久々の外出
麗子は目を細めた。日差しが少し、眩しかったからだ。
一度立ち止まり、スマホで待ち合わせ場所を確認する。あと一、二分で着く。リムジンで登場しては相手に正体を悟られるため、目的地の少し手前で沢尻に降ろしてもらっていた。
一人での外出は久しぶりだった。拓海には伝えていない。彼からの不要な詮索を避けるために、あえて稽古中の時間帯を選んだ。
待ち合わせ場所に到着した。目黒駅近くのスターバックスだ。踏み入れた店内は横に広く、ほぼ満席だった。店内を見渡すが、待ち人の姿はすぐには見つからなかった。
「麗子さん、ここ」
店の奥のほうから声がかかった。彼女は二人掛けの席に座っていた。仲間内からリョウと呼ばれている女で、拓海の劇団仲間だ。麗子は公演の打ち上げで何度か顔を合わせている。今日は彼女から連絡を受けて、ここにやって来たのだ。
麗子は注文したコーヒーをカウンターで受け取ってからリョウのもとへと向かった。
途中、何人かの客から好奇の視線を浴びた。おそらく、恐ろしく痩せた女が店に現れて驚いているのだろう。
「麗子さん、だいぶ、痩せましたね……」
席に着くなり、リョウからそう言われた。こちらの変化に、かなり驚いている様子だ。相手の表情から、本気で心配している感じが伝わってくる。それも当然だろう。前回会ったときから、十キロ以上は体重が落ちているのだから——。
「拓海さんから、麗子さんが体調を崩してるとは聞いてたんですけど、だいぶ悪いんですか?」
「そうね。ちょっとここ最近は、出歩くのもしんどくって……」
「あ、そうだったんですね……。ごめんなさい、それなのに呼び出しちゃったりして……」
申しわけなさそうに謝罪するリョウに、麗子は笑顔を向けて言った。
「いいのよ、気にしないで。むしろ呼んでもらえてよかったと思ってるわ。健康のためにも、たまにはお日様の光も浴びないとね」
「ええ……、日に当たるのは、大切ですもんね……」
リョウはぎこちない笑顔を見せながら言った。
ここで麗子は、斜め後ろを振り向いた。先ほどからキータッチの音がうるさく聞こえてきていたからだ。後ろの席で、スーツを着た若いサラリーマンがノートパソコンと格闘していた。必要以上にうるさくタイピングしているのは何かのアピールにしか見えなかった。
顔を前に向けてリョウに視線を戻す。彼女はだいぶ緊張している様子だ。
麗子はペーパーカップに入ったコーヒーを一口飲んでから聞く。
「さっそくだけど、聞かせてもらえるかしら。あなたが持ってるっていう、拓海さんの情報を」
リョウは待ってましたとばかりに少し身を前に乗り出してきた。
「あの、その前に、聞いてください……。えっと麗子さん、あたし、あのですね、今すごい、お金に困ってて、リボとかそういうのが大変なことになっちゃってて、普通のとこだと、もうお金が借りられないんです……。だからほんとは、タダで教えたいんですけど、そういう状況なんで、拓海さんの情報、買い取ってもらいたいんです……」
麗子は相手の顔をじっと見つめた。リョウは恥じ入った顔をしている。
「で、いくら欲しいの?」
「ひゃ、百万円……」
リョウは言いにくそうに金額を告げた。
「まあ、ずいぶん高いのね」
「あ、はい。で、でも、それだけの価値はある情報だと……。だってその、あたし、その情報を黙ってる代わりに拓海さんにお金を要求したら、逆にあたしのこと調べたみたいで……。それで弱みを握られちゃって、拓海さんに脅されたくらいなんですから……」
「あなたの弱みって?」
聞くと、リョウは少し言いにくそうに答えた。
「あの、実はあたし……、その、立川の風俗で働いてて……。たぶん拓海さん、探偵か何かを雇ったみたいで、あたしがお店に入ってくとこの写真を撮られてて……。その写真を拓海さんから、プレゼントって言われて渡されたんですけど、写真の裏には、実家の住所まで書かれてて……」
