冷酷な本質

「拓海さん、今日はとっても調子がいいの。久しぶりに外で食べない?」

 麗子が笑顔を向けながら言ってきた。

 拓海はぎこちない笑みで返す。最近の彼女はちょっと怖い。今見せている笑顔も、魂のない人形が笑っているような、そんな不気味さがあった。だから外食の提案に対しても気が進まなかった。

「青山の、あそこのパスタがいいな。ねえ、どうかしら?」

「ああ。ぼくも今日は、パスタっていう気分だったんだ」

 無理に反対する理由は見つからなかった。仕方なく、喜ぶフリをして了承した。


 食事の前に、麗子の希望で青山の雑貨店に寄った。

 雑貨店に二十分ほど滞在してから、店を出て、行きつけのレストランに歩いて向かった。

 拓海は腕を組む麗子の歩調に合わせて、ガードレールがある歩道を歩いていく。とてもゆっくりとした足取りだ。強い日差しが堪えるのか、彼女は辛そうに目を細めている。ここは大通りから少し離れた裏通りで、低層の高級マンションが立ち並んでいる。

 会話もなく歩いていたところで、麗子がふらっとよろめいた。慌てて抱きかかえた瞬間、拓海は強い衝撃を受けた。つかんだ両腕に、肉のふくらみがまったく感じられなかったからだ。着ている服のせいでわからなかったが、もはや麗子の体は、骨と皮ばかりになってしまったようだ。

「大丈夫かい?」

「ええ、ごめんなさい。もう平気……」

 再び二人して歩き出したところで、前方から男が向かってきた。右手にスマホ、左手には黒い蓋のついたコーヒーカップ。歩調はだいぶ早く、スマホに見入っている。

 拓海は麗子の手を引き歩道の左側に寄って、向かってくる男が通れるスペースを作った。あの様子では、麗子とぶつかり兼ねなかったからだ。そこへ、拓海たちの背後から足早に歩いてきた女が、二人を追い越していく。前から歩いてきた男は、女に気づいて慌てて身をかわした。男の急な方向転換に麗子が反応しきれず、男と接触してしまう。ぶつかった勢いで、男が持っていたコーヒーカップの蓋が外れて中身が飛び散る。麗子が着る白いワンピースに黒っぽいシミが広がった。

「麗子! 大丈夫かい!」

 拓海は慌てて彼女に身を寄せる。

 男にぶつかりそうになった三十代半ばくらいの女は、こちらを一瞥いちべつすると、さも関係がないかのような感じで歩き去っていった。

 麗子は少し呆然としたように立ち尽くしていた。汚れたワンピースからコーヒーの匂いが立ち込めている。

 コーヒーをかけた男はひどく狼狽していた。二十代後半くらいの男で、白シャツの上に細身の黒いジャケットを羽織り、スキニージーンズを穿いていた。足元の白いハイテクスニーカーは新品に見えた。

 男は必死の形相で謝罪してきた。

「すみませんでした! クリーニング代、出しますんで!」

 男は尻ポケットからブランド物らしき長財布を取り出して札を抜き出そうとする。

 それを見て、麗子が無表情のまま言った。

「いいですよ、気にしなくて」

「いや、でも、それじゃ……」

 男は財布を持ったまま困った顔をしている。

 拓海も何も言えずにいたところ、麗子が乾いた笑顔を作って言った。

「なら一つだけ、簡単なことをお願いしてもいいかしら」

「あ、はい。何でも言ってください」

 麗子は乾いた笑みを浮かべたまま言い放つ。

「今すぐ、わたしの前から、消えてくれます?」

「え——?」

 男は予想だにしない言葉を浴びせられて唖然としていた。顔を引きつらせ、どんな表情をすればいいのか困惑しているように見えた。

 拓海も同様に驚いていた。

「あ、はい、わかりました! す、すいませんでした!」

 男は逃げるように去っていった。

 拓海は立ち去る男の後ろ姿を見て、少し気の毒になった。コーヒーをかけたほうに非はあるだろうが、悪質だったわけではない。それにすぐに謝罪をして、誠意を見せようともしていた。それなのにあんな言い方をされたとあっては、深く傷ついたことだろう。

 今のやりとりを見て拓海は、麗子の冷酷な本性を垣間見た気がして寒気を覚えた。

「麗子、大丈夫かい……」

 拓海は気を取り直して言った。

「ええ、平気よ。でもこのままじゃ、お店に入れないわね。せっかくだしこの機会に、新しいお洋服でも新調しようかしら。幸い、近くにショップもいっぱいあることだし」

「そ、そうだね。そうしようか……」

 拓海は動揺を抑えながら答えた。

 この女を早く殺したい——。

 このときはじめて、麗子に対して本気の殺意を覚えた。


 服を新調した麗子と、レストランに入った。コーヒーで汚れた服は、新しいものを購入したショップで引き取ってもらっていた。

 白で統一された、カフェ風のカジュアルな店内は、天井が高く、大きな窓ガラスから外の光を存分に取り込んでいた。広い店内は席数が多く、窓ガラスの奥には緑が広がっている。

 圧倒的に女性客が多かった。みな、落ち着いた感じの服を身につけていて、セレブの社交場のような雰囲気があった。それも当然といえた。一人分のランチが、四、五千円もするのだ。おのずと富裕層が集まってくるというわけだ。

