加速する衰弱

 稽古場に着くと、すでに何人かの団員たちが姿を見せていた。

 公演日が近づいていたので、今日は本番さながらの通し稽古が行われる予定になっていた。物語の最初から最後までを、ぶっ通しで演じていくのだ。

 拓海が準備をしていると、劇団仲間の、みのりが声をかけてきた。

「今日は通し稽古ですね」

「そうだね」

「ああ、何だかわたし、緊張しちゃう」

「緊張するなって言っても緊張しちゃうだろうけど、観客がいるわけじゃないんだし、気楽にやろうよ。それに一度や二度、台詞を言い間違えちゃっても気にすることないよ。これが本番だったとしても、お客さんは台詞の言い間違いに気づかないわけだから、堂々と演じ続ければどうにでもなるから」

「そうですよね」

 みのりは少し安心した様子を見せた。

 拓海がリュックからタオルを取り出して首に巻いたところで、みのりが聞いてきた。

「あの、麗子さん、その後どうですか?」

 劇団員はみな、麗子が病に臥せっていることを知っていたから、彼女の様子をよく訊ねてくる。

「相変わらずだよ……。回復の兆しがまったく見えないんだ。いろいろ検査を受けてるんだけど、これといった原因がわからずじまいでね」

 拓海は、なるべく悲痛な表情を作ってそう答えた。

「大変ですね……」

「そうだね。彼女が弱っていく姿を見るのは本当に辛いね。代わってあげられたらって思うよ」

「拓海さん、やっぱり優しいんですね」

 みのりは感激した様子で言った。

「そんなことないよ。夫ならみんな、そう思うはずだよ」

「そうかなぁ」

 拓海は良き夫を好演できたことに満足した。じきに、妻に先立たれ、悲嘆に暮れる夫を演じることになる。そのときは、過剰な演技にならぬよう気をつけるべきだ。過剰な演技も映画やドラマの中では許されるだろうが、現実世界でそれをすれば違和感が際立ってしまう。そのため内奥の苦しみを、沈痛な表情だけで表現する必要があるのだ。

 麗子が資産家令嬢だと知る者は、遺産目的だったと噂するかもしれない。だがそれを、培ってきた演技力で黙らせるのだ。

「ところで拓海さん?」

「何?」

「ちゃんと寝てます?」

「え、どうして?」

「何か、ここ最近、顔色悪いから……。麗子さんのことが心配で、眠れてないのかぁなって思って」

 寝つきが悪くなっているのは事実だったが、それが顔に表れているとは思ってもみなかった。どうやら計画も終盤に入り、想像以上のプレッシャーがかかっているようだ。

「確かに、麗子が入院してからは、あまり熟睡できてないかも……」

「やっぱり……。それより、麗子さんのそばにいなくていいんですか?」

「そうしたいんだけど、彼女がさ、稽古のほうを優先してくれって」

「そうなんですね。じゃ、がんばらなきゃですね」

「ああ、そうだね」

 ここで稽古場に二人の劇団員がいっしょに入ってきて、本日のメンバーが勢揃いした。もう間もなく稽古はスタートするだろう。

「それにしても、麗子さんって、ほんといい奥さんですね」

 隣に座るみのりが言った。

「いや、ほんとそうなんだよ。ぼくにはもったいないくらいだと思ってる。ただ彼女、最近は病気のせいで、弱気な発言が目立っていてね。こっちは一生懸命に励ますんだけど、本人はもう回復することをあきらめてしまってる感じで、そこが辛いよね……。ぼくは彼女の回復を信じてるんだけど、本人がそんな感じじゃ、治るものも治らないかもしれないし……。病は気からっていうしね」

 拓海の言葉に、みのりはとても切なげな顔になった。

「そうですよね……。拓海さん、もしわたしに、何かできることがあったら何でも言ってください。できるだけのことはしますから」

「ありがとう。君に頼めることがあったら相談させてもらうよ」

 ここで、演出家の近藤の声がかかって稽古がはじまった。



       *  *  *



 稽古帰りに病院に足を向けた。

 麗子の病状は、入院後に改善するどころか悪化していた。それも当然だろう。例の薬を入院後も飲ませ続けているのだから——。

 病室の前でマスクを着けると、携帯していた除菌ジェルで手指を消毒した。彼女の病状を案じて、担当医から面会時には手の消毒とマスクの着用を促されていたからだ。免疫力がかなり落ちているため、風邪を引いただけでも大事になる可能性があるからだそうだ。

