密会

「拓海さん。それじゃ、家のこと、お願いね」

 麗子の言葉に、拓海は笑顔でうなずいて見せた。

 今から一泊二日の泊まり込みで、麗子は人間ドックを受けにいく。ここ最近ずっと、原因不明の体調不良に悩まされていたからだ。

 当然、拓海には、不調の原因はわかっていた。例の薬が効いているからだ。あとは精密検査でどのような結果が出るかにかかっていた。原因が特定されなければ、このまま計画は続行だ。

 彼女から付き添う必要はないと言われていたため、予定通り、午後は丸々自由な時間ができる。美穂と心ゆくまで愛し合うことができるのだ。自然と心が浮き立ってしまう。

「でも拓海さん、何か問題があったらすべて沢尻さんが対応するから、あなたは今まで通り、お芝居のことだけを考えてくれたらいいのよ」

「わかった。でも本当に付き添わなくて大丈夫かい?」

「平気よ。小学生の子どもじゃないんだから」

 麗子は笑って答えた。

 そこへ沢尻が声をかけてきた。

「お嬢様。そろそろお出になったほうがよろしいかと」

「そうね。じゃ、拓海さん、あとはよろしくね」

 麗子が屋敷を出ていったとたん、胸が激しく高鳴った。今日は長い時間、美穂といっしょにいられる。しかし、麗子が明日まで帰って来ないとはいえ、さすがに一晩帰らないとなると、使用人から麗子の耳に入るおそれもある。そのため、一晩中いっしょにいることはできないが、だいぶ羽を伸ばすことはできる。

 屋敷を出てすぐにタクシーを拾った。麗子と出会うまでタクシーを利用することは稀だったが、今は金銭的に余裕があるため、迷わずタクシーを利用していた。

 しかし、毎月佐藤に三十万円もの大金を支払うようになっていたため、節約のために、タクシーの利用は控えようかと思うようにもなっていた。とはいえ、一度タクシーの利用に慣れてしまうと、電車の利用を躊躇してしまう自分がいるのも事実だった。電車を利用すれば、マナーが悪い人間の一人や二人は必ず車両内にいて、確実に不快な思いをする。要するに、金がなければ、いやな思いをするということだった。

 麗子と暮らすようになって、貧乏は悪だという思いが以前よりも強くなっていた。貧乏体験も成功すれば美談にできるが、経済的苦境が長く続くことは、決して健康的とはいえない。貧乏生活も短期間であれば若さでカバーできるかもしれないが、慢性的な金欠状態は、少しずつ人の心を疲弊させていく。経済的余裕がなければ、心にも余裕は生まれにくい。逆に経済的な余裕ができれば、おのずと心にも余裕が生まれてくる。その証拠に、麗子と結婚して経済的な不安がなくなった今では、街中で遭遇するクズに対しても優しくなれる自分がいた。肩をぶつけられても、昔みたいに腹を立てることはなかった。経済的に充たされると、人は自然と寛容になれる生き物なのだ。

 金が人生のプライオリティーの上位にくることは間違いない。最上位と言っても差し支えないくらいだ。金があれば、以前の生活では考えられなかったタクシーでの移動も可能となる。金があればクオリティ・オブ・ライフ生活の質は、飛躍的に向上するのだ。

 拓海は、タクシーで美穂のもとに向かいながら金のありがたみを再認識した。

「人生、金がすべてだな……」



       *  *  *



「どう、順調?」

 美穂が歩きながら聞いてきた。

 互いにキャップとマスクで人相を隠しながら歩いていた。二人で歩く歩道は、交通量の多い幹線道路に面していた。

「ああ。順調だよ」

 拓海は彼女の頭に手を置いて答えた。

 向かっていたのは、ペットショップだった。美穂が行きたいと言ったからだ。とはいっても、今のアパートではペットは飼えない。だから動物園にでも行くような感覚だった。ところが、ペット可の物件に引っ越しても、美穂はペットショップでペットとなる動物を買う気はなかった。保健所に捨てられたペットの里親になるつもりだからだ。彼女の優しさが知れる一面といえた。

 美穂が歩きながら聞いてくる。

「あの女が死んだら、お金はすぐに、たっくんのものになるの?」

「すぐってわけにはいかないらしい。遺産を相続するための手続きがあるからね。沢尻っていう麗子の秘書が手続きなどをしてくれると思うけど、さすがに、急いで手続きしてくれとも言えないだろうしね」

