尾行

 麗子がとうとう入院することになった。衰弱ぶりがひどくなったからだ。

 顔は直視できないほど、やつれて青白くなっていた。死が目前に迫っていることが、はっきりと見て取れた。先日受けたお祓いも、これまで試してきた民間療法の数々も、まったく効果はなかったようだ。

 気の毒に思わなくもなかったが、ゴールが近づいてきたことを実感して、拓海は少し興奮していた。そのせいか、最近、寝つきが急に悪くなっていた。悪夢も再び見るようになっていた。麗子の死が迫っているという事実に、メンタル面が影響を受けているのかもしれなかった。

 入院先は都内の私立病院。彼女が利用する部屋はもちろん個室だ。木目調で統一された、高級ホテルの一室を思わせるような豪華な部屋だった。沢尻に聞くと、一日の利用料は三十万円ほどだという。十日で三百万円、一か月で九百万円だ。一月の入院費で、外車がさくっと買えてしまう。目がくらむような金額だ。だが、それだけの大金を病院に落とすというだけあって、驚くほどの厚遇ぶりだった。こんなところでも、金の有る無しの違いを思い知らされた。


 麗子の病室は、特別棟と呼ばれる場所にあった。そこへは一般病棟とは別のエレベーターを利用する必要があり、一般の入院患者や見舞客は利用できないため、特別棟を訪れる際は、少しだけ得意げな気持ちにさせられた。

 拓海は毎日のように麗子を見舞った。毎回いつも一時間くらいいた。最近の彼女は口数が減っていたから、冒頭に少しだけ会話して、あとはお互い、スマホを見るか、読書をするかだった。もういい加減、話すこともなくなっていたから、読書で時間を潰せるのはありがたかった。拓海はこの時間を利用して、昔ハマった村上春樹をもう一度読み返していた。

「拓海さん、毎日来てくれてありがとう」

「当然だよ。君が元気になるまで、毎日欠かさず来るからね」

「でも、ごめんなさい……。わたしがこんなだから、来てくれても退屈でしょ?」

「そんなことないよ。それより、ぼくのためにも早くよくなってほしいな。退院して元気になったら旅行でもしようよ。新婚旅行以来、遠出をしてないからさ」

「そうね……、そのためにも、元気にならないとね」

 喋り疲れたのだろう。それっきり麗子は目を閉じて黙ってしまった。

 毎日見舞いに訪れていたのは、良き夫を演じるだけでなく、例の薬を飲ませる必要もあったからだ。

 麗子の治療は、抗生物質の点滴と、飲み薬の服用だった。薬は日増しに増えていた。赤や青、黄色といった、さまざまな色をしたカプセルや錠剤が彼女の体に入っていく。

 万が一、それらの薬が効いてしまっては、計画が頓挫してしまう。だから拓海は、彼女に気づかれぬように、病室の水差しに薬を垂らすことを忘れなかった。

 すでに麗子の顔に、生気はなくなっていた。誰が見ても、死期が迫っていることがわかるほどに——。もうじき彼女は死ぬ。だが、罪の意識は少なかった。薬を使った方法のためか、自分で手を下した感じがあまりなく、どこか他人事のように感じられた。おそらくこれが、刃物や銃を使ったとあれば、殺人を生々しく感じられて精神的負担も大きかったかもしれない。

 拓海はベッドに身を寄せて、麗子の髪を優しくなでた。あれほど美しかった黒髪が、今では痩せてだいぶパサついていた。栄養が髪まで行き届いていないのだろう。ブラシをかけてあげれば喜ぶだろうか? だが、心と体が弱っているときに余計な干渉をしても、かえってストレスになるだけかもしれない。そっとしておくのが賢明か——。

 拓海が再び読書に戻ったところで、看護師が病室にやってきた。背筋がすっと伸びた、清潔感のある女性だ。彼女は手際よく薬の準備をすると、五種類くらいのカプセルや錠剤を麗子に手渡す。そして看護師は、新しい紙コップに水差しの水を入れて麗子に差し出した。

 拓海は彼女が紙コップの水で薬を飲む姿を見つめながら、薬を飲むための水で命が削り取られている事実に、ブラックユーモアを感じずにはいられなかった。



       *  *  *



 拓海は稽古場に向かって歩いていた。

 近場の大通りでタクシーを降りて、そこから稽古場までは、いつも歩くようにしていた。経済的に苦しい思いをしている劇団員たちへの配慮だった。稽古場にタクシーで乗りつければ、彼らが複雑な思いをするのは明らかだからだ。