 病室に入ると、麗子の弱々しい笑顔で迎えられた。彼女のやつれた顔を見ると、自分まで病気になった気になってしまう。

 麗子は手元にタブレットを持っていた。彼女はおもにネットフリックスで時間を潰している。

「今日は何観てたの?」

「海外ドラマ。けど頭痛がひどくて、内容がぜんぜん頭に入ってこないの……。でも何もしないでいるのは、それはそれで苦痛だから……」

「そっか……」

 拓海は、病室を改めて見渡して心の中でため息を漏らした。ベッドの横に設置されたモニターや点滴スタンドがなければ、とても病室とは思えないほどの豪華な部屋だった。高級ホテルの一室と形容できるほどだ。

 たった一日の利用で、三十万円もの金が消えていく。三十万といえば、サラリーマンの月収に相当する。部屋代の金額としては異常だ。病室など、ベッドと備品が置ければいいだけなのだから、もっと狭い部屋でも充分のはずだ。すでに入院して二か月ほどになるから、二千万円ほどの金が部屋代に消えたことになる。中古のマンションがさくっと買えてしまう。気が遠くなりそうな金額だ。早く死んで欲しいと改めて思った。

「メロンを買ってきたよ。どう、少し食べる?」

「そうね。少しなら食べれるかも」

「じゃ、カットしてくるから少し待ってて。それと、水も換えてくるよ」

 拓海はサイドテーブルの上に置かれたガラス製の水差しを手に取ると、奥のキッチンに向かった。

 キッチンは完全に独立していた。ドアはなかったが、麗子がいるベッドからは確実に見えない位置にあった。ゆえに、彼女の目を盗んで薬を入れることは簡単だった。

 両開きの、ステンレス製の冷蔵庫を開ける。中からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出して、ガラス製の水差しの中に水を注ぐ。ここで薬を取り出す前に、念のため、入り口付近に目を向ける。誰もいない。麗子が立ち上がった様子もない。安全を確認すると、ジーンズのポケットから小瓶を取り出して、中の液体を水差しに数滴ほど垂らした。

 拓海は水差しとカットしたメロンを乗せた皿を持ってベッドに戻った。近づくと、麗子の口臭が鼻についた。死期が迫っていることを感じさせる匂いだった。彼女は出会ったころに比べると、十キロ以上は体重が減っているはず。その激やせぶりは、見ていて痛々しいものがあった。

「先にお水をもらえないかしら」

 そう言われて、拓海は水差しの水をコップに注いで差し出した。

 コップに口をつけようとした麗子の動きがふいに止まった。

 緊張が走る。

「麗子、どうかした?」

 心臓は早鐘を打っていたが、拓海は平静を装いながら聞く。

 麗子は黙ったまま、コップの中の水の匂いを執拗に嗅いでいる。そして目を細めると言った。

「このお水、何だか変な匂いがする……」

「え——!?」

 悲鳴が喉元まで出かかった。それから心臓が止まったかのように息苦しくなった。

「そんなことないだろ……。どれ貸して」

 拓海はコップを奪うとマスクを外して匂いを嗅ぐ。まったくの無臭だ。どんなに集中して嗅いでも、何の匂いもしなかった。

「匂いなんてしないよ。冷蔵庫に入っていた、いつもの水だよ。きっと気のせいだよ」

「そうかしら」

 麗子は再びコップを手に持って鼻に近づけた。すごい怖い顔をして匂いを嗅いでいる。拓海はこの間、全身から変な汗が噴き出ていた。手のひらに浮かんだ汗をジーンズでそっとぬぐう。

