戦慄の言葉
「拓海さん、あそこのパスタが食べたい気分なんだけど」
ベッドに横たわったまま麗子が言った。
ところが、とても外出ができるような体調ではなかった。
「麗子、無理をしないほうがいいよ。それに前回の件を覚えてるだろ? 窓際の席を拒否されたことを。もうあの店員の顔は見たくないな」
「大丈夫よ。彼女、いなくなってるから」
「え!?」
麗子の言葉に戦慄が走る。いなくなっている——。
拓海は恐る恐る聞き返した。
「そ、それって、どういうこと……。どうして君に、そんなことがわかるんだい?」
麗子は何でもないという風に首を横に振って見せた。
「ううん。そんな深い意味はないの。ただ何となく、そんな気がしただけ。でも、わたし、こんなだし。行きたくても行けないけどね」
拓海は動揺を抑えながら言った。
「今度、テイクアウトできないか聞いてみるよ」
* * *
「一名様ですか?」
店に入ると、小柄なウェイトレスが声を掛けてきた。とても愛想がよく、ベージュのエプロンがとてもよく似合っている。
パスタのテイクアウトが可能か聞くと、ウェイトレスは心底すまなそうな顔をして答えた。
「お客様、申しわけございません。パスタのテイクアウトはやってないんですよ。でもタルトなら、テイクアウトできますよ」
「じゃ、タルトをもらおうかな」
ウェイトレスから、店内入口のショーケースを示されたため、拓海は並べられたタルトに目を向けた。
テイクアウトの有無など電話で確認できたのだが、拓海にはどうしても他に確認しておきたいことがあった。
拓海はタルトが並ぶショーケースの前から店内の様子をうかがう。やはり麗子が言った通り、例の店員は見当たらない。しかし、当然毎日出勤してるわけではないだろうから、いない日があってもおかしくない。今日は休みか、もしくは休憩中かもしれない。すでに辞めてる可能性だってある。飲食店は離職率が高いから、その可能性は極めて高い。
だがしかし、彼女は例の女がいないと確信を込めて言った。いなくなっている、と——。麗子が店にクレームを入れて辞めさせたのだろうか? だからいないことを知っていた。それなら納得がいく。むしろ、そうであってほしかった。その程度なら、金持ちのわがままで済まされるからだ。しかし、麗子のあの言い方からすると、女の身に何かよからぬことが起こったような気がしてならなかった。
拓海は適当に選んだタルトをテイクアウトした。
愛想のいい小柄なウェイトレスは、気持ちよく店を送り出してくれた。前回のウェイトレスとは大違いだった。
* * *
「パスタはテイクアウトできなかったから、代わりにタルトを買ってきたよ。食べる?」
拓海はタルトが入った箱をかかげて言った。
ベッドに横たわる麗子は、弱々しく首を横に振った。
「ごめんなさい、まったく食欲がないの……。悪いけど、メイドさんたちにでもあげてちょうだい」
「わかった。そうするよ。だけど一応一つだけ残しておくから、食べたくなったら言って」
「うん。ありがとう」
最近の麗子は、以前にも増して食欲がなくなっていた。栄養補給は点滴に頼りっきりだった。だが、こちらとしては、とてもいい兆候だった。
拓海は麗子に身を寄せて、彼女の髪を優しく撫でてやる。以前は艶やかだった髪が、いまではだいぶ痩せてパサついている。女性としての魅力は以前に比べて半減している。顔を寄せると彼女の口臭が鼻につく。口臭は死臭にも思えた。
「拓海さん……、もうわたし、先が長くないと思うの……」
麗子はか細い声でそう言った。
「そんなこと、嘘でも言うもんじゃないよ」
「嘘なものですか……。もうすぐわたし、パパのところに行くんだと思う……」
「麗子。弱気になっちゃダメだ」
「拓海さん、わたしが死んでも、わたしのこと忘れないでね……」
「君は死なない。ぼくが保証する。ぼくが絶対に死なせやしないよ」
「ありがとう……」
麗子は小さく微笑んで見せた。
寝室を出るなり、麗子の愛猫のサクラが足元にまとわりついてきた。
サクラの頭をなでていたところで、沢尻がやってきた。彼が現れたとたん、サクラは隠れるように拓海の背後に回った。沢尻が苦笑していた。サクラから好かれていないことを知っているのだ。サクラに限らず、沢尻は他のどんな動物からも好かれることはないだろうと拓海は思った。