 夕方だけあって買い物客が多く、商店街は賑やかだった。拓海は商店街を歩きながら、気分よく稽古場に向かっていく。麗子が入院したことで自由な時間が増え、気持ちは解放的になっていた。リョウの件で多少ごたついたが、計画はおおむね順当だ。佐藤が懇意にしている弁護士も美穂のおかげでわかり、見通しはだいぶ明るかった。あとは麗子の遺産が入りしだい、佐藤の件は対処すればいいだけのこと。クライマックスが近づいていることを実感できて自然と気分は高揚してしまう。

 稽古場まで、あと二、三分といったところで、ふと、通り過ぎたばかりの洋菓子店が気になり、きびすを返す。団員たちに差し入れでも持っていこうと思ったからだ。

 と、そのときだ。背後にいた男と目が合った。男との距離は十数メートルほど。男は目が合った瞬間、明らかにこちらに反応して一瞬立ち止まりかけたが、すぐに視線を外し、何事もなかったかのように歩き出す。男は薄手のブルゾンにジーンズという格好をしていたが、三十代後半くらいの年齢に思えた。どこにでもいるような平凡な顔つきで、存在感は至って希薄だった。

 拓海も洋菓子店に向かって歩き出す。だが、前方から向かって来る男からは視線を外さなかった。こちらが直視しているというのに、男は不自然に思えるほど目を合わせようとはしなかった。男とすれ違う。拓海は視線を外さぬまま、立ち止まって男の背中を追う。男は少し先の交差点で左折し、姿は見えなくなった。

「ぼくはあいつに、尾行されてたのか……」

 男の今の反応は、こちらを尾行していたからこその反応だと考えたほうがしっくりきた。いきなり目が合ったからといって、あの反応は少し異様に感じられたからだ。

 尾行される心当たりがあるとすれば、麗子か佐藤かの、二人だけだ。この二人以外には考えられない。もちろん動機だけで判断するなら、ここにリョウも加えることができる。だが資金的な面で、彼女が探偵を雇う余裕などないだろう。やはり、麗子か佐藤かの二人に絞られる。そして可能性が高いのは、麗子のほうだろうと思った。浮気を心配した麗子が、探偵を雇ったと考えるのが自然だった。

 拓海は少し呆然としながら稽古場へと向かう。すでに差し入れを持っていく気分ではなくなっていた。

 自分の思い過ごしであってほしかったが、尾行されていたという思いは確信に近かった。もし、今のが尾行だとしたならば、最大の問題は、尾行が、、だ。結婚後の不貞の数々を思い出して背筋が凍る思いがした。

 麗子のことを甘く見過ぎていたのかもしれない。考えてみれば、計画が完遂するまでは、美穂に会うべきではなかったのだ。これまでの、自分の軽率な行動を悔やんだ。仮に、美穂とのことがバレて離婚ということにでもなれば、これまでの苦労は水の泡と化す。離婚されて金も入らず、その上後日、麗子が死んだとあっては、まったくもって無駄な殺人になってしまう。それだけは絶対に避けたい。だから今さらではあったが、今後は美穂との連絡は断つなどして、これまで以上に慎重に行動していこうと思った。

 さっそく行動に移すために、拓海は稽古場のあるビルの前で立ち止まってスマホを取り出した。それからLINEを開き、文章を打ち込んでいく。

 余計な心配はさせたくなかったが、美穂には正直に尾行の事実を伝えることにした。それを理由に連絡の制限をかけるむねを伝え、佐藤の件は、彼女の裁量に任せることにした。美穂は馬鹿ではないから、あまり無茶な真似はしないだろう。

 完成した文章を送信すると、すぐに、〝既読〟がついた。それを確認してから送信したメッセージを削除して美穂をブロックした。次に、彼女の電話番号も念のため着信拒否に設定した。

 あと佐藤にも、この件を報告する必要があった。尾行の事実を伝え、今後、会うのを控えるよう提案しなければいけない。会わないとなると、毎月の三十万をどうやって彼に渡すか——。銀行振り込みにすると記録が残るから賢明ではないかもしれない。後日まとめてでは、きっと彼は納得しないであろう。

