ルージュ

 二週間後、佐藤が通っているキャバクラの店名がわかった。

 調査費に五十万もかかったが、美穂が佐藤に近づくための、彼の顔写真も必要だったから、興信所に頼るしかなかった。

 佐藤への毎月三十万の出費も痛いのに、リョウへの調査に続いて、今度は佐藤の調査で無駄な出費が続いている。劇団仲間への食事代も毎回出しているため、月百万の小遣いでも足りないくらいだった。

 幸いな点は、麗子が小遣いの使い道について、いっさい詮索してこないことだった。その点は助かっていた。

 今回の調査で、意外なことが判明した。佐藤に、交際相手と思われる女がいることがわかったのだ。もちろん、恋人がいても不思議ではなかったが、拓海は彼のことを独り身だと思い込んでいたために、そこは少し意外でもあった。

 さっそく美穂に連絡をした。

「池袋にある、『ルージュ』っていう店らしい。あいつは二週間の間に、金曜日に二回、火曜日と水曜日に一回ずつ店に行っている」

「だいぶ豪遊してるんだね」

「そりゃそうだよ。毎月、仕事での収入以外に、三十万も入ってくるんだからね。だけどそのうち、遊びがだんだん派手になってきて、三十万じゃ足りなくなると思う。三十万以上要求してくるのも、そう遠いことではないかもしれない。実際、前回会ったときも、そんなことを仄めかしてたくらいだからね」

「それなら早く何とかしないとだよね」

「ああ、その通りだ」

「じゃ、あたしは、その池袋のお店に勤めればいいんだね」

「ああ、頼む。その店に入って、何とか佐藤に気に入られてもらいたい。だけど毎日通う必要はない。あいつは週末の金曜日に行ってるから、とりあえず美穂も、働くのは金曜日だけでいいかもしれない」

「わかった」

「あと、弁護士のことを聞くのは、あいつが美穂に気を許してからでいい。会ってすぐに探りを入れたら、警戒されかねないからね」

「わかった。その辺はうまくやるつもり」

 美穂は馬鹿ではない。きっと言葉通り、うまくやってくれるだろう。

「佐藤が依頼した弁護士がわかったら、何とか方法を考えて、佐藤が預けている書類を回収する。うちの屋敷に、沢尻っていう執事がいるんだが、どうやら裏の人間にコネがあるらしくて、何かあれば何でも協力すると言ってくれているんだ。だから彼に、汚れ仕事は任せられるかもしれない」

「その沢尻って人、信用できるの?」

 美穂が不安そうな声で聞いてきた。

「そうだな。信用できるかできないかって言ったら、信用できないかもしれない。一見、人当たりが良さそうに見えるんだけど、何を考えてるのかわかんないような男なんだ」

「そうなんだ……。でもその人、何でたっくんに協力するって言ってきたんだろ」

「きっとこういうことじゃないかな。麗子が死ねば、ぼくがあの屋敷の当主だからね。事前に媚を売っておこうっていう考えなんじゃないのかな」

「なるほど、そういうことね。なら信用できるんじゃない?」

 だがここで、拓海は考えを改める。

「いや……、でもあの男は、媚を売るとかっていうタイプの人間じゃない……。もしかすると、執事の仕事だけじゃ、物足りないのかもしれない……。わかんないけど」

「どうなんだろうね」

 拓海はここで、興信所から仕入れた別の情報も彼女に伝えた。

「あと、どうやら佐藤には、定期的に会っている女がいるようなんだ。ホテルにも行くような仲のね」

「それじゃあ、彼女がいるのに、キャバに行ってるってことだね」

「彼女、もしくは、セフレってことも考えられる」

「そっか。セフレもあるか」

「あいつは生粋の女好きなんだよ。一緒にいると、それがよく伝わってくる。とにかく、下世話な話しかしないからね」

「ねえ、たっくん……。あたしが佐藤に、例の薬を飲ませたらどうかな……」

「え……」

 突然の提案に、言葉を失った。しかしそれは一瞬ではあったが、良い案に思えた。だが、すぐに危険すぎると判断した。

「いや、それはやめておいたほうがいい。あいつには同じ方法は使えない。なぜなら、あの薬の存在を知ってるからだ。体調の異変に気づいたら、まっ先に身近にいる人間を疑うはずだからね」