自分の主人が病にふせっているというのに、沢尻は今も変わらず感情に乏しい表情をしていた。彼らしいといえば彼らしいが、人間味が感じられない分、薄気味悪かった。
「どうですか、お嬢様のご様子は」
沢尻の質問に、拓海は落胆を装って答えた。
「相変わらずだよ。まったく、改善の兆しもない」
「そうですか」
沢尻も落胆したような顔を見せたが、それはどこか人工的な感じがした。彼は軽く頭を下げてから立ち去っていった。
拓海はサクラを抱き上げると、つかみどころのない男だなと思いながら沢尻の背中を見送った。
* * *
麗子の誕生日を、寝室で二人だけで祝った。
用意したケーキを、ベッドの上の麗子の前に置く。
ローソクはキリよく十本立てた。拓海は一本一本に火を点けていき、点け終わると、「ハッピーバースデートゥーユー」と唄っていった。白々しくならないように、感情を込めて歌うのは大変だった。
拓海は唄い終わったあと、麗子がローソクを吹き消す前に聞く。
「願いごとは?」
「決めたわ」
麗子はそう言ってローソクに息を吹きかけた。ところが、彼女の口から漏れる弱い息ではすべての火は消えてくれず、ローソクの炎が虚しく揺らめくだけだった。重苦しい空気が流れた。
拓海は見かねて、残ったローソクの火を吹き消した。
恥じらうように苦笑している麗子に拓海は聞く。
「麗子、どんな願いごとをしたの?」
「決まってるじゃない。拓海さんの次の舞台も、成功しますようにって」
「ありがとう。そのとき君には、元気な姿で舞台を観にきてもらいたい。約束してくれるかい?」
「ええ、そうね……。約束するわ……」
拓海はケーキを切り分けて、それぞれの皿に取り分けた。二人して無言で食べはじめるが、麗子はほんの何口か口に運んだだけで食べるのをやめてしまった。
「ごめんなさい……、どうしても食欲が湧かなくて……」
「いいんだよ、無理して食べなくて。余った分は、メイドさんたちにでもあげることにするよ」
「そうしてあげて」
麗子はそう言って自嘲気味に笑うと、サイドテーブルに腕を伸ばした。
サイドテーブルには、これまで医師から処方された薬とサプリメントの他に、今では漢方薬がプラスされていた。漢方薬はかなり高価なものらしく、サプリメントの費用も合わせると、月に数十万円はかかっていることだろう。
彼女が服用し始めた漢方薬には高いデトックス効果があるようで、重金属などの、体に溜まった毒素を排出してくれるらしい。実際にどれだけの効果があるかはわからなかったが、漢方という響きは、いかにも効き目がありそうに思えてしまう。そこで拓海は、漢方薬の効果を相殺するために、麗子に与えている薬の量を倍にした。今まで飲み物に一滴だけ混ぜていたものを、二滴にしたのだ。これで漢方薬の効果を無効にしてくれることを願った。
「拓海さん」
「ん、どうした?」
「わたしね、民間療法を試してみようと思うの」
「民間療法か……。でもちょっと、
「わたしもそういうイメージあるけど、でもこのままじゃ、わたしの体は悪くなるいっぽうですもの……」
拓海は今言ったように、民間療法には懐疑的だった。とはいえ、百パーセント効果がないとは言い切れない。劇的な可能性を果たす可能性もある。もしそれで麗子に回復されてしまっては計画が頓挫する。ゆえに当然、乗り気ではなかった。頼むからこのまま大人しく死んでくれ、というのが正直な気持ちだった。だがここで、非協力的な態度を見せるわけにもいかなかった。だから仕方なく、積極的に応援するフリを見せることにした。
「そうだね。回復するためなら何でも試してみよう。ぼくもいろいろ調べてみるよ。それに劇団の仲間に、東洋医学に詳しいのがいるから次会ったときにでも聞いてみるよ」
* * *
麗子は数々の民間療法に手を出し始めた。
これまで試したのは、
それも当然だった。民間療法の効果を相殺させるために、薬の量をさらに増やしたのだから——。例の薬は、期待通りの働きをしてくれたようだ。
そして、民間療法で結果が出ないことでついに、神頼みとなった。
「わたし、お祓いを受けようと思うの——」
