拓海は冷静だった。
「いや、そう急ぐこともないだろう。下手に死に目に会っても、寝つきが悪くなるだけだ。いっそ、ぼくが病院に着いたころには、息を引き取ってもらっていたほうがいい」
「それも、そうだね……」
美穂はだいぶ緊張している様子だ。それも当然だろう。人が一人、この世から消え去ろうとしているのだから——。だが拓海は違った。これでようやくすべての呪縛から解き放たれるのかと思うと、喜びしかなかった。いよいよ麗子が最期を迎えるとあって、異様な興奮が全身を包み込んだ。気づくと美穂の白い大きな胸を鷲づかみにしていた。
美穂が苦痛に顔を歪めた。
「た、たっくん……、時間は大丈夫なの?」
「ああ、焦る必要はない。病院に行くのは、もう一戦、楽しんでからでいい——」
拓海は胸を揉みしだきながら答えると、それから犯すように美穂の体をむさぼった。いつもの優しさはどこかに消し飛んでいた。耳を強く噛み、胸をもぎ取らんばかりに捻り潰す。美穂が絶叫にも近い声を上げている。拓海は自分が野獣にでもなったかのような気がした。今は最強の捕食者の気分だった。
佐藤の顔が脳裏をよぎった。
拓海は、美穂の白くて細い首に手を伸ばすと言った。
「次の獲物は、あいつだ——」
* * *
「沢尻さん、彼女は!?」
拓海は病室の前に立つ沢尻にきく。
いつものように感情の読めない顔だった。これでは麗子がどうなったのかはっきりしない。
沢尻が目を細めて答えた。
「お嬢様は先ほど、お亡くなりになりました」
「ああ、そんな……」
拓海は全身を使って悲嘆に暮れるような演技をした。
目の前に立つ沢尻は、動揺した様子もなく続けた。
「医師から伝えられた死亡時刻は、十時二十二分になります」
拓海はスマホで時間を確認する。どうやら、およそ二十分前に、彼女は息を引き取ったようだ。
「ご遺体は先ほど、集中治療室からこちらの病室に移されたばかりです。お嬢様は意識がほとんどない中、うわ言で、何度も拓海様の名前を呼んでおられました」
「そ、そんな……」
拓海はうろたえるふりをして見せるが、主人が亡くなったというのに、沢尻が事務的な口調で淡々と語るため、麗子の死を実感しにくかった。
「拓海様。葬儀などの手配は、私のほうでやっておきますのでご心配なく」
「よろしく、頼むよ……」
沢尻はどこまでも事務的だった。ドライ過ぎて寒気すら感じた。だが、いつも以上に表情が硬いように感じられた。やはりいくらかは、彼も動揺しているのかもしれなかった。
「あと、使用人の分際で、お嬢様の死に際に立ち会ってしまったことをお詫びいたします」
「いや、そんなことは……」
遅れて来たことを遠回しに非難されているようにも感じられて、拓海は居心地が悪くなった。
病室に入ろうとしたところで呼び止められた。
「拓海様」
「はい?」
「お嬢様から手紙を預かっております。亡くなったあとに渡すようにと」
拓海は思わずヒヤっとした。正直そんなもの、受け取りたくなかった。自分が殺した女の手紙など……。
「こちらでございます」
沢尻が封筒を差し出してきた。その手が少し震えていた。やはり主人の死に、多少なりとも動揺しているようだ。このときはじめて、彼から人間らしさのようなものが感じ取れた。
受け取った白い封筒には、〝拓海さんへ〟と乱れた筆跡で書かれていた。書くのに苦労したのが読み取れた。封がしてあったから沢尻も中身は見てないはずだ。死者からの手紙など読まずに捨ててしまいたかったが、拓海はとりあえず手紙は革のリュックにしまって、木目調の横開きの扉を開けた。
室内は薄暗かった。だが死人を前にして、照明を点ける気にはならなかった。ベッドに近づいていくと、いきなり雷鳴がとどろき室内が一瞬明るくなった。麗子の死に顔が浮かび上がる。恐怖で心臓が縮み上がった。思わず二、三歩後ずさっていた。
拓海はリュックを床に置くとベッドのふちに両肘を乗せた。
「麗子、間に合わなくてごめん……」
拓海は嘆き悲しむ夫を演じる。沢尻が入ってくるかもしれなかったから、見られていることを意識しながら最後の仕上げとばかりに彼女の手を取った。
「ごめんよ……。本当にごめんよ……」
両手で麗子の手を握りしめながら涙を流す。思い通りに涙は流れた。とはいえ、悲しみの感情は湧かなかった。一年以上もいっしょに暮らし、何度も体を重ね合わせたというのに、その間彼女に、愛情らしい愛情が湧くことはなかった。当然、美穂という存在がいたからだが、富裕層に対する嫌悪感があったことも原因かもしれなかった。貧乏生活が長かったせいで、生粋のお嬢様に対して負の感情があったことは否定できない。
とはいえ麗子は、短い人生だったとはいえ、これまで誰よりも贅沢な暮らしを送ってきたのだ。無駄に長生きしてきた連中よりも幸せだったに違いない。そろそろその幸せを、他の誰かに譲ってもいいころだったのだ。
流れる涙はいつしか、歓喜の涙に変わっていた。感動で体が震えた。これほどまでの高揚感は、かつて得たことはなかった。全身の血が熱くたぎっていた。世界を征服したかのような達成感だった。
しかし、これで終わりではない。まだ佐藤がいる。やつを潰さなければ、この物語は完結しない——。
「佐藤、次はお前の番だ」
ここで握っていた手が、死人の手にしては暖かいなと思った瞬間、相手の手がつかみ返してきた。
「え!?」
拓海は思わず飛び上がり、ベッドから離れた。暗がりの中、麗子が上体を起こしているのがわかった。悲鳴が喉元まで出かかった。ここで雷光が室内を照らす。麗子が笑っていた。恐怖に
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