沢尻の実力

 数日ほど前から、拓海は麗子と寝室を別にしていた。彼女からの提案だった。弱っている姿を見られたくないというのが理由だった。

 正直、気が楽になった。好きでもない人間と一緒にいることほど苦痛な時間はない。それ以来、毎日ぐっすり熟睡できるようになっていた。きっと、赤の他人と寝室をともにしていたのは相当なストレスだったのだろう。寝室を別にしてからは、死んだように眠れるようになり、悪夢を見ることもなかった。

 麗子の寝室に入ると、彼女が弱々しい笑顔を向けてきた。

 衰弱は着実に進行していた。今では、彼女の父親の主治医でもあった医師が、一週間おきごとに往診しているほどだ。

 頬はこけ、病的な青白さが目立つ。目は赤く充血していて、狂気すら伝わってくる。左腕には点滴がつながっていた。中身は栄養剤だと聞いている。

 拓海は寝室の花を取り替える。毎日のルーティンワークだ。毎日近所の花屋に足を運んでいた。良き夫に見せるためのパフォーマンスの一つだった。

「毎日ありがとう。今日のお花もとってもきれいね」

 新しく活けられた花を見て麗子が言った。彼女の胸元では、ペルシャ猫のサクラが気持ちよさそうに眠っていた。

 それから二人して軽い雑談を交わす。しばらくして、彼女が突然押し黙ったかと思うと、弱々しい口調で言ってきた。

「拓海さん、わたし、もうダメかも……」

「弱気になっちゃだめだよ。やまいは気からって言うだろ」

 拓海は彼女の手をつかんで、声に暖かみを意識して言った。

「でも先生も、原因不明だって言ってるし……。あなたの前で弱気な態度は見せたくないけど、もうわたし、泣くことしかできない……」

「いいよ。気が済むまで泣いたらいい。辛いときは無理して笑う必要なんてないよ。ぼくはずっと君のそばにいるから、思いっきり泣けばいい」

「拓海さんて、本当に優しいのね……。わたしが死んだら、すぐにいい人、見つけてね……」

 麗子は弱々しい笑顔を見せて言った。

「何を言ってるんだ。そんなこと、嘘でも言うもんじゃないよ。大丈夫、麗子は絶対によくなるから」

「そうだといいけど……。ママもわたしを産んですぐに亡くなってるし、母方の家系はみんな早死にしているの。だからきっと、遺伝的に短命なのかもしれない。きっとそうに違いないわ」

 ここで麗子が激しく咳き込んだ。彼女の愛猫が、驚いたようにベッドから飛び降りる。

 拓海は咳で苦しむ彼女の背中を優しくさすってやる。辛そうな咳は、しばらく続いた。そんな姿を間近で見せられると、こちらまで息苦しくなってしまう。同情すら覚えるほどだ。計画のために麗子には死んでほしいと願ってはいるが、苦しんでほしいわけではないのだから——。

 咳が少し落ち着いたところで、拓海は水をグラスに注いで彼女に手渡す。

「ほら。水を飲んだほうがいい」

 麗子はグラスを受け取ると、グラスの中の水を少しずつ喉に流し込んでいく。

 半分ほど残してグラスを返してきた。

「ありがとう……。少し落ち着いたわ……」

「よかった」

 拓海が床に目を向けると、ベッドの下に退避していたサクラが足元にまとわりついてきていた。彼女の喉元をさすってやると、サクラは嬉しそうに喉を鳴らした。

「ほんとにサクラは、拓海さんによく懐いてるわね。人見知りで、パパと沢尻さんにも懐かなかったっていうのに」

 拓海はサクラを持ち上げると麗子の胸元に置いた。彼女が頭を撫でてやると、サクラは気持ちよさそうに目を閉じた。

「ところで、舞台のほうはどう?」

「今はそれどころじゃないだろ。君が回復するまでは、ずっといっしょにいるよ」

 麗子は困ったような表情を見せる。

「そう言ってくれるのはうれしいけど、でもわたしは、演劇に打ち込んでる拓海さんが好きなの。わたしのことで、舞台のほうを疎かにしないで」

「わかったよ。君がそう言うなら、舞台のほうも今まで通りがんばるよ」

 拓海はここで、残り少なくなったガラス製のピッチャーを手に取ると立ち上がる。

「新しい水を入れてくるよ」


 誰もいないキッチンで、ガラス製のピッチャーにミネラルウォーターを注ぐ。

う……」

 拓海はこめかみに手を置く。偏頭痛が襲ってきたからだ。

 ここ最近、偏頭痛に悩まされていた。以前は数か月に一度起こるかどうかだったものが、今では、三日に一回とか二日に一回とかの割合で起こっていた。たかが頭痛ではあるが、原因がわからないだけに多少の不安はあった。