 しばらくして、彼女はほっとしたように表情を緩ませた。

「そうね。確かに気のせいだったみたい」

 麗子はそう言うと、コップの水を喉に流し込んでいった。拓海はそれを見てほっとした。だがまだ、心臓は早鐘を打ったままだった。

 コップを戻すと麗子は言った。

「ありがと。お水飲んだら、少し気が楽になったわ」

「よかった。メロンはどう?」

「そうね。少しだけいただくわ」

 麗子は小さくカットしたメロンを少しだけ食べると皿を戻してきた。

「もういいの?」

「ええ。そこに置いといて。またあとで、お腹空いたら食べるから——。わたし、少し疲れたから、横になってもいい?」

 早くこの場を離れたかったから、ちょうどよかった。

「わかった。ぼくは外の空気でも吸ってくるよ」


 拓海は病室を出るとすぐにマスクを外した。どっと疲れが押し寄せてくる。

「変な匂いがする」と麗子が言った瞬間、思わず椅子から飛び上がりそうになった。これまで経験したことのないほどの衝撃で、寿命が縮んだかのように感じられた。

 なぜ、麗子は、無臭のはずの水に違和感を覚えたのか。死期が迫っていることで、生命を守ろうとする防衛本能が超感覚を目覚めさせたのだろうか——。

 疑問が渦巻いていたところで、麗子の主治医の姿が視界に入った。向こうは気づいていないようだったので、拓海は妻を案ずる夫の顔を演じながら自ら歩み寄っていった。

 主治医は、斎藤という名の医師だった。四十代半ばほどで、毛量の多い髪には白いものが目立っていた。とても知的な顔立ちをしていて、優秀な医師の典型のように見えた。そしてこの医師にもまた、人を見下すような、医者特有の高慢さが見え隠れしていた。

「斎藤先生」

「ああ桜井さん、どうもこんにちは。今日も奥様の、お見舞いですか。ご苦労さまです」

 斎藤の薬指には、結婚指輪がはまっている。おそらく、美人の妻に違いない。彼の家庭像は容易にイメージできた。子どもは二人。二人とも、有名な私立校に通う優等生。家族四人で高級住宅街に住み、二台の高級車を所有。当然、外国車。まあ、こんなところだろう。

「先生、麗子の容態なんですが……」

 聞くと、主治医の斎藤はむずかしい顔をして答えた。

「そうですね……。原因がはっきりしないので何とも言えないんですが、日に日に衰弱していってますよね。当然、免疫力も衰えているでしょうから、いろいろと心配なところはありますね。とくに、心臓が弱っているのが気になります」

「そうですか……」

「ただ、彼女のお母様も、若くしてお亡くなりになってますから、遺伝的なものも考えられますね。まあ、このまま改善が見られないようでしたら、薬を変えてみようかとも思ってます。そのときはまた、奥様といっしょに相談させていただきますので」

「わかりました」

 ここで斎藤は笑顔を見せて言った。

「でも昔から、病は気からって言うでしょ? 笑うことで病気が改善したなんていう嘘みたいな話もあるくらいですから。ですから、定期的に顔を出して元気づけてあげてください。愛する人の顔を見ることほど、体にいい薬はないですからね」

 斎藤の言う通りだと思った。自分も美穂の顔を見ると自然と元気になる。

 主治医が去ると、気持ちが軽くなっていることに気づく。名医だといわれる医者ですら、病気の原因を特定できないのだから——。

 さっきは、薬を入れた水に麗子が反応してヒヤッとさせられたが、さほど心配する必要はないだろうと思った。その証拠に、彼女は気のせいだと納得して水に口をつけたのだから。

「大丈夫だ。心配はいらない。もう少し、あともう少しの辛抱だ——」



       *  *  *



「桜井さん!」

 病院を出たところで背後から声がかかった。

 振り向くと、二十代半ばほどの女の姿があった。一瞬誰かと思ったが、たびたび見かけたことのある看護師だということに気づく。私服姿のため、だいぶ雰囲気が違った。

「奥様のお見舞いは終わられたんですか」

「ああいう状態だからね、あまり長居してもと思って」

「そうでしたか……。奥様、早く良くなるといいですね……」

 肌が白く、そばかすの目立つ看護師は、神妙な顔でそう言った。

「仕事は終わりなの?」

「ええ、ちょっと残業になっちゃったんですけど、やっと帰れます」

「それはお疲れさま」

「ありがとうございます。ところで桜井さんの家では、猫を飼ってらっしゃるんですよね」

「そうだね。もともと妻が飼っていた猫だけど」

「ペルシャ猫ですよね。わたし、奥様に写真を見せてもらったんですけど、とても可愛い猫ちゃんですよね。サクラちゃんでしたっけ? 奥様、いつも猫ちゃんのこと心配されてるんですよ」