 入ってすぐに、女性の店員がやって来た。タイトな黒いニットを着ていて、胸の形が強調されていた。店員に中央の席を案内された。しかし拓海は、窓際の席を好む麗子のために、窓際の空いている席を見て店員に言った。

「窓際の席がいいんだけど」

「いえ、ここでお願いします」

 店員は有無を言わさぬ口調でそう言った。

 拓海は急に怒りが湧き上がったが、麗子の目に火花のようなものが一瞬散ったのを見て震え上がった。コーヒーをかけられた件もあったから、これ以上彼女の機嫌を損ねたくなかった。だから拓海は引き下がることなく店員に言った。

「でも、窓際の席、空いてるよね?」

「そうですけど、この席でお願いします」

 目の前の女性店員は、自分の決定を覆されるのを心底嫌うタイプのようだ。引くことを知らないから、客と戦ってでも我を通そうとするだろう。こういうタイプの人間は珍しくないが、接客業には向いていないのは明らかだ。とはいえ、こちらは何も、理不尽な要求をしているわけではない。なぜ、空いている窓際の席に座れないのか、納得のいく説明を聞かせてもらわなければ素直に従いたくなかった。

 ここで麗子が割って入ってきた。

「拓海さん。いいじゃないの、この席でも。わがまま言っちゃ悪いわ」

「だけど……」

 納得しかねていると、麗子はニコッと笑って椅子に座った。それから店員からメニューを受け取ると、中を見始めた。

 拓海は店員が去ると愚痴をこぼした。

「何なんだよ、あの子。窓際の席が空いてるっていうのにおかしいじゃないか。やっぱり店長にでも言って変えてもらおうよ」

「いいわよ、今日はこの席で。彼女、きっと、機嫌が少し悪かったのよ」

 さも気にしていない風に言うが、先ほど、麗子の目に怒りの炎が浮かんだのは間違いなかった。

 今の女性店員の対応は、拓海の中でまだ消化しきれていなかったが、正直これ以上麗子と議論するのが怖かった。もし、さっきのような目をされたらと思うと、背筋が凍りそうになった。きっと、あの女性店員も、麗子の目に一瞬だけ宿った怒りの火花を見ていたならば、素直にこちらの要求に従ったに違いなかった——。

 料理を注文して、しばらくして二人分のパスタが運ばれてきた。

 食事中、会話はほとんどなかった。何度か話しかけたが、麗子は曖昧な笑顔を見せるだけで会話は続かなかった。口に運んでいくパスタも、彼女のせいで味わうことができなかった。彼女が本日何度か見せた、あの冷酷なまなざしのせいで味覚が麻痺したかのようだった。

 衰弱していくごとに、麗子の本性が表れていくように感じられた。拓海はここ最近、麗子に対して得体の知れない恐怖を感じていたが、今さらあとには引けなかった。愛する美穂と不自由なく生活するためにも金がいる。

 だが、この緊張も、あと少しで終わりを告げる。あと数か月もすれば、麗子はこの世を去る。今が正念場だった。

 麗子はパスタをほとんど食べなかった。二口かそこらで食べるのをやめ、デザートを頼んだ。だが用意されたタルトも、少ししか食べなかった。

 食後のコーヒーを無言で飲んでいたところで声がかかった。

「拓海さん?」

「ん——?」

 気を抜いていたので突然の呼びかけにビクッとした。

 拓海はコーヒーカップを置いて聞く態勢に入った。

「何?」

「ちょっと言っておきたいことがあって」

 声のトーンから少し嫌な予感がした。

「あのね、拓海さん。わたしがこんなだから、拓海さんも、いろいろフラストレーションが溜まってるとは思うの」

「そんなことないよ」

 拓海は強い口調で否定した。

「いいのよ。全部わかってるんだから」

 わかってる——? 何をわかってるというのだ——。

 計画のことがバレてるのかと不安になる。

「わたし、そんな嫉妬深いほうじゃないと思うの。だから、拓海さんに親しい異性の友人がいても構わないと思ってるの。わたし以外の女の人と、仲良くしないでなんて言うつもりはないの。でもね、拓海さん。わたしが生きてる間だけは、わたしのことだけを見ていてほしいの。お願いだから、わたしが生きてる間だけは、絶対に浮気なんてしないで」

 予期せぬ言葉に、すぐに言葉が出てこなかった。麗子の瞳が妖しく光っている。このとき悟った。麗子は女の影を感じている——。

 直感が告げる。ここ数日で、何が起こったのかを——。

 先日リョウが劇団を辞めた。このタイミングでの、今の麗子の発言は偶然とは思えない。おそらくリョウが、金と引き換えに麗子に情報を売ったのだ。女の影を疑っていなければ、面と向かって浮気をするなとは言わないはず——。とはいえ、リョウが告げ口をしただけならまだどうにでもなる。ホテルに入っていくところを見られたわけではない。決定的証拠は何一つないのだから——。

 拓海は動揺を抑え込んで言った。

「約束する。絶対に浮気なんてしないよ」

「よかった。約束よ」

 麗子はニコッと微笑んだ。それから何事もなかったかのような顔で、タルトを少しずつ口に運んでいく。いつもの麗子に戻っていた。少しだけほっとした。

 拓海は心に決めた。進行中の計画が一段落したら、リョウには罰を与えてやろうと——。

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