 頭痛が収まってきたところで準備に取りかかる。

 拓海は念のため周囲をうかがい、人影がないことを確認してから小瓶をすばやく取り出す。再度、まわりを見てから小瓶の中の液体を一滴だけピッチャーの中に落とす。そして小瓶のキャップをすばやく閉め、ズボンのポケットにしまって作業は終了した。

 麗子の死期を早められないのがもどかしかった。最近では佐藤が、薬の量を調節して、二年は生かしたほうがいいのではないかと言い出してきていた。確かに、彼の言うことはもっともであった。結婚生活が長く続いたほうが、余計な疑いもかかりにくいのだから。だが、そうと知っても、今からあとさらに一年と数か月も、こんな偽りの生活を続けていく自信はなかった。

 愛しているフリをしつつ、幸せな結婚生活を演じ続けるのは、とてつもなく苦痛なことだった。こちらが本当は愛していないことに、彼女が気づいてるのではないかという不安に常に苛まれてもいた。夫婦仲を良好に見せ続けるのも、あと数か月が限界だと思った。

 佐藤には以前、自信ありげにこう言ったことがあった。、と。だがそれは間違いだった。自分の人生は、結果、人生だっただけだ。もしも、演劇をはじめたばかりの学生時代に、三十を過ぎても役者として成功できないとわかっていたなら、役者の道はあきらめて普通に就職していたことだろう。長らく役者を目指してこれたのは、数年後には成功できるだろうという根拠のない自信があっただけで、決して鉄の意志があったからではない。

「待つことが、こんなに辛いなんてな……」

 拓海はズボンのポケットに入ってる小瓶を布越しに触りながらつぶやいた。

 できればポケットから小瓶をもう一度取り出して、あと一滴か二滴、追加したかった。それだけ死期が早まるからだ。正直、明日にでも、麗子には死んでもらいたかった。今自分に必要なのは、運でも才能でも努力でもなく、我慢という忍耐力だけだった。ところが、その忍耐力が、ここにきて限界にきていた。

 拓海は顔がこわばっていることに気づき、手のひらで顔をゴシゴシとこすった。それからパンパンと顔をはたいて無理に笑顔を作ると、ピッチャーを持って麗子のいる寝室に向かった。

「拓海様、今お時間よろしいでしょうか」

 いきなり声をかけられてビクッとした。危うくピッチャーの水をこぼしそうになった。

 声をかけてきたのは沢尻だった。

「何ですか?」

「例の、ストーカーの件なんですが」

「ああ……」

 拓海は依頼していたことをすっかり忘れていた。

 沢尻から簡単な経緯を聞いたあと、二人していったんキッチンに戻った。

 持っていたピッチャーを棚に置いてスマホを取り出す。

「すごい……」

 思わず感嘆の声が漏れ出た。

 過去のツイッターの投稿をくまなく見ていったが、ストーカー女からの誹謗中傷めいたコメントはすべて消えてなくなっていた。

 沢尻の顔を凝視して聞く。

「でもどうやって……」

「私はただ、拓海様のご依頼を仲介しただけなので詳細はわかりませんが、そういうことを得意とする人間がいるんですよ。ご満足いただけましたか?」

「ああ。想像以上だったよ」

「それはよかったです。ではまた、何かありましたら遠慮なくお申しつけください」

 沢尻は笑みを浮かべて立ち去ろうとした。

 去ろうとする沢尻を拓海は呼び止めた。

「あ、ちょっと待って」

「何でしょう?」

 拓海は財布を取り出すと、そこから一万円札を数枚抜き取って沢尻に差し出した。

「これ、少ないけど」

「いえいえ、それはけっこうですよ。前にもお伝えした通り、先代が残された裏資金があるんで、気にしないでください」

「いや、でも、気持ちなんで」

「いえ。本当に結構ですから」

 沢尻は丁重な態度でこちらの謝礼を断り、立ち去っていった。

 拓海は彼の背中を見送りながら思った。沢尻はプールされている裏資金から、いくらかくすねているのかもしれないなと。だがそれは何の問題もない。それによって拓海が損をするわけではないのだから。むしろ、沢尻が秘密の裏資金から恩恵を受けていることを願った。今後も彼に仕事を依頼するかもしれないから、彼には気持ちよく働いてもらいたかったからだ。

 今回の結果を受けて、拓海は今後はさらに沢尻との関係を強化していこうと思った。いずれ佐藤の件も、沢尻の力を借りることになるかもしれないからだ。

 沢尻の予想以上の実力を知り、拓海は自分が強力な武器を手にしたことを知った。自然と自分の顔がほころんでいくのがわかった。

 拓海は気分をよくしながら、水の入ったピッチャーを持って麗子の寝室に向かった。

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