 拓海は看護師に質問をした。

「あの、一つ聞きたいんだけど、最近妻の様子で変わったことはないかな?」

「変わったことですか?」

「ああ」

「そうですね……。気になることといえば、匂いにだいぶ敏感になってますね」

「匂い?」

「ええ。お水とかお食事の匂いがだいぶ気になるようで、毎回執拗に匂いを嗅がれるんです。わたしども看護師が匂いを嗅いで問題がないことを確認してからでないと、何も手をつけようとされないんです」

「そうか……。なんか、迷惑かけちゃってるようで申しわけない」

 看護師は大きく手を振って否定した。

「とんでもない。奥様、とてもいい方でいらっしゃいますよ。わたしたち看護師みんなに優しいですし、お身体が大変だというのに、不機嫌な顔もされませんし、不平不満もいっさいおっしゃりませんから。本当に素敵な奥様でいらっしゃいますね」

 拓海は、麗子への賛辞を複雑な思いで聞いていた。なぜなら、自分はそんな立派な人間を殺そうとしているのだ。むしろ、彼女がまわりから忌み嫌われるような人間であってくれたらと思った。

「それに奥様の場合、匂いが気になるからといって、作り直してほしいとかおっしゃりませんし、看護師が問題ないと言えば、ちゃんと口をつけてくれますから。ここだけの話、特別個室を利用される方には、とても横柄な患者様もたくさんおられますから」

 それを聞いて拓海は、金持ちの横柄な患者には苦労するだろうと思った。

「奥様からお聞きしたんですけど、お芝居をされてるとか」

「ええ、まあ」

「わたし、お芝居すごく好きで、友人のお芝居とかも何度か観にいったことあるんです。それを奥様に言ったら、ご主人様のお芝居も観にいってあげてって言われて。今度、観にいってもいいですか?」

「ああ、それはぜひ。今度妻にパンフレット渡しておくから」

「ありがとうございます。楽しみにしてますね」



       *  *  *



 沢尻は自室のデスクに座ると、大型のクラフト封筒から写真を取り出した。

 大きめにプリントアウトされた写真が十枚ほど入っていた。それをデスク上にていねいに並べていく。

 きれいに並べ終えると満足した。いつも頼んでいる連中は、今回もいい仕事をしてくれていた。

 並べた写真を、一枚ずつ見ていく。すべての写真に桜井拓海が写っていた。彼が寝室から盗んだ宝石を店で換金している写真。カラオケボックスの受付に立っている写真。純喫茶で小柄な女と会っている写真。

 沢尻は喫茶店の中で撮られた写真を手にした。構図から、ずいぶん低い位置から撮られた写真であることがわかる。床に置いたバッグか何かの中に仕掛けたカメラから撮影したものと思われる。同席している女の背中越しに、桜井拓海の不安そうな顔がよく撮れている。

 写真を一通り確認し終えると封筒に戻す。それからこの件をどう伝えようかと思案する。考えがまとまると、沢尻は椅子から立ち上がった。

 これから、住み込みで働くメイドの部屋を訪ねるつもりでいた。彼女の大人しそうな顔に似合わぬ淫乱ぶりは、数週間の盗撮で確認済みだった。きっと突然訪ねていっても、すんなり招き入れてくれるだろう。

