刑事の登場
「佐藤良彦さん、ですよね?」
いきなり声をかけられてビクッとした。佐藤は不審げな視線を、声をかけてきた連中に向ける。
背広を着た二人組の男だった。ともに年齢は三十代半ばくらいか。二人はどことなく似通っていて、どこにでもいそうな平凡な顔つきをしていた。
怪訝に思いながら黙っていると、男の一人が警察手帳を控えめに見せてから言った。
「少し、お時間いただけないでしょうか。いくつかお伺いしたいことがありまして」
「いきなり何だよ。おれは忙しいんだけど」
つい喧嘩腰になってしまった。
警察手帳を見た瞬間から心臓がバクバクと音を立てていた。
「新庄麗子さんはご存知ですよね?」
刑事の口から麗子の名前が出て息が止まりそうになった。とっさに否定しそうになったが、何とか思い留まった。一時期交際していたのは周知の事実だ。否定のしようがない。
「麗子がどうかしたのかよ」
「立ち話もあれなんで、近くでコーヒーでも飲みながら話せませんか」
佐藤は渋々ながら了承した。
「冷めないうちにどうぞ」
佐藤は刑事に促され、プラスチック製の蓋の飲み口を開けてから熱いコーヒーを少しすすった。
三人で四人掛けの席に座っていた。佐藤は壁を背にして座り、刑事二人は通路側だ。
刑事たちが名刺を差し出してきた。名刺には、「警視庁公安部」と記載されていた。佐藤の目の前に座っている男が警部補で、斜め前に座っている男が巡査部長だった。
「公安」という文字に、不安な気持ちにさせられた。映画やドラマの影響だろうが、「公安」にあまりいいイメージはない。
佐藤が黙っていると、警部補が口を開いた。
「プライベートな話で恐縮ですが、佐藤さんは以前、新庄麗子と交際されておりましたよね?」
「もうずいぶん前の話だよ」
見ると、斜め前の巡査部長は、ボールペンを使って手帳に何やら書き込んでいる。どうやら彼は書記役のようだ。
「別れてからは、いっさい連絡をとってない。で、麗子がどうかしたの?」
「ここだけの話にしていただきたいのですが、実は新庄麗子が、ある犯罪に関与している疑いがありまして」
「犯罪?」
驚くのと同時に安堵した。自分が捜査対象ではないことがわかったからだ。
「あの女、何をしたの?」
「すみませんが、それは申し上げられません」
それは当然だろうと思ったが、どうしても知りたかった。内容のいかんによっては、今進行中の計画を見直す必要があるかもしれない。
しばらく他愛のない質問が続いた。交際中によく行っていた店、会っていた頻度、麗子の趣味嗜好、性格などを聞かれた。わかる範囲で正直に答えた。
「さらにお聞きしますが、佐藤さんがお付き合いされているときに、新庄麗子のまわりで何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと?」
「ええ」
「例えば?」
「まあそうですね、普通と違うことですね。例えば、彼女の知人がいきなり姿を消したとか」
刑事の言葉に、佐藤は動揺した。
「あの女が、誰かを消したっていうのか!?」
「いえ、そういうわけでは……」
刑事の発言から判断すると、麗子は身近な人物の誘拐、もしくは殺人に関わっている可能性があるようだ。金に物を言わせて、無茶なことでもしたのだろうか——。
仮に麗子が逮捕された場合、遺産はどうなるのか。そこが気になった。
「刑事さん。今の言い方じゃ、あの女の関係者が消えたってことだよな?」
「いえ、ですからそういうことでは……」
刑事は苦笑している。
「悪いが刑事さん、変わったことって言われても、おれには思い当たるふしがない。付き合ってたのも半年くらいだったし」
「そうですか……」
「役に立てなくてすまなかったな」
「いえ……」
しばしの沈黙ののち刑事が口を開く。
「佐藤さん、捜査の件ですが、どうぞご内密に。相手に気づかれないように慎重に動いてますので」
「ああ、わかったよ」
* * *
「ああ……。佐藤さん、今日もほんとすごかった……。あたし、頭の中、まっ白になっちゃった……」
佐藤は賛辞の言葉に満足した。
美穂とのセックスの相性は行為を重ねるごとに高まっていた。彼女は全身が性感帯のようで、時間をかけて愛撫してやると、挿入した瞬間にイクこともあった。イッたあとに謝る姿も愛おしかった。最初はすぐに距離を置くつもりでいたというのに、今では離れがたい存在になってきていた。