麗子のこの一言で、祈祷師が屋敷に招かれることになった。麗子としては、
寝室に麗子を残して、拓海は客間で沢尻と祈祷師の来訪を待っていた。
拓海がスマホを眺めていると、沢尻が言った。
「その界隈じゃ、有名な祈祷師らしいですよ」
「へえ。それじゃ、依頼料も高いんでしょうね」
元が貧乏人の
「一度のお祓いで、三百万だそうです」
「さ、三百万……」
想像していたよりも一桁多かった。拓海は三百万円でできることをあれこれと考えてしまう。
沢尻が続けた。
「しかも、効果が保証されるわけではないそうですよ」
「え!?」
かなり
しばらくして使用人が、祈祷師の女を連れて客間にやって来た。
祈祷師の女は、その職業に相応しく、朱と白の和装姿だった。五十歳前後だろうか。白く塗られた顔は表情に乏しく、少し険しくさえあった。社交的な雰囲気は少しも感じられなかった。
女は拓海の顔を見るなり不審げな顔をした。すべてを見透かされているように感じて、拓海は居心地が悪くなった。
軽く挨拶を交わしてから、沢尻が先導する形で、祈祷師の女と三人で麗子の寝室に向かった。
三人して寝室に入ると、麗子はベッドの上で上体を起こした。そして祈祷師に向かって軽く頭を下げる。
祈祷師の女は、広い寝室をざっと見渡してから言った。
「ここは、霊的にはとてもいい土地ですね。ですから、土地と病気の因果関係はなさそうですね。であれば……」
祈祷師が麗子の顔を見た。彼女はビクッと肩を震わせた。そして怯えた目を祈祷師に向けた。ちょっと普通じゃない怯え方だった。あんな弱々しい麗子の姿を見るのは初めてのことだった。
「原因は、あなたに取り憑いたものが悪さしているからでしょう。ではさっそく、祓っていきましょうか。準備はいいですか?」
麗子は怯える様子でうなずいて見せた。
ここで沢尻が祈祷師の女に聞く。
「われわれは、ここにいても大丈夫でしょうか?」
「ええ、構いませんよ」
祈祷師の女の了承を得て、拓海は沢尻とともに見学することになった。
儀式はすぐにはじまった。祈祷師の女が、ギザギザの白い紙が先端についた棒を前に掲げて振り回し、何やらお経のような言葉を唱えはじめる。すぐに寝室の空気が緊張で張り詰めた。室温も下がったように感じられ、妙に肌寒くなった。祈祷など
祈祷師の女が全身を震わせながら祈祷を続ける。命がけといった言葉がしっくりくるような激しい動きだ。この間、麗子はうつむいて体をこわばらせていた。
二十分は経ったのではないかと思って時計を見ると、まだ五分ほどしか経っていなかった。かなり濃密な五分だ。
しばらくして祈祷が終わった。時間にして十分弱といったところだった。いまだ麗子はうつむいたまま身を震わせていた。
「奥様と二人だけにさせてください」
祈祷師の女にそう言われ、拓海は沢尻とともに寝室を出た。
寝室の外で待っていると、五分ほどで祈祷師の女が出てきた。祈祷師は小さく目礼をすると、もう用は済んだとばかりに玄関に向かっていく。沢尻が見送りのためか、あとに続いていった。
拓海は開いたままのドアから寝室に入った。
見ると、麗子はベッドの上で顔を伏せていた。近づいても顔を上げようとはしなかった。
「麗子、何て言われたんだい?」
聞くと、麗子は顔を上げずに答えた。
「
涙声だった。痩せ細って貧弱になった肩が震えていた。慰めようにも、近寄りがたい空気を強く発していた。声もかけられなかった。
麗子はうつむいたまま続けた。
「わたしね、今までたくさんいけないことしてきたの……。拓海さんにも言えないようなことを、たくさんしてきたの……。その報いを、今受けてるんだって……」
何をしてきたのかは恐くて聞けなかった。だが、これで確信した。麗子はあのウェイトレスを、どうにかしたのだ——。
もし麗子が、これまでの報いを受けているのだとしたら、自分が麗子を殺したあとはどうなるのか。やはり、麗子と同様、報いを受けることになるのだろうか。ドス黒い不安が押し寄せてくる。
「ごめんなさい、しばらく一人にさせて……」
「わかった……」
拓海は彼女を残して寝室をあとにした。
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