 沢尻はネクタイを外すとズボンのポケットにしまった。これをどう使うかは、成り行きに任せようと思った。



       *  *  *



「昨日、芝居が好きだっていう看護師の子と、少し話をしたよ」

「ああ……、ヨシザワさんのことね……」

 麗子は辛そうに返事をした。

 彼女の唇はかさついて白くなっている。昨日よりも衰弱しているように見えた。

「ぼくの舞台を観たいって言ってたよ」

「そうなの……、わたしが勧めたの、観にいってあげてって……」

 話すのがだいぶ辛そうだったので、これ以上話しかけるのは控えることにした。拓海は文庫本を手に取った。

 そこへ麗子の手が伸びてきた。

「ん、どうした?」

「拓海さん……、サクラはどうしてる……」

 麗子は愛猫の心配を口にした。

「元気にしてるよ。君の代わりに、ぼくがちゃんと可愛がってあげてるから心配はいらないよ」

「そう、ならよかった……。でもきっと、あの子、わたしがいなくなって不安になってると思うの……。だからよく注意して見ててあげてね」

「大丈夫、安心して。ちゃんと見とくから」

「お願いね……」

 麗子は話し疲れたように大きく肩で息をした。

 それ以上口を開かないのを見て、拓海は文庫本に視線を戻した。

 数行ほど読み進めたところで、麗子が静かな声で言った。

「拓海さん……、わたしのこと、まだ愛してる……?」

「もちろんじゃないか」

 拓海は文庫本に指を挟んで閉じると力強く答えた。

「……本当に?」

「ああ」

「……信じて、いいのよね?」

 拓海は彼女の手を取って答えた。

「麗子、ぼくはあのとき誓ったじゃないか。どんなことがあっても、君のことを愛し続けるって」

「そうね、ごめんなさい、疑ったりして……。だけどわたし、今こんなだから、あなたの気持ちが離れていってるんじゃないかって、不安でしょうがないの……」

 拓海は彼女の手を強く握って答えた。

「麗子、心配しなくていい。今でもぼくは、君のことばかり考えているんだから。はじめて会ったときと同じように、今もぼくは君に恋をしているんだ。ぼくには君しかいないんだよ」

 麗子の目に涙が浮かんでいた。どうやら今の台詞は、狙い通り彼女の胸に響いたようだ。

 せめてもの情けとして、麗子には気持ちよくあの世に行ってもらいたかった。なぜなら麗子には、何の罪もないのだから。たまたま資産家の家に生まれ育ち、運悪く悪鬼がとり憑いてしまっただけなのだから——。だから拓海は彼女が望むのであれば、いくらでも愛の言葉を投げかけるつもりでいた。

 しばらくすると、麗子は眠ってしまった。

 拓海は寝ている彼女の頬に優しく手を置いて言った。

「麗子、明日また来るよ」


 病室を出たところで沢尻と出くわす。三日に一度は、彼も麗子のもとに顔を出していた。

 マスクをつけた沢尻が言った。

「お帰りですか?」

「ええ。だいぶ疲れてるみたいだから」

「そうでしたか。わたしはお嬢様に、お伝えしたいことがございまして」

「お伝えって、何を?」

「それはちょっと、ここでは」

「そうですか……」

 拓海はここで、麗子が警察にマークされているという事実を思い出す。

 いったい麗子は、沢尻とどんな話をするのだろうか——。

「あの拓海様、このあと、お時間ありますか?」

「ええ、大丈夫だけど」

「なら、リムジンが停めてある下の駐車場で待っててもらえますか。それほどお待たせしないと思いますので」

「うん、わかった」

「ではのちほど」

 そう言って沢尻は、ドアを軽くノックしてから病室へと消えていった。

 拓海は病室のドアをじっと見つめた。室内でどのような会話がされるのかが気になった。麗子が何らかの失踪事件——たとえばウェイトレスがいなくなった件——に関与しているのならば、きっと沢尻を使ってのことだろう。今は別の企みごとを、沢尻と相談しているのではなかろうか。もしそれが、自分に関係していることだったら……。

 拓海は、えも言えぬ不安を抱えながら病室を離れていった。


「お待たせしました」

 リムジンの傍で待っていると、沢尻は十五分ほどでやって来た。

 いったい何の用があるのかと訝しみながら聞く。

「あの、話ってのは?」

「ええ、実はですね、ちょっと情報共有だけ、させていただこうと思いまして」

「情報共有?」

「ええ。さっそくお聞きしますが、つい先日、お芝居の稽古帰りに、喫茶店で若い女性と会ってましたよね」

「え!?」

 顔から一瞬で血の気が引いていくのがわかった。

 こちらの動揺を和らげるかのように、沢尻は笑顔を見せてから言った。

「大丈夫です、安心してください。お嬢様には伝えてませんから」

 麗子には伝わっていないと聞いて少しだけ安堵した。

 ただ次の言葉に、再び戦慄が走った。

「あと、お嬢様の宝石を、質屋に預けて換金しましたよね」

「え……、あ、いや……」

 何の言いわけも思いつかず、ただ情けない声だけが口から漏れた。膝に力が入らなくなっていた。これまで築き上げてきたすべてものが、音を立てて崩れていくような錯覚を覚えた。

「どうして、そんな大金が必要だったんですか」

「いや、その……、舞台の準備とかで、いろいろと入用になって……」

「そうでしたか」

 信じたかどうかはわからなかったが、沢尻はそれ以上問い詰めてくることはなかった。だが、ここで、沢尻の真意を察して、みぞおちのあたりがうごめいた。おそらく沢尻は、これをネタにこちらを脅すつもりなのだろう。さらなる深みにはまっていくようで目まいに襲われた。ドロ沼にはまってもがいているような気分になり、息苦しくなった。