美穂はまだ、官能に酔った目をしていた。
佐藤もまったりしていたところで、日中の出来事を思い出した。
「あ、そういえば、今日な、面白いことがあったんだ」
「何?」
「実はな、おれんとこに、警察がやってきたんだぜ」
「え——!?」
美穂は予想以上に驚いた顔をした。
「そんな驚くなよ。別におれが悪さしたわけじゃないんだからよ」
美穂はまだ固まっている。
何だか得意げな気持ちになった。自然と舌も滑らかになる。
「警察が聞きにきたのは、前におれが付き合ってた女についてなんだ。まあ警察手帳を見せられたときはさすがにビビったが、警察っていっても同じ人間なわけだから、今思えばそんなビビる必要もなかったんだよな……。でも誰だってビビると思うぜ、いきなり警察手帳を見せられたら——。でな、警察が言うには、おれの元カノのまわりで、人が消えてるっていうんだ。消えてるってことは、おそらく殺人だとおれは思うんだよな」
美穂の顔から血の気が引いていた。感受性が強いのだろう。こういうことに、わかりやすく反応する姿が愛おしく思えた。
「おい。顔色悪いけど、大丈夫か?」
「う、うん。大丈夫。何か警察って聞いて、怖くなっちゃって……」
「まあそうだよな。警察が訪ねてくるなんて、一生に一度あるかどうかって話だろうからな。ま、今の、殺人ってのは、おれの推測であって、元カノに何の容疑がかけられてんのかは正直わかんないんだ。ただ、おれに会いにきた刑事が、そんなことを仄めかしてただけでな」
美穂は固まったままで、相づちを打とうともしない。
「けど、公安が動いてるってのが気になるな……。公安って知ってるか? わかりやすく言えばスパイだ。アメリカのCIAみたいな組織だな。けど公安が、誘拐や殺人なんかで動くことはないだろうから、きっと単純な事件じゃないのかもしれないな」
「そう……」
「あとその女、超がつくほどの金持ちなんだが、そういうのもあって、公安が動いてるのかもしれないな」
「その人……、お金持ち……なの?」
美穂が唇を震わせながら聞いてきた。
「ああ、とんでもない金持ちだ。親から莫大な遺産を受け継いだんだ」
美穂が怯えたような目をしていた。顔色もさらに悪くなったように感じられた。つい今しがたまで健康そのものという顔をしていたというのに、今では病人のように青白い顔をしている。
「おい。本当に大丈夫か?」
「ごめんなさい、まだ動揺が収まらなくって……。ちょっと、お水飲んでくる……」
美穂はベッドを降りると、ドリンクが入ったミニバーに向かっていった。
佐藤は形のいい尻を眺めながら、語って聞かせた体験談が予想以上の反応を得たことに満足した。
* * *
拓海は稽古場から出てすぐに彼女の存在に気づく。
暗がりでもすぐに美穂とわかった。彼女はセルフレームの眼鏡とニット帽といった姿で、電柱の陰に身を潜めていた。
拓海は、美穂が近づいて来ようとするのを軽く手で制した。それから親指と小指を伸ばした手を顔の横に持っていき電話をするという合図を送ってからその場を離れた。
怒りで頭に血がのぼっていた。直接会いにきたのは軽率な行動だ。LINEも携帯番号もブロックしていたとはいえ、緊急事態であれば公衆電話を利用して連絡をすればよかったのだ。そのほうが直接会うよりもリスクは断然低いのだから——。
拓海は近くに不審な人間がいないことを確認してからスマホを取り出した。憤りを押し殺しながら美穂に電話して、近くの喫茶店を指定した。駅とは反対方向にある喫茶店だったから、劇団員たちはまず利用することはないはず。要件を手短に伝えると、すぐに電話を切った。念のため、発信履歴も削除した。
奥の二人掛けの席で待っていると美穂が店内に入ってきた。
「たっくん、ごめんなさい。連絡しちゃいけないのはわかってたんだけど、どうしても伝えておきたいことがあって」
美穂の取り乱した様子を、店主らしき五十代半ばくらいの女が怪訝な顔で見ていた。何人かの客も彼女に注目している。店内が狭いだけに、客の注意を引きやすいのだ。
「美穂、とりあえず座ろう。話はそれからだ」
「う、うん。わかった……」
美穂は座ると、店主らしき女にカフェラテを注文した。