麗子はコーヒーを飲みながら黙って聞いていた。
「だから本当は、実家の両親に風俗で働いてることバレるのいやだったんですけど、どうしてもあたし、今お金が必要で……、もうかなりの額、いろんなとこで借りてて……。でも闇金とかに手を出したら、あとが怖いから……。それでもう、麗子さんしか頼む人いなくて……」
「そう」
リョウは緊張した顔でこちらを見ていた。
麗子は白いペーパーカップをテーブルの上に置くと聞いた。
「で、拓海さんの情報って?」
「言ったらお金、もらえます?」
リョウは探るような目で聞いてきた。
麗子は少し考えるそぶりを見せてから答えた。
「そうね。本当は情報しだいって言いたいところだけど、ほんとにあなた、困ってるみたいだから、希望の額を払ってあげるわ。百万よね?」
リョウはぱっと目を輝かせた。
「ありがとうございます!」
「あと、一つ聞いていい?」
「あ、はい」
「百万っていったら、大金よね?」
「え、ええ……。そ、そうですね……」
「わたしって、そんなお金持ってるように見えるのかしら?」
リョウは言いにくそうに答えた。
「あの、その、何ていうか、拓海さんが麗子さんとの結婚後に、目に見えて羽振りがよくなったんで……、それでそれくらい、出せるんじゃないかって……」
「なるほど。そういうことね。納得したわ」
ちょっと待ってて、と麗子は言い残して席を立った。
「はい、これ」
厚い封筒を差し出すと、リョウは目を輝かせながら受け取った。手が少し震えている。
近くの席に座る男が、興味深そうにリョウが手にしている封筒に目を向けていた。
「麗子さん、本当にありがとうございます」
リョウは封筒を掲げながら頭を下げた。
彼女が大金の入った封筒をバッグの中に仕舞ったところで麗子は聞く。
「それじゃ教えてもらえるかしら、あなたが持ってる情報とやらをね」
「あ、はい」
リョウは姿勢を正すと、もったいぶった口調で話しはじめた。
「えっと、実はですね、拓海さんなんですけど、どうやら浮気してるみたいなんです——」
リョウの言葉に、麗子はすっと目を閉じた。
唇をきつく結んでしばらく押し黙っていると、リョウから声が掛かった。
「あの、麗子さん、大丈夫ですか……」
麗子は目を開けると、小さくうなずいて見せた。
それから先を促すように手で合図を送った。
「実は、数か月前のことなんですけど、拓海さんが女の人とペットショップにいるのを見かけたんです——。で、その女の人ってのが、きっとたぶん、拓海さんの元カノさんだと思うんですよね。前に拓海さんが麗子さんと付き合う前まで、舞台を毎回観にきてた人で、打ち上げにも何度か参加してたから、あたしも少しだけ話したことあるんですよ。ペットショップで会ってた人って、たぶんその人だと思います。髪の色とかだいぶ変わってたんですけど、きっと間違いないです。拓海さん、麗子さんと結婚してからも、元カノさんと関係が続いてたんですよ。だって結婚後もその人が舞台を観にきてたの、あたし目撃してるんですから。そのことを拓海さんに言ったら、他人の空似だって誤魔化されましたけど……。麗子さん今、拓海さんに限って浮気なんてすることないって思ってるかも知れないですけど、あたしが撮った動画を見たら、ただの女友だちじゃないってことわかりますよ」
ちょっと待っててください、とリョウは言ってスマホを操作した。
「これです」
麗子は差し出されたスマホを手に取る。
画面中央の、右三角のボタンをぽんとタッチすると動画が再生された。どうやら盗撮がバレないようにと、かなり遠目から撮影された動画のようだ。