「そうだね。それもそうだよね……」

 ここで無言の間が続く。

 拓海が口を開こうとしたタイミングで、美穂のほうが先に口を開いた。今までとは、声のトーンが低くなっていた。

「たっくん、あたし思ったんだけど……。今、たっくんの劇団って、勢いがあるでしょ? だからこのままがんばっていけば、念願だった、役者一本で生活するっていう夢も実現できるんじゃないかって思うの。そうなれば、もうあの女の財産とかに、頼らなくてもよくなるんじゃないかな……」

 何を今さら、と思って、拓海は声を荒げそうになった。

 だが、美穂の言い分もわからないでもなかった。美穂は、常識的な話をしているだけだった。犯罪行為で財を成そうとするなど、まともな人間なら行わないはずだからだ。だが、彼女は現実をわかっていない。努力すればどうにかなると本気で信じているのだ。ところが現実はそう甘くはない。この世界は、中途半端な才能を持った人間には過酷な場所なのだ。

 拓海は努めて穏やかな口調で語りはじめた。

「美穂。今のは、君がぼくの才能を信じてくれているからこその発言だってことはわかっている。確かに今の劇団には勢いがあるよ。でもね、友人知人に声を掛けても、百人以下の会場ですら満杯にできないのが現実だ。このまま続けていっても、数千人規模の会場で開催するのは無理だと思う。そんなこと、とてもじゃないが現実的じゃない。あのね、美穂。人間には限界があるんだよ。認めたくはないけど、ぼくの役者としての実力はその程度だったんだと思う。今まで根拠のない自信だけを頼りにがんばってきたけど、その根拠のない自信ですら今のぼくにはない。だけどね、美穂。ぼくは役者としては成功できなかったけど、幸運にも、人生の勝ち組になれるチャンスだけは手に入れることができたんだ。そしてそのチャンスも、これまで芝居を通じて培ってきた演技力を使うことでつかみとることができるんだ。今ぼくがやっていることは、役者人生の集大成なんじゃないかって思ってるんだ。好きでもない人間を騙すってことは、それなりの演技力が試されるわけだろ? 今ぼくがやってることは、世間の注目を浴びることはないけど、成功後のことを考えると、すごいやりがいを感じてるんだ。観客はいないけど、こんなスリリングな役どころは、世界的な名監督のもとでも演じられないと思うんだ。これは神がぼくに与えた、最高の配役に違いないとぼくは信じてるんだ」

 美穂は黙って聞いてくれていたが、スマホ越しにも、こちらの熱意に心動かされていることが伝わってきた。

「もちろんこの計画が終わったあとも、芝居は続けるつもりだ。才能はないかもしれないけど、芝居は一生続けたいと思っている。そのためにはね、何としても金がいるんだ。金が無ければ、全力で芝居には打ち込めない——。もううんざりなんだ。好きな芝居を続けるために、やりたくもない仕事に従事するのは……。それにいずれ、ぼくら二人は結婚する。当然、子どもも欲しい。男の子と女の子、一人ずつできたら理想だ。でもね、もしもまた、前の生活に戻ったとしたら、生活をするのがやっとで、子どもなんて作っている余裕なんてないよ。仮に子どもを作ったとしても、充分な教育を与えることはできない。私立の学校になんて絶対に行かせられない。それもこれもぼくたちが、一度レールから踏み外した人間には、徹底的に残酷な国に住んでるからなんだよ。わかるだろ? 三十過ぎたぼくに、大企業で働くチャンスなんてない。今麗子と別れたら、コールセンターに舞い戻るしかない。一日中働いても、手取りで二十万そこそこの稼ぎにしかならないんだよ。そんな給料じゃ、子どもを作るなんて、夢のまた夢みたいなもんだろ? だからね、ぼくらには金がいるんだ。ぼくらには麗子の金が必要なんだ。金はいくらあっても困ることはない。わかってくれたかな?」