 何かうまい方法を考えなければならなかった。



       *  *  *



 佐藤と電話で相談した結果、毎月渡していた金の件は、三か月分をまとめて先払いするということで合意した。これで、彼と会う頻度が減り、リスクを軽減できる。

 三か月分なので九十万円。他に、麗子に飲ませる薬代に三十万円が必要だった。そろそろ、なくなりかけていたからだ。

 薬代を入れて、総計百二十万円が必要だった。しかし、これまで興信所の利用などで、さんざん金を使ってきたから蓄えはほとんどなかった。だからといって佐藤には、そんな言いわけは通じないだろう。毎月百万円をもらっているという事実だけを見て、彼はいっさい譲歩しないはずだ。そのため、どうにかして金を工面して要求通りの金を渡す必要があった。

 それで拓海は今、麗子の寝室に忍び込んでいた。忍び込むといっても、妻の寝室に夫が入るだけだから、さほど問題はなかったのだが、目的が目的だけに、寝室には一応人目を忍んで入った。

 なぜか心臓はバクバクと音を立てていた。入院している麗子が寝室に入ってくることはないし、夜のこの時間に使用人が入ってくることはまずあり得ない。ゆえに心配する必要などなかったのだが、落ちつかない気分にさせられた。空き巣には向いてないなと思いながら部屋の奥へと向かう。

 拓海は、鏡台の前に歩み寄る。そして鏡台の引き出しを開けると、想像以上に多くの宝石類が収められていた。こうやってじっくり見るのは初めてだった。きっと、購入したことも忘れてるモノも多いに違いない。拓海は記憶を呼び起こして、なるべく麗子が身につけていなかったものを慎重に選んでいく。とりあえず今回は、盗み出すのは四分の一くらいに抑えておくつもりでいた。それだけでも換金すれば、数百万円にはなるだろうと思った。

 もし、宝石類の紛失に麗子が気づいて騒ぎ出したら、自分は完全にしらを切り通し、屋敷のメイドの仕業にするつもりでいた。とはいえ、おそらく麗子は、このまま入院先で息を引き取るに違いなかったから、彼女の宝石類を換金しても、大ごとにはならないと思った。死期が間近に迫った病人が、着飾る必要などないのだから——。



       *  *  *



「おやおや。これはだいぶ面白くなってきましたね」

 沢尻はノートパソコンに映る映像を観ながらつぶやいた。

 ディスプレイには、拓海が宝飾品を物色している様子がはっきりと映し出されていた。

「バレたら、どんな言いわけをするつもりですかね……。それにしても、想像を超えたことをしてくれますね、あなたは——。でも嫌いじゃないですよ、そういうところ」

 果たして、配偶者の持ち物を盗んだ場合でも罪に問われるのだろうか——。

 沢尻は愉快な気持ちのまま観察を続けた。



       *  *  *



 盗み出した宝石類を換金したことで、簡単に五百万ものまとまった金が手に入った。

 金は記録が残らないように、現金のまま隠し持つことにした。今後もいつなんどき、不要普及の出費があるかわからないから、まとまった金があるのは心強かった。

 佐藤に連絡を取り、金の受け渡しを相談したところ、相手の強い希望で直接会って渡すことになった。コインロッカーや宅配便などを利用した方法は却下された。受け渡し場所は、稽古場近くのカラオケボックスになった。 

 稽古が終わると、拓海は約束のカラオケボックスへと足早に向かった。先に佐藤が、部屋を確保して待っていることになっている。

 到着すると、エントランスをくぐる前に、何気ないフリを装って周囲を見渡す。とくに怪しい人影はなかった。尾行はなかったと思うが、幾ばくかの不安は残った。店に入ると、受付で手続きをする。一時間の利用時間で部屋を借りた。ワンドリンク制だったので、ジンジャーエールを頼む。あえて部屋を借りたのは、一人カラオケを装うためだ。

 二階の部屋に入って、ドリンクが来るのを待つ。すぐに店員がドリンクを運んできた。グラスを持って一気に三分の一ほど飲み干してから、佐藤が待つ部屋に向かった。

 エレベーターを三階で降りて、312号室を探す。目的の部屋の前まで来ると、佐藤の歌声が聞こえてきた。扉から中を覗くと、彼は部屋の奥に座って米津玄師の曲を熱唱していた。扉を開けて中に入ると、佐藤は唄うのを止めた。