通路の奥で、ペットケージを見て回る男女の姿があった。男のほうはキャップを目深に被っているが、背格好や雰囲気から拓海に違いない。隣に立つ小柄な女は、キャップとセルフレームの眼鏡のせいで人相ははっきりしない。身を寄せ合って歩いているが、恋人同士と言い切れるほどではない。狭い通路では、どうしても互いの距離は近くなる。動画は二分ほどで終了した。
「どうです? あたしの言った通りじゃないですか? ペットショップを出たあとも追おうとしたんですけど、すぐタクシーに乗られちゃって、それ以上追えなかったんですよ」
リョウは悔しそうに言った。彼女としては、浮気の決定的場面を撮ったと言い張りたいのだろう。百万円の価値があったと納得してもらいたいのだ。
スマホを返すと、リョウは少し怒った調子で語り出した。
「やっぱりこれって、許されないことだと思うんです。麗子さんみたいな、すごい綺麗な人と結婚しておきながら浮気するなんてこと。拓海さん、麗子さん一筋みたいな顔してて、裏でコソコソと別の女の人と会ってたんですよ。ひどくないですか? 拓海さんきっと、調子に乗ってるんだと思います。いい会社に入れたのも麗子さんのコネだっていうのに……。そうですよね? きっと、何でもかんでも自分の力だって勘違いしちゃって、上昇気流に乗ってると思ってるもんだから、調子に乗って浮気なんてするんですよ。ほんとはあたし、風俗で働いてること親にバラされるの、すっごく怖かったんですけど、でもやっぱり、拓海さんのこと、麗子さんに伝えられてよかったと今は思ってます。だって拓海さんは浮気した罰を、しっかり受けるべきだからなんです。絶対に」
麗子は彼女の話を最後まで聞き終えると、手元のペーパーカップを静かに見つめた。
店内は依然、ほぼ満席だった。新しく来店した客が、空席を探して右往左往している。
だいぶぬるくなったコーヒーを口に運ぶ。ペーパーカップのため中身は見えなかったが、まだ半分以上は残ってるだろうと思った。
ペーパーカップをそっと置くと、麗子は相手の目を見据えて言った。
「そうね、あなたの言う通りかもしれないわね……。でもね、悪いけどリョウさん、これについては、少し気持ちを整理してから拓海さんと話し合いたいから、今日わたしに会ったことは彼には黙っていてほしいの。約束してもらえるかしら?」
「あ、はい。大丈夫です。約束します。でもどうするんですか、拓海さんのこと」
彼女の質問に、麗子は少し間を置いてから答えた。
「そうね。もし本当に浮気してるんだったら、お仕置きが必要かもしれないわね——」
「沢尻さん、太陽の光っていいものね」
麗子は後部座席から空を見上げながら言った。
こうやって太陽の光を浴びるのは数か月ぶりのことだった。
「それで、いくら払ったんですか?」
運転席から沢尻が聞いてきた。
金額を伝えると、彼は少し呆れたような声を出した。
「ほう。あの女、ずいぶんと吹っかけてきましたね」
「いいじゃないの。わたし、ああいう子、嫌いじゃないわ。生きるためには手段を選ばないっていうか、生きることに貪欲っていうか、そういうのって、とっても人間らしいと思うの」
沢尻は、コーヒーの入ったペーパーカップを口に運ぶ。麗子が彼のために、テイクアウトしてきたものだ。
「ですがお嬢様、あの女、これに味を占めて、またタカリみたいな真似をしてくるのでは」
「ええ、その可能性はあるわね」
むしろ、その可能性のほうが高いだろうと思った。
「そのときはどうされるんですか?」
「そうね。また、お金の無心をしてくるのは、あの子の自由よ。でもね、そのあとのことは、責任もてないわ」
麗子はバックミラー越しに沢尻と目を合わせた。
彼の目は、こちらの気持ちを察するかのように妖しい光が宿っていた。
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