 電話越しでも、美穂が納得してくれているのが伝わってきた。

 当初、計画を持ちかけてきた佐藤に対して、拓海はあまり乗り気でない風を装ってはいたが、実は佐藤が思っている以上に、拓海はこの計画に最初から賭けていた。今では美穂を幸せにするためには、この方法しかないと固く信じていた。

「たっくんの気持ち、すごいよくわかった……。今やってることは、あたしたちだけじゃなくて、あたしたちの子どものためでもあるんだよね……。だったらあたしもがんばる。何とかその池袋のお店に入って、佐藤に近づいて見せるよ」

 美穂が気持ちを新たにしてくれたことがうれしかった。愛してるという陳腐な言葉で片づけたくなかったが、愛してるという言葉以外は見つからない。

 彼女と二人でいっしょにいることが自然だった。二人で一つという感じだった。きっと美穂も、そう感じていることだろう。だから彼女と離れているときは、とても虚しく感じ、寂しさが募った。美穂が隣にいない生活なんて考えられなかった。これがきっと、俗に言う、ソウルメイトというものなのだろう。

「美穂、今は離れ離れで会えない日が続いているけれど、いつも君のことばかり考えているよ。美穂、この計画が終わったら、一生君を離さないから——」



        *  *  *



 美穂に新たな任務を依頼してから一か月が過ぎた。拓海は進捗を確認するために彼女に連絡をしたが、どうやら難航しているようだった。

「だめ。佐藤はルリって子が気に入ってて、その子ばっかり指名するの。だからまだ、ヘルプでも佐藤に入ったことなくて」

 ヘルプとは、指名したキャストが別の客に呼ばれて席を離れるときに、一時的に、代わりに客の相手をすることをいう。

 美穂の報告を聞き、拓海は頭を悩ませた。なかなかこちらの思い通りにはいかないようだ……。

「その、ルリって女が邪魔なんだね」

「そうなの……」

「わかった。それはぼくのほうで何とかしよう」

 そう言うと、受話口から緊張した声が聞こえてきた。

「たっくん、あまり無茶すると……」

「ああ、わかってる。ぼくだって、あまり乱暴な方法は使いたくない。でも、もうここまできたら、とことんやってやるしかないさ——。だから、とりあえず美穂は、そのルリって女の情報をできるだけ集めてほしい」

「うん、わかった……」

「情報が入りしだい、LINEしてくれ」

「わかった……」

 これまでLINEに関しては、美穂からメッセージを送るのは禁止にしていた。麗子がスマホに表示された通知を見てしまうおそれがあったからだ。拓海から送る場合も、既読がついたらすぐにトーク履歴は削除するようにしていた。しかし、今は佐藤の件もあり、美穂との密な連携が必要不可欠だったから、美穂からの送信も許可するようになっていた。ただし、普通にLINEのやり取りをしては危険だったから、拓海のLINE上では、麗子に美穂の存在が気づかれぬように、美穂の名前を男性の名前に変えていた。プロフィール写真も、性別が判別できないような風景写真に変更させた。さらに、万が一のことを考えて、美穂もこちらにLINEをするときは男性口調にするように指示してあった。また、LINEをする曜日と時間帯も決めてあった。そのとき拓海は、なるべく一人になるように心がけていた。

 ただし、麗子の件が片づくまでは、私的な内容のLINEはしないというルールにしていた。これを徹底しないと、計画に支障が出ると考えていたからだ。

「あの子の情報が入ったら、たっくんは何をするの?」

 美穂が不安そうな声で聞いてきた。

「とりあえず、君が集めた情報をもとに、ぼく自身でさらに調べるかもしれないし、興信所に依頼するかもしれない……。でも、充分な情報が集まったとしても、ぼく一人でルリって子を店に来なくさせるのはむずかしいかもな」

「じゃ、どうするの?」

「状況しだいでは、沢尻の力を借りようかと思う」

「大丈夫なの?」

「直接ぼくが手を下すよりかは安全だろう。彼の口ぶりから察するに、そういうことには慣れてる感じがしたからね。だからルリって女の件は、もっともらしい口実を作って彼に頼むかもしれない」