「よう。早かったな」

 佐藤がマイクを置いた。

 四人も入れば満杯になるくらいの狭い部屋だった。拓海は手前の席に座った。

「金は?」

「もちろん、ちゃんと持ってきましたよ」

 だが、すぐには金は出さず、拓海は前もって用意していた言葉を告げた。

「佐藤さん、今日なんですけど、薬代の他に三か月分を渡すと電話で言ってたじゃないですか。でも思ったんですが、なるべく会う機会を減らしたほうが安全だと思うので、今日は三か月じゃなくて四か月分用意してきました」

「ほう。そりゃだいぶ気前がいいこったな」

 佐藤の目が輝いていた。予想通りの反応だった。

 彼に渡す金が三十万円多くなったことで、一見余計に払っているように見えるが、払うべき金を先払いしただけで、こちらに損はいっさいない。結局払う金なのだから、早いか遅いかの違いでしかない。それに、百二十万円よりも、百五十万円のほうがキリがいいと思ったのも理由の一つだった。五百万円もの臨時収入が入ったことで大胆な行動ができたのだ。

 拓海は肩に掛けてきた革製のリュックから厚みのある封筒を取り出した。佐藤に渡す百五十万円が入っている。百二十万円が四か月分の佐藤に払う金で、残りの三十万円が麗子に飲ませる薬代だ。

 封筒の厚みで百五十万円あると確信したのだろう。佐藤は封筒の口から中身を覗いただけで数えることはしなかった。代わりに封筒の重みを確認するかのように、手のひらに乗せた封筒を上げ下げして見せた。だいぶ満足している様子だ。

「ほらよ」

 佐藤が小瓶を渡してきた。

 拓海は受け取った小瓶を光に透かすように見ながら軽く振る。小瓶の中の液体が揺れる。

 リュックに小瓶を仕舞っていたところで佐藤が言ってきた。

「しばらく会わないとなると、近況をどう報告し合うかだな。お前としては、電話もなるべく避けたいって言うんだよな」

「ええ。尾行されてたのは間違いないと思うんで、念には念を入れたほうがいいと思うんです。だから電話とかメールとかいった、記録が残るようなやり取りは控えたほうがいいかと」

「確かにそうだな。慎重になることはいいことだとおれも思う。それでな、いい連絡方法を思いついたんだよ」

 佐藤が提案してきたのは、Gメールの、下書きを利用する方法だった。互いが、同じグーグルアカウントでGメールにログインして、下書きだけで連絡を取り合う。この方法だと、実際に送信する必要がないから、送受信の記録も残らない。とてもいいアイデアに思えた。反対する理由は見つからなかった。

「いいですね。その方法でいきましょう」

「でな。すでに専用の、グーグルアカウントを作ってきたんだ」

 佐藤はそう言って、小さなメモ用紙を手渡してきた。


 satoutosakurai@gmail.com

 PW:4170imuya


 メールアドレスは、「佐藤と桜井」をローマ字にしたものだった。かなり安易なアドレスだったがとくに問題はなさそうだ。パスワードもすぐにピンときた。反対にすると、ayumi0714。おそらく、アユミという女と会っているときにでも、その女の誕生日を聞いて作ったのではないかと思った。こちらも安易すぎて苦笑した。アユミという女は、興信所が報告してきた、佐藤が定期的に会っている女かもしれない。

 佐藤が口を開く。

「あのな、桜井。おれたちはこれまでも、月一回しか会ってこなかったんだ。だから毎日のようにログインする必要はないだろう。週に一回……。そうだな、日曜日に必ずログインして、下書きを確認するってことでどうだ?」

「わかりました。それでいきましょう」

「一応時間も決めとくか。そうだな、日曜日の、夜九時以降にでもするか。だから、もし連絡したいことがあれば、日曜日の夜九時までに下書きに書き込んどいてくれ」

「わかりました。じゃ、次会うのは四か月後ってことで」

 佐藤はここで、意味ありげな笑みを浮かべて言った。

「次会うころには、あの女の遺産は、お前のものになってるかもな」

「ええ。そうなることを、ぼくも祈ってますよ」

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