注文した飲み物がくるまで拓海は黙っているつもりだった。飲み物を運んできた店の人間に、話を
美穂が心配そうに聞いてきた。
「……怒ってるよね?」
「重要な話なんだろ? 頼んだドリンクが来たらゆっくり話を聞くよ」
拓海は強い口調にならないよう注意しながら言った。
店内はかなり静かで、低音で流れているクラシック音楽がはっきりと聞き取れた。席は全部で十五席ほど。文庫本を読んでいる者、スマホに見入っている者など、一人客がほとんどだ。二人連れの男女も一組だけいたが、こちらに話が聞こえないほど静かに会話していた。
この店を選んだことを拓海は少し後悔した。美穂との会話を聞かれぬために、少し騒々しいほうがよかったからだ。
二人のテーブルにカフェラテが置かれた。
拓海は店員がテーブルを離れるのを待ってから口を開いた。
「で、今日はどうしたんだい?」
「たっくん、落ち着いて聞いてね」
真剣なまなざしに、かなり重要な話だと察した。
美穂がまわりを気にするように小声で言った。
「あの女が、警察に、マークされてるらしいの」
「何だって!?」
拓海は思わず高い声を上げてしまった。文庫本を読んでいた女性客がちらりと視線を向けてくる。
今の言葉は、想像をはるかに超えていた。脳がショートしたかのように、頭の中がまっ白になっていく。
「この話、佐藤から聞いたの」
「佐藤から!?」
情報の出どころにも驚く。
「うん……。昨日お店に佐藤が来たんだけど、そのとき聞いたの……。たっくんは、あいつから、何も聞かされてないんだね」
「あいつ、何考えてるんだ。そんな大事なことを黙ってるなんて……。ちなみに麗子は、何で警察にマークされてるんだ?」
「何かね、佐藤が言うには、あの女の周りで行方不明の人がいるらしいの」
「え——!?」
拓海は顔から血の気が引くのを感じた。
こちらの動揺が伝わったようで、美穂が怯えた様子で聞いてきた。
「たっくん、何か心当たりでも、あるの?」
「わからない……。ただ、一つだけ、気になることがある……」
拓海は、ウェイトレスの件を話して聞かせた。
今度は美穂が、大きく動揺する番だった。
「そ、そんなことが……」
「前に尾行されてたって言ったろ? あれはもしかすると、警察だったのかもしれないな……」
「警察が、たっくんを……」
「そう。あの女の周辺にいる人間を調べてるのかもしれない」
二人の間に重苦しい空気が流れた。
しばらくして美穂がぼそっと言った。
「一人とは限らないかも……」
「え?」
「だから、レストランのウェイトレス以外にも、あの女の周りから、いなくなってる人がいるんじゃないのかな……。一人や二人なら目立たないかもだけど、あの女の周りから、たくさんいなくなった人がいて、それで警察に目をつけられるようになったんじゃ……」
拓海は美穂の推測を聞いて急に怖くなった。ここで文庫本を読んでいた女と再び目が合った。女が麗子の回し者ではないかという疑念が湧く。だが彼女は、自分より先にこの店に来ていたはず。なら他の者はどうだ? 自分よりあとに店に入ってきた客は誰だったろう? そうだ。入り口付近の窓際に座っている、青いナイロンジャージを着ている男がそうだ。何気ない顔でスマホをいじっているが、どうにも怪しく思えてしまう。
「でも佐藤は、何でたっくんに言わなかったんだろ?」
「きっとあれだ。警察が動いてると知ったら、ぼくが怯んで計画を投げ出すんじゃないかと心配したんじゃないか。だから言わなかったんだろうし、今後も言うつもりはないだろうと思う」
話しているうちに、佐藤に対する怒りが込み上げてきた。
手をこめかみに当てがう。偏頭痛が襲ってきたからだ。
「たっくん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ……」
偏頭痛は一度始まると、しばらく痛みが収まらない。頭痛の原因を持ってきた目の前に座る美穂にいくらか怒りを感じたが、その怒りが伝わらないように無理に笑顔を作った。
「これから、どうするの?」
美穂が不安げに聞いてきた。
「どうするも何も、もう計画は終盤にきてるんだ。今さら後戻りはできないよ……」