「気をつけてね」

「ああ、わかってる。あと報告がある。こっちは順調だ。あの女は、確実に弱ってきてる。最近は外出もほとんどしなくなって、寝室で一日中寝たきりでいることが多い」

「よかった……。あともうちょっとだね」

「ああ、そうだ。美穂、もう少しの辛抱だ」

 美穂には伝えていないことがあった。それは、麗子の衰弱に伴い、彼女とのセックスもなくなっていたことだ。麗子は色情狂に近い。いっしょに暮らしはじめてからは毎晩のように求められてきた。体調を崩しはじめてからも、セックスだけはやめなかった。それが今では、性欲すら湧かないほど衰弱しているようだった。

 ゴールは確実に近づいてきている。前進している感があり、気分は自然と高まっていた。

「で、考えたんだが、いっしょに働くキャバ嬢で、厄介な客とかから、ストーカーされてるような子はいないか? もしそういう子がいれば、ストーカーで困っている同僚の子にいい弁護士を紹介したいと佐藤に言えば、信憑性が高まっていいと思う。だから今のうちに、店の子とも仲良くなっておいて、いろいろと情報を収集しておいてほしい——」



       *  *  *



 興信所の調べによると、佐藤が常に指名するルリという女は、本名を西崎結亜ゆあといった。

 出費を抑えるために自力での調査も検討したが、稽古以外での外出は麗子に不信感を与えると思い、今回も何度か利用している興信所に調査を依頼した。

 一週間程度の調査で、五十万ほどの調査費がかかった。痛い出費だった。

 結婚後は、劇団員の食事代はすべて自腹を切っていたが、今さら割り勘にするわけにもいかず、最近では稽古後の食事会を、何かと理由をつけて辞退することも多くなっていた。こちらの経済力を期待している仲間たちには申しわけない気持ちでいっぱいだった。

 店ではルリと名乗っている西崎結亜という女は、rouge_ruri_officialというアカウント名でインスタグラムを開設していた。顔出しもしていて、客から提供されたシャンパンを並べている写真を連日のように投稿していた。フォロワー数は三千人を超えていて、なかなかの人気があるようだ。

 SNSで投稿しているくらいだから、水商売を親にバラすと脅しても効き目はないだろう。また仮に、脅しに使えるようなネタをつかんだとしても、中途半端な脅しをかけて警察に駆け込まれでもしたら大ごとになってしまう。やはりここは、沢尻の力を借りるべきなのか——。


「沢尻さん、ちょっといいですか?」

 拓海は、沢尻を自分の部屋に招き入れた。

 こうやって沢尻に声をかけたのは初めてのことだったが、とくに驚く様子もなく、彼はいつもの落ち着いた態度でこちらの発言を待っていた。一瞬、麗子の顔が頭に浮かんだが、彼女にバレても問題のない依頼だったので、拓海は心配を振り切って言った。

「あの、沢尻さん。心配をかけたくないから麗子には黙ってて欲しいんだけど、実は、昔ぼくのファンだった女の人から、SNSを通じて、脅迫めいた書き込みを受けているんだ……」

 これは事実だった。だが、正直あまり気にしてはいなかった。最近では、ろくにSNSも見ていなかったし、他に悩むべき心配事がいっぱいあったからだ。

「それで以前、沢尻さんが言ってた、その……、裏の人たちの、助けを借りられないかと思って……」

 要件を伝えると、沢尻は笑顔を見せて答えた。

「そういうことでしたか。わかりました、お任せください。私が窓口になりますので、詳しい話を聞かせてもらえますか」

 だがまずは、依頼をする前に確認すべきことがあった。

「えっと、その前に聞きたいんだけど……。その、報酬のほうは……」

 恐る恐る聞くと、沢尻は笑顔を浮かべて肩をすくませて見せた。

「拓海様、その点は気にしなくて大丈夫ですよ。前のご主人様が、そういう時のための充分な資金をプールされておりましたから。私がそこから必要な分だけ引き出しますので、ご安心ください」