「そりゃそうだよね。あと、死んだあとも、そのお屋敷に住み続けるの?」

「いや。あの屋敷は広過ぎる。できれば、あの屋敷は手放して現金化したい。ぼくと美穂、それに子どもが二人できたとしても、ちょっと広めのマンションで充分だろう」

「そうだね。そんな大きなお屋敷じゃ、掃除が大変そうだものね」

「そう。広けりゃいいってもんじゃないからな」

「ほんとそうだよね」

 目的のペットショップにつくと、美穂は表情を一変させた。子どものような無邪気な顔になり、愛くるしい仔犬らを見て、はしゃいでいる。拓海は彼女の笑顔を見て、危険を冒してでもいっしょに外出して正解だったと思った。彼女は一途に自分のことを想ってくれている。自分にとって、一生を賭けて大切にすべき女性だった。

 とはいえ、はじめから美穂に惚れ込んでいたわけではなかった。交際当初は軽い気持ちで付き合っていた。それが交際して二年が過ぎたころには、もう彼女なしでの生活は考えられなくなっていた。よく、ミュージシャンや俳優が売れたとたんに、苦楽をともにしてきた妻を捨て、若い女優やタレントに乗り替えるというニュースを聞くが、拓海は自分だけはそんなことはしないという確信があった。仮に役者の世界で大成したとしても、絶対に美穂を捨てることはしない。一生を添い遂げる決意でいた。だからこそ、美穂を幸せにするためにも、麗子の件を成功させる必要があった。

 計画は、ここまでのところ順調だった。真意を悟られることなく、良き夫を演じられている。屋敷で働く使用人たちからのウケもいい。だから麗子が病死しても、疑いが自分にかかることはないと楽観視していた。

「きゃっ、この子、かわいい!」

 美穂が目を輝かせながら、プードルがいるショーケースの前で声を上げる。

 その姿を見て拓海は思った。どんなことがあっても、彼女を愛し続けたいと——。



       *  *  *



 来月公演される舞台のために稽古場に向かった。

 足取りは軽かった。先日、美穂と半日いっしょにいられたおかげで、精神的にリフレッシュできていたからだ。

 ペットショップに行ったあとに軽く食事をして、その後、ホテルのスイートルームで何度も愛し合った。その日は彼女のほうが積極的だった。いつもと違った場所と環境が彼女を解放的にしたのかも知れなかった。行為の余韻は、数日経った今でも残っていた。

 稽古場に顔を出すと、すぐにリョウが近づいてきた。拓海は笑顔で迎えるが、彼女の顔に笑みはなかった。おや、と思う。

「拓海さん、ちょっといいですか」

 他の者に聞かれたくない話らしく、彼女に壁際まで連れていかれた。ところが、彼女はすぐには要件を切り出さなかった。リョウは少ししゃくれ気味の顎に手を置いたまま、考え込むようにしばらく黙っていた。

「リョウちゃん、どうかした?」

 彼女はなおも黙っていたが、数秒後、意を決したように顔を上げると口を開いた。

「あの、拓海さん、数日前なんですけど、前の彼女さんとペットショップに行ってましたよね」

「え——!?」

 予想外の言葉を投げかけられ、滑稽なほど目を泳がせてしまった。瞬間、自分の軽率な行動を悔やんだ。今になってようやく思い出す。あのペットショップは、リョウから教えてもらっていたことを——。

 迂闊うかつだった——。だが、これまで劇団の仲間とは、一度も街で遭遇したことはなかったというのに……。運が悪いにもほどがある。

 言いわけしようにも、すぐに言葉は出てこなかった。

「あたし、すぐに気づきましたよ、拓海さんだって。あの日、いつも着てるジャケット着てたから。あとやっぱ、前に舞台来てた女の人って、前の彼女さんだったんですね」

 人違いだと言いたかったが遅かった。ここまで動揺した姿を見せてしまっては取り繕いようがない。それに、言いわけは通用しないとでもいうような、断固たる態度がリョウにはあった。さらに表情から、相手が何を求めているかもすぐに察しがついた。

「これ、脅迫とかじゃないんですけど、あたし今、リボ払いの元金がまったく減らなくて困ってるんです……。それで拓海さんに、少し協力してもらえたらなって」

 リョウは平然とそう言ってのけた。

 動揺している中、拓海はリョウの中に佐藤と同じ匂いを嗅ぎとった。ちらっと覗いた瞳の中には、佐藤と同じ、狡猾な光が宿っていた。こういう脅迫まがいのことを平気でできる人種は、人を傷つけても何とも思わないのだろう。いじめの加害者に多いタイプに違いない。

 拓海は平静を装うのに苦労した。予期せぬ出来事に、今はどう対処していいのかわからなかった。うまく頭が働かずにいる中、唇の震えを抑えながら口を開いた。

「わかった……。お金のことなら、いくらか協力できると思う……」

「助かります」

 リョウは笑顔を見せると足早に去っていった。

 拓海は彼女の後ろ姿を見ながら、片づけなければいけない問題がまた一つ増えたことに憤りを隠せなかった。

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