もし今、麗子が逮捕されてしまったら、例の薬を飲ませられなくなる。収監中に麗子が回復したら、また一からやり直しだ。これまでの苦労が水の泡と化す。ならば、麗子が収監される可能性も考慮して、計画に微調整を加える必要があるのかもしれない。
気づくと喉が渇いていた。グラスの水を口に運びかけたところで手が止まる。ここで美穂と目が合う。彼女の顔はこわばっていた。真意を悟ったからだろう。
拓海はグラスを置くと言った。
「ここ最近、人が入れたものを飲むのが怖くなってきてるんだ……」
「わかる。あたしもそうだから……」
どうやら今回の計画を通して、二人して同様の問題を抱えてしまったようだ。自分も同じ目に遭うのではないかと不安に思うのは当然のことだろう。
「まさか、水を飲むのが怖くなるなんて思わなかったよ……。ぼくたちは大金を得る代わりに、失うものも大きいのかもしれない……」
「そうかもね……」
美穂がグラスの水を見ながら同意した。
拓海は続けた。
「強い薬には、必ず強い副作用があるのといっしょかもしれないな」
「うん……」
拓海は猜疑心を振り払って水を飲み干した。
ここで美穂が、恐る恐るといった様子で言ってきた。
「たっくん、怒らないで聞いてね……。もうこれ、終わりにできないかな」
「え——!?」
拓海は予想外の発言に固まってしまった。
黙っていると美穂は続けた。
「もう終わりにして、リセットするの。もちろん百万円もあげられないけど、あたし、このままキャバの仕事も続けて、できるだけたっくんのことサポートするから」
何を今さらと思った。もうそんなことを議論する時期ではないというのに——。
だが、美穂には意見する権利があるのは間違いない。なぜなら、この計画のために、人一人殺しているのだから。
「あたしね、何だか悪い予感がしてならないの……」
どうやら美穂は、本気で計画の中止を望んでいるようだ。きっとそれを伝えたくて、リスクを承知で会いに来たのかもしれない。電話ではなく、目を見て直接説得したかったのだろう。だがまた、生産性のない生活に戻る気はなかった。せっかく無駄な労働から解放されたというのに、好き好んでもとの生活に戻る馬鹿はいない。今の生活を放棄するということは、天国を捨てて地獄に舞い戻るようなものだ。そんなことをするのは、愚かなマゾヒストだけだ——。
「美穂、君が不安になるのは当然だ。こういう状況だからね。でも、ぼくを信じてほしい。何度も言ってるけど、これは二人のためなんだ。ぼくら二人の未来のためなんだ。だから、ぼくを信じてもう少しだけ我慢してほしい。君のためにも、絶対に成功させるから」
「わかった」
美穂は悲しげな笑みを浮かべて答えた。
不安がぬぐい切れていないのは明らかだ。だが、麗子の死は迫っている。もう一押しなのだ。もう一押しで、彼女の遺産を手にすることができる。あとほんの数か月の我慢なのだ。目の前にゴールが見えているというのに、ここで止めるという選択肢は絶対にない——。
「美穂、今日はもう別れよう。長時間いっしょにいるのは危険だ」
「うん、わかった……」
美穂の表情を見て胸が痛んだ。
拓海は感情に流されぬように気を強く持つ。
「あと、ぼくは今、尾行されてる可能性があるから、別々に店を出たほうがいいだろう。念のため、尾行に注意しながら帰ってほしい」
「わかった」
財布を取り出そうとする美穂を制して拓海は言った。
「ここはぼくが払っておくから、気をつけて帰ってほしい。ぼくはここで、適当に時間を潰してから帰るから。それと今後また、今日みたいに緊急に連絡を取りたい場合は公衆電話から連絡してほしい。いいね?」
* * *
Gメールの下書きをスマホで確認すると、佐藤からのメッセージが書き込まれていた。ただ一言、「順調か?」とだけあった。
拓海はそれを見て苦笑した。警察が麗子の件で訪ねてきたことについては、まったく触れる気はないようだ。美穂を送り込んでいなければ、こちらは何も知らずにいたということだ。もともとないに等しかった佐藤への信用度は、ここにきてマイナスになった。今後は彼のことを全面的に疑ってかかる必要があると思った。
拓海は相手からのメッセージの下に一行空けて、「順調です。」とだけ書いてスマホを閉じた。
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