 拓海は金の心配がないと聞いてほっとした。これ以上出費が増えたら赤字になってしまうところだ。

 とはいえ、今回の依頼は、沢尻の実力を試すためのものだった。本当は、ルリと名乗る西崎結亜の件を頼みたかったのだが、まだ沢尻を信頼していいのか判断がつかなかった。だから当たり障りのない依頼をして様子を見ることにしたのだ。結果しだいでは、西崎結亜の件も、沢尻に頼むかもしれない。

 結果が待ち遠しかった。



       *  *  *



 拓海はスターバックスのレジに並んでいた。

 隣のレジに視線を向けると、男性客がキャッシュトレイに投げるように千円札を置いた。拓海はそれを見て不快な気持ちになった。

 男は全体的にだらしない格好をしていて、店員の問いかけにも無愛想な顔で面倒くさそうに答えている。三十歳前後に見えるが、すでに人生を詰んだ感が全身から漂っていた。

 拓海は注文したドリンクをカウンターで受け取ると、壁際の一人掛けの席に座った。丸テーブルと椅子がかなり高めの席で、椅子に座ると床に足が届かなくなった。

 店内は満席だった。席が空いていてラッキーだった。

 拓海は伸ばした前髪で目元を隠すようにしてから、スマホを見ているフリをしつつ、数メートル離れた席に座っている女性客の横顔を確認する。キャバクラでルリという源氏名で働く、西崎結亜という名の女だった。店で人気嬢なだけに、小顔で、とても整った顔立ちをしていた。

 西崎結亜は、店内中央の二人掛けの席に座っていた。スマホをいじりながらフラペチーノをすすっている。派手な装いとフラペチーノは実にマッチしていた。

 拓海は彼女のマンションからずっと尾行してきていた。尾行中からすでに周囲は薄暗くなっていたし、彼女は一度も後ろを振り向かなかったから尾行は簡単だった。


 今日は金曜日だった。佐藤が西崎結亜が勤めているキャバクラに顔を出す可能性は高かった。彼女の出勤を阻めば、美穂が、佐藤の接客をする可能性が高まる。そのための行動を拓海は起こす気でいた。

 最初は沢尻の力を借りるつもりでいたのだが、リスクの少ない簡単な方法を思いついたため、自分自身で実行することにした。彼女の出勤を妨げるだけなら、そんな大ごとにする必要はない。

 彼女が席を立った。ほぼ同時に、拓海も口をつけていないペーパーカップを手に持って立ち上がる。西崎結亜は店を出るとスマホを見ながら歩いていく。スマホに意識が向いているのは好都合だ。また、歓楽街で人通りが多いのもこちらに有利に働く。拓海は歩きながら、パーカーのフードを目深に被った。人相を隠すためだ。西崎結亜が勤務するキャバクラまで三百メートルほど。あまりのんびりはしてられない。

 少し早歩きになって、西崎結亜との距離を詰めていった。ペーパーカップの蓋を外し、中に入っていたコーヒーを彼女に向けて浴びせた。彼女は一瞬、何が起こったかわからないような顔をして背後を振り返ったが、拓海はそのまま何事もなかったかのように素通りして人混みに紛れていった。

「何よこれー!」

 背後から西崎結亜の悲鳴にも近い声が聞こえてきたが、拓海は立ち止まることなく通行人を押し分けて先を急ぐ。心臓がバクバクと音を立てていた。早く安全地帯まで退避したかった。あらかじめ決めていた細い路地に入ると、そこからは半ば走るような感じで進んでいった。一度振り返って背後を確認する。誰も追ってきてはいなかった。ほっとする。だがまだ心臓は高鳴っていた。細い路地を抜けて左折する。人通りの多い歩道に出たところで、やっと気を緩めることができた。

 これで西崎結亜は、今夜は一度自宅に戻らざるを得ず、きっとシャワーも浴びるはずで、仮に出勤したとしてもだいぶ遅い時間になるだろう。おそらくあんな目に遭ったのだ、今日はもう、出勤を控える可能性も高いと思われた。

 あとは美穂の奮闘を祈るばかりだった。彼女の美貌なら、西崎結亜の代わりは充分に務まるはずだと拓海は信じていた。

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