 絶望的な気分の中、沢尻が口を開く。

「実はですね、拓海様の身辺を調べるよう、お嬢様に命じられたんです」

「麗子が!?」

「ええ。どういう経緯でそうなったかと言いますと、拓海様の劇団のお仲間が、お嬢様に情報を売ったんですよ。確か、ペットショップだかに、女性と二人きりで行っていた件ですね。それでお嬢様は、拓海様の浮気を疑って、私に命じたというわけなんです」

 やはり、リョウからすべて伝わっていたようだ。

「まだ他にもあります。先日、一人でカラオケに行ってますよね。誰かと会ってたんですか?」

 拓海はさらなる衝撃を受けた。

 あの日も尾行されていたのか——。気づくと足が震え出していた。

 こちらの動揺を見て、沢尻は何かに気づいたかのような顔をした。

「ああ拓海様、勘違いしないでください。私は何もこの情報をネタにして、あなたを脅そうなんて考えていませんから。私がお嬢様に事実をお伝えしなかったのは、お嬢様のことを思ってのことです。本当のことをお伝えしても、お嬢様が苦しむだけですから」

 沢尻の今の言葉に、急に体が軽くなっていくのを感じた。どうやら自分は、完全な思い違いをしていたようだ。

「お嬢様は、今はお身体がああいう状況で、大変辛い思いをされてますから、これ以上辛い思いをされないために、余計なことはお伝えしないほうがいいと勝手に判断させていただきました。あと、これは個人的なことなんですが、私は拓海様に同じ匂いを感じてまして、できれば拓海様のお力になりたいと思っているんですよ」

 面と向かって肯定されたことに悪い気はしなかった。それと沢尻が味方でいてくれるなら、これほど心強いことはないだろうと思った。

「私は、普通の人とは倫理観がズレてるんですよ。極論を言えば、バレなければどんな悪事も許されると思ってますから。仮に今ここで拓海様から、都合のいい女性を調達しろと言われたら私は喜んで従いますよ。ですから拓海様が、裏で何をしようが一向にかまわないんです。私がお嬢様に黙ってさえいれば、平和は保たれるわけなんですから。ただ、ペットショップの一件のように、私以外からお嬢様に情報が伝わる可能性もありますから、できれば慎重に行動されたほうがいいと思いますよ」

「そうだね……」

「それと拓海様。前にも話しましたが、私は裏の人間に強いコネクションがありますから、拓海様が思っている以上のことができます。前のご主人様がお亡くなりになってからは、刺激の少ない毎日を送っておりますので、何かあればぜひ、私を頼ってください。少しグレーな仕事のほうがやりがいがありますし、そういう仕事のほうが、正直、私には向いてると思ってますので」

 沢尻はそう言って不敵な笑みを浮かべた。

「あ、ちなみにですね、お嬢様はリョウという女に、情報と引き換えに百万円も払ったんですよ」

「百万も!?」

「ええ。お嬢様は、情にもろいところがありますから、泣きつかれると断れないんですよね」

 百万とは——。何て強欲な女なんだ。

「ああいう人間は、一度おいしい思いをすると、ますます強欲になっていきますからね。またお嬢様に泣きついてくるんじゃないかって心配してるんですよ」

「確かに……」

「ですが、またタカってくるようでしたら、私がお嬢様に代わって、きつく思い知らせてやるつもりでおりますがね」

 沢尻はそう言って笑うが、目はまったく笑っていなかった。

 拓海はここで確信した。沢尻はこれまで、麗子の指示で何人もの人間を消してきたのだ。今の発言と自信に充ちた顔がそれを物語っていた。おそらく麗子は、沢尻に頼りすぎたのだ。その結果、警察が動き出す羽目になったのだ。さらに、祈祷師の女が彼女に伝えたように、怨念が取り憑き、悪運を招いたのだ。

 拓海はここで固く誓った。自分は麗子の二の舞にはならないようにしようと——。気にくわない人間を容易に始末できる力を手に入れたとしても、決して乱用はしない。麗子と佐藤をこの世から消したら終わりだ。絶対にそれで終わりにする。絶対にだ——。

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